アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。
今日は聖アルフォンソによる「私審判の宣告について」の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。」
【私審判の宣告について】の黙想
その1
平素から主を愛して、心は世間の物に執着せず、苦しみを恐れず、辱めを喜び、身を責めこらし、ただ一心に主の御旨を果たしていた人は、審判の際、如何なる慰めを覚えるであろうか。
「来たれ、善にして忠実なる僕よ、汝の御主の喜びに入れ」(マテオ25-21)という有難い御言葉を賜る時の喜びを思え。「ああ私は救われた! いくら喜んでも躍り上がっても足りない! もうこれからは救霊を失う気遣いは無い!」と思うときの嬉しさは、ああ、誠にいかばかりであろう!
これに反して大罪を抱きながら現世を立ち去った霊魂は、まだ主の御口より何の宣告も下らない前に、早や我と我が身に地獄の罰を言い渡すであろう。
主よ、私は主に背いて大罪を犯す毎に、そんな不幸の身となったのである。憐れみの天主よ、主はかの恐るべき審判の暁に、私の裁判官となられるのであるが、しかし、今は私の救い主、私の父君であります。真心から罪を悔い改めさえすれば、いつでも御赦し下さる。私は胸を打ち、熱い涙を流して、犯した罪を悔い悲しみ、ひとえに御赦しを願い奉る。私の罪を悲しむのは地獄の罰を恐れる故ではない。ただ限りも無く愛すべき主に背き、御旨を痛め奉ったからである。
最も力ある代願者にまします聖母よ、私の為に御子に祈り給え。審判の暁に至らば、御母の御力をもってしても私の滅びを得、救い給わざるべければ、何とぞ今のうちに私を救い助け給え。教え給え。導き給え。
その2
「人はその蒔きし所を刈り取らん」 Quae seminaverit homo, haec et metet. (ガラテア6-8)、しかり、一生の間に蒔いた所を審判の暁に刈り取るのだ。私は今まで何を蒔いた? 善を蒔いただろうか? 悪を蒔いていたのではあるまいか? 徳を蒔いただろうか? 罪を蒔いていたのではあるまいか? これはよくよく糾明して見なければならぬ。審判の直前になってあれをああしていたら、これもこうしていたらよかった!と思う所を、今のうちにサッサとしておかねばならぬ。
もし今日、一時間の後に、主の審判を受けねばならぬというならば、何千という金を投げ出してでも、せめて一年の猶予を求めて十分に用意したいものだとは思わぬだろうか? しからば残りの歳月をなぜその為に用いないのだろうか?
アガトン修道院長は、多年厳しい苦行に身をこらしながら、その思いが一たび審判に及ぶや、「ああ私はどんな裁きを受けるだろう!」と嘆息するのであった。旧約のヨブも「主の立ち上がり給わん時、如何にせんや。主の臨み給わん時、何と答えまつらん」(ヨブ記31-14)と言っている。私もそうだ。主が立ち上がって、私の一生の間に頂いた聖寵を調べ、その聖寵をおざなりにした点をいちいちお尋ねになる時、何とお答えすることができるであろうか?
主よ、「主を讃える霊魂を猛獣に渡し給うことなかれ」(詩篇73-9)、私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。
その3
人が死ぬ時に起る事件は実に由々しき大問題で、その結果の如何によって、永遠の救いか、終わりなき滅びかが定まるのだ。誰しも十二分の精力を絞って好結果を挙げるべく努める決心にならなければならぬ。とくと右の事情を考えて見たら、誰だって「実際そうだ」と頷かずにはいられない。「実際そうだ」とすれば、なぜ万事を擲って、一身を主に捧げ、安全に永遠の救いが得られるだけの用意をして置かないのだろう?
