【参考情報】ヴィガノ大司教の説教:ローマにおける聖ペトロの司教座の祝日に:天主が聖なる教皇を与えてくださるよう祈ろう
その沈黙によって、彼らは、聖なる教会の名誉を守ることも、素朴な人々をつまずきから守ることもありません。それどころか、小羊の花嫁を不名誉と屈辱に陥れ、まさに大洪水の瞬間に、救いの箱舟から信者を追い払っているのです。
Abp. Viganò on Feast of St. Peter’s Chair in Rome: Pray that God Will “Grant Us a Holy Pope”
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年1月23日
CATHEDRA VERITATIS
真理の司教座
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教
ローマにおける聖ペトロの教座の祝日について
Deus, qui beato Petro Apostolo tuo,
collatis clavibus regni cælestis,
ligandi atque solvendi pontificium tradidisti:
concede; ut, intercessionis ejus auxilio,
a peccatorum nostrorum nexibus liberemur.
使徒聖ペトロに、
天の国の鍵を渡し、
つなぎかつ解く権能を与え給うた天主よ、
その取り次ぎによって、
われらを、罪の鎖より解き放ち給え。
【集祷文】
イエズス・キリストに讃美
今日(1月18日)、ローマにある教会は、聖ペトロの司教座の祝日をお祝いしています。この祝日によって、私たちの主が使徒のかしらに授けられた権威が、この司教座において、その権威の象徴と教会的な表現を見いだすためです。このお祝いは3世紀から行われていた痕跡が見られますが、ルター派の異端の時代に、ローマ市に使徒聖ペトロがいたことが否定されたのに対応して、パウロ四世が〈ペトロがローマで最初に座した司教座〉(qua primum Romæ sedit Petrus)の祝日が1月18日に行われるように定めたのは、1588年のことでした。聖ペトロの教座のもう一つの祝日は、聖ペトロが設立した最初の司教区であるアンティオキアの司教座のためのもので、全世界の教会で2月22日に祝われます。
次の重要な点を指摘させてください。ちょうど人間の体が、病気にかかったときに抗体を強化することで、病気に感染したときそれに打ち勝つことができるように、教会という体も、異端によって脅かされた教義の各面をそれまでより鋭く肯定することで、誤謬の伝染が発生したときに自らの身を守ります。この理由から、教会は偉大な知恵をもって、ある時代に信仰の真理を宣べ伝えますが、それ以前にはそうすることはありませんでした。なぜなら、それらの真理は、それまでは信者がそれほど明示的ではない形で信じていたものであり、まだそれらの真理を詳細に記述する必要はなかったからです。ニケア公会議の聖なる決議文は、アリウス派が私たちの主の神性を否定したことに応え、古代の典礼の素晴らしい決議文の表現を繰り返しています。ミサの犠牲的価値や全実体変化、追悼、贖宥が否定されたことに対しては、トリエント公会議の聖なる決議文、およびその決議文とともに典礼の崇高なテキストが応えました。今日の祝日は、使徒ペトロによるローマ教区の創設を反教皇派が否定したことに応えたもので、まさにプロテスタントが異議を唱えた歴史的真実を繰り返し、それに由来する教理を強化するために、パウロ四世が望んだ祝日なのです。
過去60年間、キリストの教会にはびこってきた異端者とその新近代主義の信奉者たちは、逆の行動を取っています。また、カトリックの教導権をあからさまに否定しない場合には、教導権について沈黙し、それを省略し、そして、教導権を曖昧にしてそれを否定する人たちにも受け入れられるような形で定式化し、教導権を弱めようと試みるのです。これはまさに過去の異端者たちが行ったことです。これは、また第二バチカン公会議で革新主義者たちも行ったことです。これはさらに、正式な異端として非難されないために、教会が自らに付与したその「免疫防御」を消し去って、信者を誤謬に陥れ、異端という疫病に感染させようとする人々も行ったことです。
神秘体が何世紀にもわたって――特にキリスト教の時代の第二の千年期の間に――賢明に発展させてきたほとんどすべてのもの、つまり、ちょうど子どもが大人になって身体と精神が強くするように、神秘体が調和をとりつつ成長させてきたものが、今や、キリスト教古代の原初の単純さに戻るというまやかしの口実で、また、教会の敵どもを喜ばせるためにカトリック信仰に不純物を混ぜるという言葉にできない目的で、故意に隠され検閲されてきたのです。
モンティーニ【パウロ六世】のミサ典礼書を手に取ってみれば、その中に明確な異端があるとは分からないでしょう。しかし、聖伝のミサ典礼書と比較すれば、啓示された真理を守るために作られた多くの祈りが省略されていて、改革されたミサをルター派にさえ受け入れられるようにするのに十分すぎるほどであることが分かるでしょう。そのことは、この致命的で曖昧な典礼の公布の後に、ルター派自身が認めています。このことを裏付けるように、ローマとアンティオキアにおける聖ペトロの教座の祝日でさえも、近代主義者のセクトが教会の領域で採用したキャンセル文化の名において、一つに統合されたのです。それは、目覚めた(ウォウクの)左派が世俗の領域でキャンセル文化を使用する前のことでした。
