【参考資料】ヴィガノ大司教:FBIがカトリック信者を標的にしているのは教皇フランシスコが信者を迫害していることの「論理的帰結」である
このような世俗権力と霊的権力との側による〈反対意見の犯罪化〉作戦は偶然ではなく、市民そして市民の機関の代表者、さらに信者およびとりわけその牧者たちから、非常に強い非難と決定的な反対が起こされなければなりません。
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
2023年2月20日(月曜日) 米東部標準時間午前10時38分
(LifeSiteNews)―以下は、ラテン語ミサにあずかるカトリック信者をFBIが監視していることについてのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の小論です。
Ideo inter vos multi infirmi et imbecilles, et dormiunt multi.
I Cor 11:30
そのため、あなたたちの中には、弱い者、病気の者が多く、死んだ者も少なくない。
コリント前書11章30節
礼拝の自由という原始的信仰(トーテム)により、悪魔崇拝者がリトルロックのアーカンソー州議会議事堂の前に冒涜的なバフォメットの記念碑を建てたり、ニューヨークの裁判所の正面に中絶支持者の最高裁判事をたたえる悪魔の像を建てたりすることが許されており、また、ニューメキシコでは、悪魔寺院が儀式的な中絶を行う診療所を開設し、州の承認によって利益を得ています。一方、バイデン政権のシークレットサービスは、聖伝のカトリック信者をプロファイリング【犯罪者のようにどんな人々か分析する】し、ラテン語で典礼が行われる共同体を監視する他に仕事をすることがありません。まるで、聖伝のカトリック信者が、既存の秩序に対する脅威と国家機関に対する潜在的危険を象徴しているかのようです。
私の考えでは、このニュースは、もう一つの類推できる、似たような出来事の論理的かつ必然的な帰結として読み取るべきです。すなわち、聖ペトロ大聖堂や他のカトリック教会でカトリック位階階級の指導者たちがパチャママという悪魔に捧げた偶像崇拝と、それと同時発生的な、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)をもって、また、差し迫っていると言われている更なる制限をもってなされる、教会当局による聖伝のカトリック信者に対する迫害です。
このような世俗権力と霊的権力との側による〈反対意見の犯罪化〉(criminalization of dissent)作戦は偶然ではなく、市民そして市民の機関の代表者、さらに信者およびとりわけその牧者たちから、非常に強い非難と決定的な反対が起こされなければなりません。この非難は、それ自体非常に深刻ですが、この最近の話に限定することはできず、教会の逸脱した部分と協力した国家の逸脱した部分による憂慮すべき陰謀にも拡大しなければなりません。一方ではディープ・ステートが、他方ではディープ・チャーチが、ともに腐敗してグローバリストのエリートに従属しており、キリスト、教会、聖なるミサに対する憎悪によってそのイデオロギー的基盤が一致している破壊転覆的な目的を持っているのです。
私が「国家宗教」(こちら)で説明したように、教会と国家の分離【政教分離】と宗教的問題に対する「世俗主義」とされるものが、天主を社会から排除し、サタンを受け入れるための欺瞞的かつ悪意に満ちた口実を形成していることは明らかです。
革命は、原理と目的を覆すことによって社会秩序を転覆させましたが、キリスト教社会、特にカトリックの君主制の特徴となっていた玉座と祭壇の間の同盟、つまり、現世的権力と霊的権力の間の同盟という有利さを維持し、利用しました。〈アンシャンレジーム〉【旧体制】の専制を非難した人々は、例えば、言論の自由の名の下にメディアの検閲を廃止するつもりは全くありませんでした。彼らは単に、真実を検閲し、誤謬を広めるという、逆の目的のためにメディアを利用したかっただけなのです。教皇の現世的権力を批判する人々は、教会の公的問題への干渉を阻止したかったのではなく、教会を解体し、新世界秩序の要求を支持するために教皇職の権威と権力を利用するために、今日私たちが見ているように、教会を利用したかったのです。
ピオ九世やピオ十二世の時には、その統治が「教条主義」(dogmatism)と反対されていましたが、それは近代思想に反対していたからです。「教条主義」は、第二バチカン公会議やベルゴリオのエキュメニカルでシノドス的な教条主義に進化して変質し、その問題は見かけだけのもっともらしい嘘であり、〈手段〉ではなく、〈目的〉に関わる【問題はドグマを押し付けることではなく、何をドグマとして押し付けるのかである】と実証しています。
ですから今日、私たち大衆は、国家が基本的な自由に対して統制と制限を課す権威主義(それは昨日までナチの全体主義の表すものとして忌み嫌われていました)に驚きはしませんし、カトリック位階階級の現在の権威主義、つまり教会がグローバリズムのイデオロギーを支持し、世界経済フォーラムと〈アジェンダ2030〉に従属する政府に対して教会が協力する権威主義にも驚きはしないのです。
