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ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)主祷文(「天にまします」)の解説 第7の願い 我らを悪より救い給え

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アヴェ・マリア・インマクラータ! 愛する兄弟姉妹の皆様!   トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について 第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
第2の願い「御国の来たらんことを」
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え 第5の願い 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え 第6の願い 我らを試みに引き給わざれ を既にご紹介いたしました。   今回は、その続き
第7の願い 我らを悪より救い給え
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。  

第7の願い 我らを悪より救い給え

230.天主の御子が当の神的な祈りの結びとされた、この最後の祈願は、他の全ての祈願をいわば総括するものです。事実主は、この祈願の重要性と力とを示すべく、この世を去る前に人々の救いのために御父に祈られた際、「彼らを悪より救い給え」1 という同じ言葉をもってお祈りになられました。したがって、主が[このように祈るべしという]戒律をもって私たちに課し、かつご自分の模範によって確証されたこの祈りは、他の全ての祈願の価値と意味合いとを含んだ要約とも言うべきものです。なぜなら、聖チプリアノが述べているように、この祈願の含むものを得たならば、それ以上何も祈り求めるべきものは残らないからです。事実、一旦悪に対する天主の助力を願い、かつそれが得られたならば、私たちは世と悪魔とが企てる一切のことに対して無事かつ安全です2 。したがって、かくも重要な当の祈願を説明するにあたって、司牧者は細心の注意を払わねばなりません。

§I.いかにこの祈願を為すべきか
231.しかるに先の祈願と当の祈願の違いは、前者において私たちは罪を避ける恵みを願うのに対して、後者において私たちは、(罪に伴う)罰から解き放たれることを願う点に存します。
232.ここで信徒らに、彼らがどれほどの難儀と災厄(さいやく)とに打ちひしがれ、またいかに天の助力を必要とするかを指摘するには及びません。なぜなら人の生涯がどれほど多くの悲惨事にさらされるものであるかは、宗教的および世俗的著者がこぞって書きつらねているのみならず、自らの、あるいは他人の経験からこの事実を理解しない者は、およそ一人としていないからです。忍耐の模範であるヨブが残した次の言葉が、いかに当を得たものであるかは、万人の解するところです。すなわち、「女から生まれた者は、その日々は短く、しかも労苦に満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ、影のように消え去って、とどまることがない3 」のです。事実、何か特定の煩(わずら)いないしは難儀を伴わなく過ぎる日は、一日としてなく、「一日の苦労は一日で足りる4 」という主のみ言葉は、このことを裏付けています。さらにまた、日々十字架を担い、ご自分に従うようにとの主のご勧告5 も、人間生活の有り様を浮き彫りにするものです。
233.したがって各人が、いかにこの世の生活が苦難と危険に満ちたものであるかを感じ取るため、天主に諸々の悪から解き放ってくださるよう願うべき旨信徒に諭(さと)すことは、甚だ容易です。事実、自らをすでに苦しめている、あるいは己が身に降りかかろうとする危害から免れる願望および希望ほど、人々の心を祈りに傾けるものはないからです。しかるにこれは、災厄の中におかれた際、天主の助力に寄りすがる自然の傾向が人の心にあるからです。「主よ、その顔を恥辱で満たされよ。かくして彼らは御名を呼び求めん6 」という聖書の章句も、このことに因を発しています。