今日、私たちは、天才ベルニーニがバチカン大聖堂の後陣の祭壇に芸術的につくり上げた「使徒の椅子【使徒座】」(Cathedra Apostolica)で象徴的に表される、教皇職の栄光をお祝いしています。この大聖堂には、聖霊を描いた雪花石膏(alabaster)【細かい結晶が集まってできた白色半透明の石膏】の窓があり、また4人の教会博士、すなわちラテン教会では聖アウグスティヌスと聖アンブロシウス、ギリシャ教会では聖アタナシウスと聖ヨハネ・クリュゾストムスに守られています。何世紀にもわたってそのままの形で残されてきた当初の設計では、椅子は祭壇の上に置かれていましたが、革新主義者の破壊的な怒りはそれを許さず、後陣と【殉教による信仰】告白の天蓋(baldacchino)の間に移動させました。しかし、祭壇と椅子の建築的な一体性(今日では意図的に抹消されています)にこそ、ペトロの首位権の教理の基礎があるのが分かります。この教理は、キリストの象徴である犠牲の祭壇が石でできているように、〈隅の親石〉(lapis angularis)であるキリストを土台としているのです。私たちは今、重大な危機と背教――【信者たちによる背教だけでなく】ペトロが最初に座した玉座【教皇による背教】のレベルにまで上ってしまった、――という歴史的な局面において、教皇職を祝っています。
また、私たちの心が、非常に多くの霊魂と天主の御稜威(みいつ)の栄光を損なう革新主義者の荒廃によって引き起こされる廃墟を見て打ちひしがれているとき、また、私たちが、〈教会に対してうち勝てぬ〉(Non prævalebunt)と言われた私たちの主の約束と、この数十年に位階階級が犯した罪の罰として御摂理が教会のトップにお与えになった人物によって広められた絶え間のない異端とつまずきとを、どのように結びつけて理解できるのかの照らしを天から懇願しているとき、まだ修道院に隔離された教皇がいると自分を欺いている人々の間の分裂を私たちが見ているとき…、そして、ベルゴリオ【教皇フランシスコ】が強く望んだ邪悪なシノドスの旅で北欧の教区における離教を見ているとき、私たちは故レオ十三世の予言を思い出します。彼は、サタンと背教の天使に対する悪魔払いの祈りに、その当時は、ほとんどつまずきを与えるもののように聞こえた、以下の恐ろしい言葉を挿入することを望みましたが、今日では、その言葉の持つ超自然の意味を私たちは理解することができるのです。
Ecclesiam, Agni immaculati sponsam, faverrimi hostes repleverunt amaritudinibus, inebriarunt absinthio; Ad omnia desiderabilia ejus impias miserunt manus. Ubi sedes beatissimi Petri et Cathedra veritatis ad lucem gentium constituta est, ibi thronum posuerunt abominationis et impietatis suæ; ut percusso Pastore, et gregem disperse valeant.
「いとも狡猾な敵どもは、苦々しさで満たし、悪酒で泥酔させたり。教会の全ての聖なる宝に不敬な手をかけたり。至聖なるペトロの聖座にして異邦人らの光のなるべき真理の座が据えられし場所で、まさに彼らはいとわしきものの不遜な王座を置きたり。そは、牧者を打ちて、群れを散らすためなり。」
これは、でたらめに書かれたものではありません。主が教会の聖職者らを試すためにサタンに約100年の期間をお与えになるという幻視をレオ十三世がミサの終わりに見た後に、書かれたものです。この言葉は、その50年前のラ・サレットにおける聖母のメッセージ「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう」を繰り返すものであり、また同じように聖母が第二バチカン公会議と典礼改革による位階階級の背教を予言したファチマ第三の秘密より、十数年前のものです。
何世紀もの間、信者は誰でもローマを真理の道しるべとして仰ぐことができました。アレクサンデル六世のような歴史上最も議論を呼んだ教皇でさえも、大胆にも神聖な使徒的権威を簒奪しようとはしませんでしたし、教会を破壊し、教導権に不純物を混ぜ、道徳を腐敗させ、典礼を矮小化しようとした教皇はいませんでした。最も衝撃的な嵐のただ中でも、ペトロの椅子は揺らぐことなく、迫害にもかかわらず、キリストから授けられた使命「私の小羊を牧せよ。私の羊を牧せよ」(ヨハネ21章15-17節)を怠ることは決してありませんでした。今日、そしてこの10年間、主の群れの小羊や羊を牧することは、現在ペトロの玉座を占める者【教皇フランシスコ】にとっては「荘厳な愚かさ」とみなされ、主が使徒たちに与えられた命令「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)は、まるで聖なる教会の神聖な使命がセクトの異端的プロパガンダにたとえられるかのような、嘆かわしい「改宗至上主義」(proselytism)とみなされているのです。彼は、2013年10月1日、2014年1月6日、2016年9月24日、2018年5月3日、9月30日、2019年6月6日、12月20日、2020年4月25日、そしてちょうど1週間前の2023年1月11日にもまた、そう言っています。