宗教の問題に対して政府が「中立」とされる態度を取ることが可能だと、私たちが信じ続けるならば、私たちの文明を消滅に追いやることになります。なぜなら、人類の歴史と個人の永遠の運命の一部である、善と悪の戦いを否定してしまうことになるからです。〈誰も二人の主人に仕えることはできない〉と、私たちの主は福音の中で教えておられます(マテオ6章24節)。また、私たちの中立性がすでに敵【悪魔】の助けとなっている対立に直面したとき、どちらにも仕えないという決断もできません。ここで私たちが自問すべきなのは、悪の行き過ぎを非難することにとどまって、その原因を非難しない政治家や高位聖職者が、どのような責任を負っているかということです。
国家の世俗性【国家が宗教を持たないという性質】は、国家を土台から破壊するために使われる幻想のキメラ【想像上の怪物】であることが証明されているのに、何としても国家の世俗性を救おうと主張したり、第二バチカン公会議のはっきりとした失敗や教会への計り知れない損害を目にしているのに、公会議を擁護しよう主張したりするのは、支配者や牧者としての自分の役割を、自分が代表する組織をただ守るだけの役割としか考えていない人々による、その場しのぎの処置なのです。彼らは、自分たちの重大な不忠実を把握するのを拒否し、したがって市民と信者の両方に利益をもたらす可能性を排除しているのです。医者に求められているのは、患者を治療することであって、単に病気の診断にとどまったり、保健当局が腐敗していることを認めたくないからという理由で、あるいは【保健当局の】不当な命令にあえて背きその結果【受ける処罰】に直面する勇気がないという理由で、病気を隠したりすることでもありません。
この重要な局面で私たちが目撃しているのは、これまで「社会的成果」を正当化するために使われてきた口実(民主主義、言論や礼拝の自由、少数派の尊重など)が消滅していることであり、また同時に、国家と教会の権威を簒奪する犯罪的エリートの真の動機が傲慢にも露呈していることです。一方でキリスト教的社会モデルと他方でディストピアの社会モデルがあります。つまり、一つは私たちの主イエズス・キリストが、世俗的・宗教的領域において統治し、私たちが自由に善を行うようにと導き、それによって私たちを永遠の幸福にあずかる者とするというキリスト教的社会モデルと、もう一つは、サタンの暴政が、私たちの自由を侵害し、悪事を行うように強制し、私たちを永遠に滅ぼすために混沌と反乱を押し付けているというディストピアの社会モデルとですが、この両者は両立し得ないのです。
情報機関による聖伝のカトリック信者のプロファイリングが正当化されないように思えるのは、現在の支配者が共通善と国家の安全を追求していると私たちが誤解している場合だけですが、十分に正当化されるのは、支配者が、本質的に反キリスト教的でキリスト教信仰と相容れないグローバリズム崇拝を押し付けることを目的としている場合です。それと同時に、カトリックの位階階級によってトリエント典礼に結びついている信者が迫害されるのが、前代未聞で考えられないのは、天主の栄光と霊魂の救いを求める牧者の熱意があることを私たちが前提にしている場合だけです。彼らが本当は何者なのかを、つまり、羊の皮をかぶった狼や傭い人であることを私たちが理解するならば、使徒継承のミサに対する彼らの嫌悪感は理解できるものであり、彼らがそのような怒りをもってそれを表明しなかったとすれば、それは本当に驚くべきことになるでしょう。ある意味で、彼らの目には、私たちは、遺伝子血清の接種を受けた大勢の人々と一緒にいる、ワクチン未接種者という「対照群」として映っているのです。
天主に反抗する世界を欲し、この世の精神に従順な「シノドスの教会」を欲する人々にとって、私たちカトリック信者が脅威であるというのはその通りです。殉教者たちは、キリスト者という名前が社会に存在しているというヒロイズム【英雄的な態度】を証言しています。変質した権威は殉教者たちの模範と何よりも福音の爆発力を知っていて恐れているために、この権威は敵とみなす人々に苦痛と死を与えます。しかし、殉教者たちのヒロイズムは、この苦痛と死に面と立ち向かうのです。
第三の道はないこと、つまり、善というテーゼと悪というアンチテーゼを組み合わせたジンテーゼのようなものはないことを理解するなら、また、どちら側で戦うのかを選択しなければならないこと――悪人が悪を選択したように――を、私たちが理解するならば、私たちには抵抗と勝利の機会がいくらかあるでしょう。「あなたたちは地の塩である」(マテオ5章13節)。病めるこの世に寛容を求めることは、私たちを伝染から守るのではなく、ただ私たちの抹殺をただ単に先延ばしにするだけ、私たちから【塩の】味を奪い、人々に踏みにじられる運命をもたらすだけなのです。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年2月19日
Dominica Quinquagesimæ
五旬節の主日