234.しかるに、人々は危難および災厄の只中に置かれた際、天主の御(み)助けをおよそ自然に祈り求めるものであるとは言え、彼らの救霊がその忠実と賢明とに委された者7 は、どのようにかかる祈りを為すべきかを教えなければなりません。
235.と言うのも、主キリストのお命じになったことに反して、この祈りの順序を引っ繰り返す者たちが少なからずいるからです。なぜなら「苦悩の日に、御自らの許(もと)に馳せ来(きた)る8 」ようお命じになるその同じ主は、祈る際に守るべき順序をもお教えになったからです。すなわち主は、私たち自身が悪から救われるよう願う前に、先ず第一に天主の御名が尊まれる9 こと、その御国が来たること、次いでその他の願いを、いわばこの(主要な)願いに至るための一種の階段として唱えるようお命じになりました。しかしながらある者たちは、もし頭、わき腹、ないしは足が痛むなら、あるいは財産の損失を被る場合、敵からの脅しを受け、あるいは危険にさらされるとき、もしくは飢饉、戦争または疫病に見舞われるならば、主の祈りの階段ないしは段階を無視して、当の悪から救われることだけを願います。しかるに、このような祈りの仕方は、主キリストが、「先ず天主の御国を求めよ10 」と仰せになってお命じになったことに反します。
236.したがって、正しく祈る者は、艱難幸苦およびその他諸々の害悪を己が身から遠ざけてくださるよう祈る際も、これを天主の栄光に帰するのです。かくしてダビドが「主よ、御身の怒りで私を罰し給うな11 」と祈った折、自分がこう祈るよう促した動機、すなわち天主の栄光を切望するがために当の願いを為すものであることを示すべく、こう続けています。「死の中に御身を思い出す者はなく、冥土で御身を賛える者があろうか12 」と。また彼が主に、憐れみを乞うたときも、「私は悪人らに御身の道を教えよう13 」とつけ加えています。
237.このような祈りの仕方および預言者ダビドの例に倣うよう信徒を励まし、かつ同時に、異教徒の祈りがいかにキリスト教徒の祈りと異なるかを示さねばなりません。たしかに異教徒も、天主に病気ないしは怪我から回復すること、また自らを現に苦しめる、あるいは脅かす害悪から救われるよう祈るのですが、当の諸悪からの救出に対する主な希望を、自然の、あるいは人間の技術によって備えられた治療策に置くのです。かくして誰かから治療薬を受けたならば、これが魔術もしくはまじないによって、あるいはまた悪魔のはたらきによって作られたものであったにせよ、それによって健康回復の望みがあるかぎり、何のためらいもなくこれを用います。
238.しかるにキリスト教者の態度は、まるで異なります。病気およびその他の逆境において、キリスト教者は自らの無事安寧を得るために、天主のみを頼り、拠り所とします。唯天主だけをあらゆる善の源かつ自分の解放者と見なし、敬うものだからです。したがって治療薬に内在する効力は、天主に由来するものであること、また当の薬が病人の身に効能を及ぼすのは、天主が嘉(よ)しとされる限りにおいてのみであることをいささかも疑いません。実に天主こそが人類に、病者を癒すために医薬をお与えになったのだからです。「主は地から薬草を生えさせ、賢者はこれを軽んじない14 」という集会の書のくだりも、この意味に解さねばなりません。
したがってイエズス・キリストにつき従い、これに身を捧げた者は、健康を回復する主な希望を、治療薬自体にではなく、医薬の創り主である天主にこそ置くのです。
239.それゆえ医薬に信頼しきり、天主にいささかの助力をも願わぬ者を聖書は咎めるのですが15 、これとは逆に、天主の法に従って生きる者は、天主によって病の治癒のために定められたという確証が得られない治療法については、これによって健康回復の望みがあったにせよ、これを魔術ないしは悪魔の手管(てくだ)として退けます。
240.したがって信徒が天主に信頼を置くよう励まさねばなりません。なぜならいと仁慈深き父なる天主が諸々の悪から免れることを願うようお命じになったのは、ご自身がお命じになったというその事実自体をとおして、願うことが聞きとどけられる望みを抱くために他ならないからです。聖書中には、このことを示す数多くの例が見られますが、論拠によって当の望みを抱くよう促しがたい者らも、数多の例証によってかかる望みを抱くことを余儀なくされるでしょう。実にアブラハム、ヤコブ、ロト、ヨゼフ、ダビドは天主の仁慈の雄弁な証人です。新約聖書においては、敬虔な祈りによって大きな危難から救われた者たちの例が枚挙のいとまもないほどあり、あえて言及するには及びません。
