アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった「無原罪の御宿り」についての講話をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年12月13日―大阪 勉強用説教「無原罪の御宿り」
親愛なる兄弟の皆さん、
童貞聖マリアは、(その母聖アンナに)宿られたとき無原罪でした。聖母は「無原罪の御宿り」です。この信仰の教義はどういう意味でしょうか?
その意味は、天主の特別な特権によって、私たちの主イエズス・キリストの功徳のゆえに、童貞聖マリアは原罪から守られていたということです。
原罪は、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです。そのとき、エバ、そしてアダムが天主に逆らって禁断の果実を食べ、天主のご意思よりも自分たちの意思を優先し、天主への従順を拒否し、天主のみ言葉よりも悪魔の言葉を信用し、善と悪についての知識を自分たちで得ようと望んだ、つまり何が善で何が悪であるかを自分たちで決定しようとしたのです。自分たちの上に法があることを欲せず、天主の法を拒絶したのです! 彼らは、罪についての完全な知識を持ち、善き主へのはなはだしい忘恩を承知の上で、この罪を犯したのです。主が彼らに、素晴らしい楽園だけでなく、無苦痛、不死、知識、正義という賜物に加えて、とりわけ成聖の恩寵という賜物をお与えになったにもかかわらずです。成聖の恩寵は、天主との友情という驚くべきものであり、それは彼らが夕べに天主と親しい会話を交わしていたことによって分かります。
罪を犯した後、彼らは、この友情が台無しになったのにすぐ気付いたため、身を隠しました。彼らはまた、肉の反逆を感じたため、いちじくの葉で身を覆いました。彼らは成聖の恩寵を失いました。つまり、知識、正義、無苦痛、不死という「(自然を外れた)外自然の賜物(preternatural gifts)」を失ってしまったのです。彼らは死の支配下に入ったのです。彼らの本性は深く傷つき、すなわち、今や罪への悪しき傾きを感じたのです。
アダムの罪はその子孫にも伝わります。それはなぜでしょうか? 不正義のように思えます。それを理解するためには、次のことを考えなければなりません。天主は、成聖の恩寵をただ アダムとエバだけにお与えになったのではなく、彼らの子孫にも成聖の恩寵が伝わるようにというご意向を持っておられたのです。もしアダムとエバが罪を犯さなかったとしたら、彼らは体の命だけでなく、一緒に結び付いた霊魂の命も伝達していたことでしょう。ある意味で、外自然の賜物は、本性と恩寵の「接着剤」のようなものだったのであり、天主の子にふさわしくなるように人間の本性を完成させるものだったのです。アダムが天主の養子であったということは、福音書自体にも見られます。それは、聖ルカ福音書のキリストの系図の終わりが「アダムは天主の子であった」と言っているところです。本性によらず、恩寵によって子であったのです。私たちの主イエズス・キリストのみが本性によって天主の御独り子であり、御父とまさに同じ天主の本性を持っておられるのです。しかし、アダムは養子として、恩寵によって子であったのです。さて、アダムはこれら外自然の恩寵を失ったのですから、失ったものを与えることはできませんでした。ですから、アダムは私たちに外自然の賜物を伝えることはできず、そればかりか、この接着剤を失ってしまったのですから、体の命と一緒に霊魂の命(成聖の恩寵)を伝達することはできませんでした。これによって、アダムの子孫は、アダムの過ちによって、霊魂の命をはく奪された状態で生まれるのです。
この最初に持っていた恩寵のはく奪は、まさに原罪の本質そのものです。また、それとともに私たちはアダムの傷ついた本性を受け継いでいます! 原罪は実際、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです!