「汝等遭う事を得る間に、天主を尋ねよ」(イザヤ55-6)と預言者は警告している。主を見失ったままその法廷に召喚されては、とてものことではないがお会いすることはできまい。息の根の通っている間に捜してこそ、見い出しうるのではないか。
愛すべきイエズスよ、私は今まで主の愛を軽んじて大いに御旨を痛め奉った。しかし今は一心に主を愛し、また主に愛されたいと思っている。主よ、私に主を見い出さしめ給え。見い出してひしと抱きつくを得さしめ給え。ああ聖母よ、私が御子イエズスに離れ奉るを許し給うことなかれ。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。
今日は聖アルフォンソによる「私審判の宣告について」の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。」
【私審判の宣告について】の黙想
その1
平素から主を愛して、心は世間の物に執着せず、苦しみを恐れず、辱めを喜び、身を責めこらし、ただ一心に主の御旨を果たしていた人は、審判の際、如何なる慰めを覚えるであろうか。
「来たれ、善にして忠実なる僕よ、汝の御主の喜びに入れ」(マテオ25-21)という有難い御言葉を賜る時の喜びを思え。「ああ私は救われた! いくら喜んでも躍り上がっても足りない! もうこれからは救霊を失う気遣いは無い!」と思うときの嬉しさは、ああ、誠にいかばかりであろう!
これに反して大罪を抱きながら現世を立ち去った霊魂は、まだ主の御口より何の宣告も下らない前に、早や我と我が身に地獄の罰を言い渡すであろう。
主よ、私は主に背いて大罪を犯す毎に、そんな不幸の身となったのである。憐れみの天主よ、主はかの恐るべき審判の暁に、私の裁判官となられるのであるが、しかし、今は私の救い主、私の父君であります。真心から罪を悔い改めさえすれば、いつでも御赦し下さる。私は胸を打ち、熱い涙を流して、犯した罪を悔い悲しみ、ひとえに御赦しを願い奉る。私の罪を悲しむのは地獄の罰を恐れる故ではない。ただ限りも無く愛すべき主に背き、御旨を痛め奉ったからである。
最も力ある代願者にまします聖母よ、私の為に御子に祈り給え。審判の暁に至らば、御母の御力をもってしても私の滅びを得、救い給わざるべければ、何とぞ今のうちに私を救い助け給え。教え給え。導き給え。
その2
「人はその蒔きし所を刈り取らん」 Quae seminaverit homo, haec et metet. (ガラテア6-8)、しかり、一生の間に蒔いた所を審判の暁に刈り取るのだ。私は今まで何を蒔いた? 善を蒔いただろうか? 悪を蒔いていたのではあるまいか? 徳を蒔いただろうか? 罪を蒔いていたのではあるまいか? これはよくよく糾明して見なければならぬ。審判の直前になってあれをああしていたら、これもこうしていたらよかった!と思う所を、今のうちにサッサとしておかねばならぬ。
もし今日、一時間の後に、主の審判を受けねばならぬというならば、何千という金を投げ出してでも、せめて一年の猶予を求めて十分に用意したいものだとは思わぬだろうか? しからば残りの歳月をなぜその為に用いないのだろうか?
アガトン修道院長は、多年厳しい苦行に身をこらしながら、その思いが一たび審判に及ぶや、「ああ私はどんな裁きを受けるだろう!」と嘆息するのであった。旧約のヨブも「主の立ち上がり給わん時、如何にせんや。主の臨み給わん時、何と答えまつらん」(ヨブ記31-14)と言っている。私もそうだ。主が立ち上がって、私の一生の間に頂いた聖寵を調べ、その聖寵をおざなりにした点をいちいちお尋ねになる時、何とお答えすることができるであろうか?
主よ、「主を讃える霊魂を猛獣に渡し給うことなかれ」(詩篇73-9)、私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。
その3
人が死ぬ時に起る事件は実に由々しき大問題で、その結果の如何によって、永遠の救いか、終わりなき滅びかが定まるのだ。誰しも十二分の精力を絞って好結果を挙げるべく努める決心にならなければならぬ。とくと右の事情を考えて見たら、誰だって「実際そうだ」と頷かずにはいられない。「実際そうだ」とすれば、なぜ万事を擲って、一身を主に捧げ、安全に永遠の救いが得られるだけの用意をして置かないのだろう?
「汝等遭う事を得る間に、天主を尋ねよ」(イザヤ55-6)と預言者は警告している。主を見失ったままその法廷に召喚されては、とてものことではないがお会いすることはできまい。息の根の通っている間に捜してこそ、見い出しうるのではないか。
愛すべきイエズスよ、私は今まで主の愛を軽んじて大いに御旨を痛め奉った。しかし今は一心に主を愛し、また主に愛されたいと思っている。主よ、私に主を見い出さしめ給え。見い出してひしと抱きつくを得さしめ給え。ああ聖母よ、私が御子イエズスに離れ奉るを許し給うことなかれ。アーメン。