したがって、ここでは、もっとも弱い者の心をも強め得る、預言者ダビドの次の章句を引用するにとどめます。すなわち「義人らは叫び、主はそれを聞き、全ての苦悩から彼らを救い出される16 」のです。

§ II.― いかなる悪から救われることを願うものであるか
241.次に、この祈願の意味および性質を示し、信徒が、当の祈願をとおして願うのは、どれこれの区別なく、全ての(害)悪から解放されることではない旨理解するよう、配慮せねばなりません。なぜなら、一般に悪として見なされつつも、これを被る者にとって実り多い事物があるからですが、この例として、使徒パウロに与えられた「刺(とげ)」を挙げることができます。17  この試練が聖パウロに課されたのは、天主の恩寵の御助けによって、彼の徳が弱さの中に完成されるがために他なりませんでした。
それゆえ、この種の害悪の効用を知る敬虔な信者は、大きな喜びをもってこれを受け入れ、これを取り除いてくださるよう天主に願おうとは、思いも及びません。
242.したがって、霊魂にとっていかなる利益をももたらさない悪のみを、私たちの許から遠ざけてくださるよう祈らねばなりません。その他の悪については、何か有益な実りが生じ得るかぎりにおいて、これらが取り除かれるよう祈ることは、控えるべきです。したがって、この祈りが真に意味するところは、罪および誘惑の危険から解放され、かつ内的、外的な悪から救われること、水難、火難、落雷から免れ、作物が雹(ひょう)に打たれず、かつ私たち自身も飢饉、動乱、戦争に見舞われないよう願うということです。私たちはまた、諸々の病気、疫病、災害、監禁、投獄、国外追放、裏切り、計略および人の生活を甚だ脅かし、圧迫するその他全ての災厄(さいやく)を私たちの許から遠ざけ、最後にあらゆる罪過と悪行の原因を取り除いてくださるよう天主に願います。
しかるに私たちは、誰もが悪であると見なすこれらの事から守られるよう祈るのみならず、富、名誉、健康、体力および生命自体という、およそ皆が善いものであると見なすものもが、禍に転じ、私たちの霊魂の滅びの元とならぬよう願います。
さらに私たちは天主に、不測の急死に遭うことも、天主の怒りを買うこともなく、また天主を尊ばぬ者らを待ち受ける懲罰から免れ、煉獄の火に焼かれることなく、またそこで苦しむ者たちが解放されるよう、敬虔に信心深く祈ります。
ミサ聖祭および[諸聖人の]連祷において「過去、現在、および将来の悪から救い給う18 」よう願わせる教会は、かかる意味に、主祷文中のこの祈願を解しています。
243.しかるに仁愛深き天主が私たちを悪から救われる仕方は、一通りではありません。事実、ある場合天主は私たちに差しかかる禍を退けられます。かくして天主は、シケムの民の殺戮(さつりく)19 のために生じた敵対勢力から、かの偉大な大祖ヤコブをお救いになりましたが、これは「天主の恐れが、周りの全ての町々に覆いかかったので、去り行くヤコブの子らを追いかけはしなかった20 」と、創世の書にあるとおりです。
事実、主イエズス・キリストと共に天の御国で君臨する至福の者たちは皆、天主によって一切の悪から救われたのです。
しかるにこの地上で遍歴の途上にある私たちについては、天主は全ての難儀から解放ことはよしとされず、ただその内のいくつかから私たちをお救いになります。
244.とは言え、天主が時として逆境に打ちひしがれる者たちにお与えになる慰めは、全ての悪からの解放に準ずるものです。預言者ダビドが「私の心の悩みが増すとき、御身の慰めが魂の喜びとなった21 」と述懐するのも、かかる慰めを指してのことに他なりません。
天主が人々を悪からお救いになるのは、この上ない危機に陥った者たちを無事安全に保護される際でもあります。これこそ、燃えさかるかまどに投げ込まれた3人の若者および[獅子の穴に入れられた]ダニエルに起こったことであり、炎は若者らを少しも害さず22 、ライオンもダニエルに何の危害も加えませんでした23 。
