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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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イエズス・キリストをよく知りますます愛すること、これこそが聖徳。一生をかけてイエズスを知り、イエズスをますます愛するように招かれている。

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2022年11月27日 東京の12時半のミサにて 小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日九時のミサで総長様がミサを司式してくださいました。そのお説教の内容を皆さんにご紹介したいと思っています。
午後二時には総長の講話があります。是非、ミサの後にも残って、総長様のお話を聞いて行ってください。

総長様のミサのお説教の話をお伝えします。

待降節は私たちがイエズス様の御到来を準備する特別の時です。今日待降節第一主日を迎えて、私たちはついにイエズス様のご降誕を今から準備するように招かれています。イエズス様は人となった天主のみ言葉・永遠の御父の輝き・三位一体の第二のペルソナですから、この目に見えない全能の天主・御子が人間になった、私たちの内に住んでくださった、ということを私たちは準備しています。

私たちがイエズス様のご降誕を準備するのに一番必要なのは何かというと、私たちは聖徳に招かれているということです。私たちがますます聖となるようにと招かれているということです。では、私たちが聖になるということは、どういうことなのでしょうか。それはすべて愛です。

聖徳というのはただ抽象的な観念や哲学的な議論ではない、また、単なる「あぁこうなりたいな」という望みだけでもありません。

聖徳、私たちが聖となるというのは、聖なる者になるというのは、具体的に、日々の生活において実現されるべきものです。一体どういうことかと言うと、私たちがますますイエズス・キリストと近しい友人になるということです。イエズス・キリストを愛して、イエズス・キリストから愛されて、私たちがイエズス・キリストを愛し返す。イエズス・キリストをよく知り、そしてますます知ることによって、ますます愛するということです。これこそが聖徳であって、待降節の間、私たちはこれを深めるように招かれています。待降節のみならず、一生をかけてイエズス様を知り、イエズス様をますます愛するように、招かれています。

では待降節の間、特にどういうことを、私たちはしたらいいのでしょうか。

愛は、私たちが愛する対象をよく知りたい、その愛する対象と一緒にいたいなあと思います。そして、その愛する方が私たちからいなくなってしまうのを恐れます。最後には、愛する方と一緒にいることを楽しみます。

ちょうどこれと同じことが、イエズス様と私たちの間で起こります。その愛が深まれば深まるほどこれが聖なるものとなったということなのです。

総長様はその例を三つ挙げました。使徒聖ヨハネがその模範だと言って、その聖ヨハネの生活の三つのエピソードから、この愛の三つの働きを黙想しました。

最初は、聖ヨハネがイエズス様と出会った時です。洗者聖ヨハネが指をさして、
「見よ、天主の子羊だ。この世の罪を取り除く天主の子羊を見よ!」
と言ったときに、聖ヨハネは
「そうだ」
と言って、すぐにイエズス様の跡を聖アンドレアと一緒について行きました。
するとイエズス様のほうについてきた二人をご覧になって、イエズス様はおっしゃいます。
「何を探しているのか。何を求めているのか。何が欲しいのか」。
すると、答えます
「主よ、あなたは一体、どこにお住みなのですか。」
すると
「来てご覧なさい。」
そして、イエズス様のお住みになっているところへ行って、一緒に語り合って、一緒にイエズス様の話を聞いて、イエズス様に質問して、イエズス様のお答えに「すごい」と思い、ますます時を忘れて聞き入れてしまった。知れば知るほどイエズス様はますますもっと近くにいたい、もっとお会いしたいと思うようになる。これが聖ヨハネの第一の体験だった。

それと同じように待降節の間、私たちも、イエズス様のそばにいてイエズス様のことをよく聞くようにしなければならない。この世の騒音とか喧騒とかではなくて、この世の話とかニュースではなくて、イエズス様のことをもっと知るようにしなければならない。