ですから、ここにおいて、第二バチカン公会議だったものの痕跡が、その最後の息も絶え絶えの痕跡が崩壊します。公会議は、「宣教」(missionarietà)を合言葉にしながらも、異教化した世界にキリストを宣べ伝えるためには、キリストが使徒たちに教えられ、教会が忠実に守るべき義務を負う超自然的真理を信じることがまず第一に必要であるということを理解しなかったのですから。時代のメンタリティーを喜ばせるために、カトリックの教理を薄めて、黙殺し、裏切ることは、信仰のわざではありません。なぜなら、この信仰の徳は、至高の真理である天主に基づいているからであり、また、天主の啓示する権威や救いの愛を拒絶すれば、誰も天主の救いや助けを望むことはできないからです。それは、愛徳のわざではありません。なぜなら、天主の本質そのものを否定すれば、誰も天主を愛することはできないからです。
カトリック信者だけでなく、世界の人々にもつまずきを引き起こすほどに至った、この位階階級の指導者たちの背教を可能にした傷、教会という体を襲った〈傷〉(vulnus)とは何なのでしょうか。それは、権威の濫用です。それは、権威に付随した力を、権威そのものを正当化する目的とは正反対の目的のために行使することが可能だと考えることです。それは、天主に代わって、何が正しくて何が正しくないかを決めるための天主の至高の力を簒奪し、進歩と進化の名の下に、今でも人々に言えることと古いとみなされるべきことを決めるということです。それは、聖なる鍵の力を使って、つなぐべきものを解き、解くべきものをつなぐことです。それは、権威は天主に属し、他の誰にも属さないこと、そして、国々の統治者も教会の高位聖職者もすべて、王にして大司祭であるキリストに位階的に服従していることを理解しないことです。要するに、教えの座を祭壇から切り離すこと、代理者や摂政の権威を、その権威を完全に所有し、かつその起源であるがゆえに、その権威を聖とし、上から承認するお方の権威から切り離すことなのです。
ローマ教皇の称号には、「キリストの代理者」(Christi Vicarius)と並んで、「天主のしもべのしもべ」(Servus servorum Dei)というものがあります。前者がベルゴリオによって軽蔑的に拒否されたとすれば、後者を保持するという彼の選択は、彼の言動が示すように、挑発的なもののように聞こえます。
教会の高位聖職者たちは、いかなる陰謀や策謀が「サタンのしもべのしもべ」として行動する者を玉座に導いたのかもしれないことを明らかにするよう、また、なぜ彼らが彼の行き過ぎを恐れながらも手助けしたり、あるいは、この高慢な異端の暴君の共犯者になったりしたのかを明らかにするよう、問われる日が来るでしょう。知っていながら、誤った賢明【慎重さ】の感覚から沈黙している者たちは震え上がるように。その沈黙によって、彼らは、聖なる教会の名誉を守ることも、素朴な人々をつまずきから守ることもありません。それどころか、小羊の花嫁を不名誉と屈辱に陥れ、まさに大洪水の瞬間に、救いの箱舟から信者を追い払っているのです。
主が私たちに聖なる教皇と聖なる統治者たちを与えてくださるよう祈りましょう。この長い試練の期間に終止符を打ってくださるよう天主に懇願しましょう。この試練のおかげで、天主がお許しになったあらゆる出来事と同様に、キリストにおいてすべてを復興させる(instaurare omnia in Christo)ことがいかに基本的なことかを、キリストの主権を拒絶する世界がいかに――文字通りの――地獄であるかを、そして、自らの王の衣――十字架上の小羊の血で染められた衣――を軽蔑をもって剥ぎ取り、権力者の、新世界秩序の、グローバリスト・セクトのしもべとなる宗教がさらにひどく地獄的であるかを、私たちは理解している真っ最中なのです。
良き時代が来たらんことを。キリストの平和が来たらんことを。キリストの御国が来たらんことを(Tempora bona veniant. Pax Christi veniat. Regnum Christi veniat.)【聖歌クリストゥス・ヴィンチットより】
アーメン。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年1月18日
ローマで最初に座した使徒聖ペトロの教座
Cathedra Sancti Petri Apostoli, qua primum Romæ sedit
英語版
イタリア語版
Viganò, Omelia per la Cattedra di San Pietro, Lambita da Apostasia ed Eresia.