245.大聖バジリオ、聖ヨハネ・クリゾストモ、および聖アウグスチヌスの解釈によると24 、悪魔こそ、当祈願中の「悪」という言葉が特に指すところに他なりません。悪魔こそ人々の罪過、すなわち罪と悪行との元凶25 であり、また天主も悪人および不敬な者を罰するために彼をお用いになるからです。実に天主こそが、人々に、彼らが自らの罪のゆえに被る一切の害悪をお送りになる26 からであり、聖書中の次の章句は、その意味に解釈するべきものです。「主がされないのに、街に災いが起こるだろうか。27 」「私は主であり、ふたりとないもの。私は光をつくり、闇を生じさせ、平和をもたらし、悪をつくり出す。28 」29 
悪魔が「悪」ないしは悪者30 であると呼ばれるのは、私たちの側では、彼にいささかの害をも加えなかったにも関わらず、私たちにたゆまぬ戦いをしかけ、決して止むことのない憎悪に駆られて私たちを責め苛(さいな)むためでもあります。もし彼が、信仰の鎧と廉潔(れんけつ)の楯に守られた私たちに危害を加えないときも、外的な悪をとおして私たちを試み、かつあらゆる手段を用いて私たちを煩わすことをやめません。このため私たちは天主に悪(者)より救い給うよう祈るのです。31 
246.しかるに私たちは「悪」(単数形)より救い給うよう祈るのであり、「諸々の悪」(複数形)より救い給えとは祈りませんが、これは、隣人からもたらされる種々の悪は、その張本人、ないしは扇動者たる悪魔[ないしはサタン]に帰するべきであるからです。したがって私たちは隣人に対して憤るかわりに、人をして私たちに悪を為すようけしかけるサタンにこそ、私たちの憎悪と怒りとを向けるべきです。
それゆえもしあなたが父なる天主に祈るとき、隣人があなたに何らかの害を為していたとすれば、あなた自身が悪から、すなわち当の隣人があなたに加えた危害から救われることのみならず、当の隣人を、人々を過ちへと誘い入れる悪魔の手から救ってくださるよう祈るようにしてください。
247.次に、もし祈りと懇願にも関わらず、私たちが害悪から解放されない場合、これを忍耐強く堪えることが天主の御旨にすこぶる適うことを思って、私たちを悩ます当の悪を甘んじて耐え忍ぶべきである旨、心得ねばなりません。したがって天主が私たちの祈りをお聞き入れにならないことを見て、憤(いきどお)ったり悲しんだりすることは、全くふさわしくありません。却って私たちの目に良いものと映ることではなく、天主が良しとされることこそが有益かつ便宜に適うものであると見なして、一切をその御旨とご意向とに沿うようしなければなりません。

§ III. ―忍耐強く害悪を忍ぶべきこと
248.最後に敬虔な聴衆(信徒)に、この世の人生の歩みにおいて、彼らに降りかかるあらゆる類の禍と艱難とを、平穏な心で耐え忍ぶにとどまらず、喜んで受け入れる心構えを持つべきことを諭さねばなりません。「キリスト・イエズスにおいて敬虔に生きようとする者は皆、虐(しいた)げを受ける32 」からです。実に私たちは、「多くの苦難を経て天主の御国に入らねばならない33 」のであり、また「主キリストも、これらの苦難を耐え忍んで、しかる後その栄光に入るべきであった34 」のです。なぜなら僕は主人に優るものではなく35 、聖ベルナルドの述べるように、茨の冠を冠(かむ)った頭の下で肢体が過敏であるのは、恥ずべきことだからです。36  
この点について、私たちはウリアの美しい例に見習うべきです。家に留まるよう強いるダビド王に、彼はあえて「天主の聖櫃とイスラエルとユダとは、あばら屋に住んでいます。それなのにどうして私が家に帰れるでしょうか!」と答えたのでした。37 
私たちが、これらの考察および思索によって、ふさわしい心構えで祈りに臨むなら、たとえ私たちを四方から取り囲み、襲い来る害悪から、燃えさかるかまどの中でいささかも火に焼かれなかった3人の若者のように38 完全に守られることがなかったにせよ、少なくともマカベ一族のように39 、逆境を雄々しく毅然として耐え忍ぶ恵みを確かに受けることができるでしょう。
侮辱と責め苦の最中にあっても、鞭打ちの刑を受けた際、イエズス・キリストのために辱められるのに足る者とされたことを大いに喜んだ聖なる使徒たちの例40 に倣うこととしましょう。そしてかかる心構えをもって、私たちはこの上ない喜びの中にこう歌いましょう。「権力者たちは理由なく私を責める。だが、私が畏れるのは御身のみ言葉。私はみ言葉に喜ぶ、大量の分捕り品を得た者のように。41 」