第二のエピソードは、愛する人は愛する対象を失ってしまうのを非常に悲しむ、という事です。ちょうど最後の晩餐の時にそれが起こりました。イエズス様が弟子たちと囲んで最後の晩餐を召し上がっていられた時に「このうちの一人は私を裏切る」と予告しました。すると使徒聖ヨハネは、すぐに「それは私のことですか?」とイエズス様の近くに行って聞きます。

これは何かと言うと、使徒聖ヨハネはイエズス様を愛していたので、イエズス様を失ってしまうではないかと、この愛するお方が裏切られるということがあってはならない、裏切られる、あるいはイエズス様がふさわしい取り扱いを受けないということを悲しむ、あるいは自分が裏切ってしまうのではないかと恐れる、という愛のあらわれだったのです。

待降節の間に私たちも、イエズス様を罪によって裏切ってしまうことがないように、私たちがイエズス様のこと以外のことを愛してしまって、イエズス様よりもイエズス様以外のものを愛してしまって、被造物を愛するがあまり罪を犯してしまう、イエズス様を悲しませることがないように、私たちは愛の怖れを持たなければなりません。

第3は、愛する者は愛する者と一緒にいることを楽しむ、ということです。この最後の出来事は使徒聖ヨハネの霊魂の状態を非常によく表していました。

イエズス様が復活されたのちに、ガリラヤの湖で使徒たちは朝早く漁をしていました。すると、湖畔に誰か人影が立っていて、弟子たちのほうをずーっと見ています。一体誰なのか、遠くだったので誰にもわからなかったのですけれども、わかった人が一人います。それが使徒聖ヨハネです。

聖ペトロにいいます。「あれは、主だ。」すると聖ペトロはそれを見て「確かに」と言って、すぐにイエズス様のもとに行こうと水の中に飛び込んで泳ぎ出します。しかし使徒聖ヨハネはイエズス様とわかっていたにも関わらず、そして泳ぐことができたにも関わらず、舟の中に留まっていました。

一体なぜ聖ペトロは水の中に飛び込んだのに、ヨハネはそのまま舟の上にいたままだったのでしょうか。

なぜかと言うと、使徒聖ヨハネは愛していて、愛するがゆえに心が清かったので、イエズス様をすぐに見分けることができたからです。そして心が清かったゆえに、イエズス様に満たされていて、イエズス様のもとに行かなくてもすでにイエズス様が心に宿っておられた、イエズス様でいっぱいだったので、そして天主の御旨がいったい何かよく知っていたので、聖ヨハネは舟の上に留まって、そして幸せだった、「ああイエズス様だ」とイエズス様を見るだけでよかったのです。しかし聖ペトロは裏切ってしまったので、心に重いものがあったので、イエズス様のもとに行って、「主よ、ごめんなさい」と言わなければなりませんでした。

使徒聖ヨハネは、イエズス様を愛したがゆえに高い聖徳に達した偉大な使徒です。そして私たちにモデルとなっています。

今日、聖福音の中では、イエズス様は世の終わりについて話します。イエズス様が来られて、最後の審判が来ることを話されます。最後の審判の時に私たちは一体何に基づいて裁かれるのでしょうか。審判の基準は何なのでしょうか。お金を持っていたからでしょうか、あるいは何か良いポストに就職したからでしょうか。そうではありません。私たちはイエズス様を愛したか、どのように愛したかによって裁かれます。それこそが聖徳のバロメーターであるからです。聖なる者であるか否かのバロメーターであるからです。

この愛の極みに似たモデルはマリア様です。マリア様は、聖ヨハネよりもさらに高い聖徳をもっていました。さらに高く主を知りたいと思い、愛するがゆえにますます主を知り、知るがゆえにますます愛した方です。またマリア様こそ、主を罪によって失ってしまうことを恐れる者でした。そしてマリア様こそ主の現存に幸せをいつも見出して、主の御旨に満たされていた方でした。イエズス・キリストに満たされていた方でした。マリア様にお祈りしましょう。マリア様の特別な御取次によって私たちが聖なる待降節を過ごすことができますように、そしてイエズス・キリストをますますお愛しすることができますように、聖徳に成長することができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。


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