【注】
1  ヨハネ 17章15節
2  Lib. de Orat. Dominic.
3  ヨブの書 14章1-2節
4  マタイ6章34節
5  ルカ9章23節
6  詩編 82 17節
7  司牧者のこと。
8  詩編 49 15節
9  原文では「聖とされる」(sanctifcaretur)。
10  マタイ 6章33節
11  詩編 6 1節
12  詩編 6 6節
13  詩編 50 15節
14  集会の書 38章4節 
15  歴代の書下 16章12節 
16  詩編 33 18節
17  コリント人への後の手紙 12章7節
18  ミサ通常文、主祷文直後の司祭の祈り。
19  訳者注 太祖ヤコブの娘ディナは、カナアンの地にあるシケムの街を見物しに行った際、当地の族長の子シケムによって陵辱された。憤慨した兄たちは、奸計によって当地の男たちを残らず虐殺した。創世の書 34章
20  創世の書 35章5節
21  詩編 93 19節
22  ダニエルの書 3章
23  ダニエルの書 6章(22節)
24  Basil. in homil. Quod Deus non sit auctor malorum : Chrysost. homil. 20 in Matth. :  Aug. De eccles. Dogmat. cap. 57.
25  訳者注 ないしは「扇動者」。ラテン語原文では 、英語の<author>および仏語の<autheur>の元となる <auctor>という語が用いられている。(本文第246項で、「張本人」と訳したのも、この同じ言葉である。) しかるに罪の直接の動作主が、これを犯す当の人であることは、自明の理である。たしかに、悪魔は悪い思い、行いに誘(いざな)うことによって罪の誘因たり得るが、これに同意して罪を犯す者の責任を帳消しにするわけではない。
26  訳者注 前文のとおり、往々にして悪魔を介して。
27  アモスの書 3章6節
28  イザヤの書 45章6-7節
29  訳者注 聖ブルノ(シャルトル会の創立者)は、この解釈に注意を要する章句を、詩編88(13節)の注解において次のように解説している。「『御身は北風と海とを創り給うた。』すなわち天主は悪魔とその配下とを据え置かれ、(ご自分のお定めになった目的のために)秩序付けられるのであるが、これはイザヤ書(45章7節)中の、『私は平和をもたらし、悪をつくり出す。』という章句と軌を一にするものである。しかるにこの章句が意味するところは、天主が悪の原因(auctor)であるということではなく―事実、天主から何か悪い物が生じ出ると言うことは許されない―、却って天主が悪をつくり出される、即ち秩序付けられる、つまり当の悪自体は、悪魔および不敬な者たちから生じ来るのであるが、この悪を、ご自分に従う者たちに何らかのかたちで益となるように秩序付けられる、ということである。」 (S. Bruno. Expositio in Ps. 88)
30  ギリシャ語原文およびラテン語―当要理もラテン語で執筆されたのですが― では、「悪(より)」と訳されている言葉は、「悪」および「悪い者」の、両方の意味に解し得る。(ラテン語訳主祷文における<(a) malo > 「悪(より)」 は、中性名詞(悪、悪いこと・事物)でも、男性名詞(悪者)でもあり得るため。)
31  Chrysost. hom. 20 in Matth. et hom.5
32  ティモテへの後の手紙 3章12節
33  使徒行録 14章21節
34  ルカ 24章26節
35  ルカ 6章40節およびヨハネ 13章16節
36  Sermo 5 de omnibus Sanctis
37  サムエルの書下 11章11節
38  ダニエルの書 3章49節
39  マカベの書前・後 特に前の書2章15節以下を参照。
40  使徒行録 5章40-41節
41  詩編 118 161節


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