原罪は信仰の教義です。聖パウロは実際、ローマ人へ書き送っています。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので死がすべての人に及んだ」(ローマ5章12節)。人類を眺めてみて、罪への傾きのような多くの悪があるのを見るとき、天主の御業がいつも善いのであるなら、どのようにしてそうなり得たのかと不思議に思うでしょう?! 人類の最初におけるこの悲劇だけが、人間の罪深さを説明することができます。
原罪は三つの結果をもたらします。1)成聖の恩寵の喪失、2)死という罰、3)罪による傷―です。この傷は、知性における無知という傷、意志における悪意(自己中心)という傷、欲望における弱さと情欲という傷です。
しかし、天主は人類をお見捨てにはなりませんでした。天主は、「罪から民を救う方」(マテオ1章21節)である救い主を送ると約束されました。私たちは「他の人々と同じく本来は怒りの子であった。しかし慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪にために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった、あなたたちの救われたのは恩寵による」(エフェゾ2章3-5節)。私たちの主イエズス・キリストが「現れたのは罪を除くためであり、イエズス自身に罪はない」(ヨハネ第一3章5節)。
私たちの主イエズス・キリストは天主の子であり、御父と等しいお方であり、私たちを罪から救うために天から下ってこられた全能者です。主は救いのために必要なすべての力を持っておられます。そして、その証拠はまさにこの祝日です。無原罪の童貞の祝日です。聖母は完全に罪から救われたため、罪は聖母に対しては何の力もなく、聖母に手を出すことはできませんでした。聖母は完全に(汚れのない)無原罪であり、御宿りのときだけでなく、全生涯にわたってそうあり続けたのであり、聖母は無原罪のお方、インマクラータなのです! 聖母は童貞中の童貞であり、あらゆる領域においてこの童貞という言葉の意味があてはまります。完全な無垢であり、罪に決して触れられることはありません。聖母は罪に対する最良の薬、予防薬を受けられたのです。聖母は御宿りの最初の瞬間より、あらゆる罪から守られていたのです。聖母は決して大罪を犯さず、小罪さえも決して犯しませんでした。聖母は決して原罪の影響を受けたことはなく、罪への傾きもまったくありませんでした。聖母は絶対的に(汚れのない)無原罪なのです。
さて、かつて原罪を否定する異端者がいました。彼らはペラギウス派と呼ばれました。原罪を否定した結果として、彼らは救いのための恩寵の必要性を否定しました。私たちの主イエズス・キリストの恩寵がなくても、私たち自身の自然の力によって罪を犯さないことは可能だ、天主の全ての戒めに従うことは可能だ、そして天国に行くことは可能だ、と主張したのです。彼らの異端は、自然主義として現代でも続いています。自然主義も原罪を否定し、人はみな善き者として生まれるが、社会が悪い者にしてしまうのだと主張します。これは、ルソーや他の多くの人々の哲学です。教皇ピオ九世は、1854年12月8日に無原罪の御宿りの教義を定めたとき、この教義はペラギウス派と自然主義の誤謬に対する薬であると説明しました。聖母に原罪がなかったのなら、聖母は私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要としなかった、と言う人がいるかもしれません。しかし、これは大変な考え違いです。実際、聖母が原罪から守られているのは、まさに私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってなのですから! 恩寵を必要としないどころか、童貞聖マリアはまさに「聖寵充ち満てる」お方です! また、ご自分に偉大なことをなさったのは天主であると、誰より先に聖母ご自身が認めておられます。「全能者が私に偉大なことをされたからです。その御名は清く、そのあわれみは、世々敬い恐れる人々の上に下ります」(ルカ1章49-50節)。
私たちは原罪のアンチテーゼ(正反対)を聖母に見いだします。聖母は聖寵充ち満てるお方です。聖母は死に定められませんでしたが、御子が私たちの罪の負債を支払うために死を選ばれたため、聖母は御子にご自分を一致させることを選ばれ、そのために亡くなられました。しかし、命へと復活され、体と霊魂は天にあげられました。また聖母には、罪の傷、罪への傾き、自己中心性、弱さ、情欲のひとかけらもありませんでした。
聖ベルナルドは、聖母が「天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)のは、聖母ご自身のためだけでなく、私たちのためでもあったのだ、と言いました。聖母は私たちに、母として与えられました(ヨハネ19章27節)。聖母は私たちに、私たちの主イエズス・キリストが十字架の上で獲得された恩寵を配られます。聖母は私たちに、私たちの霊魂にある原罪の傷を癒やす恩寵をお与えになります。私たちには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要です! 「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。知性を照らし、無知の傷を癒やすため、私たちには信仰の恩寵が必要です。すべてに超えて天主の愛と共に私たちの意志を燃え立たせ、自己中心と悪意の傷を癒やすため、私たちには愛の恩寵が必要です。弱さの傷を癒やし、天国へ行く途中に出合うあらゆる困難、特に世の妨げによる多くの困難に打ち勝つため、私たちには剛毅の恩寵が必要です。情欲の傷を癒やし、速やかな満足と地上の楽しみへと向かわせる私たちの中の悪しき傾きに抵抗するため、私たちには感覚における節制と禁欲の恩寵が必要です。それによって、特に祈りにおいて、私たちの霊魂が天主の方へ挙げられるように。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。聖母はこれらの恩寵に満たされ、「聖寵充ち満てる」お方でしたから、私たちのためにそのすべての恩寵を取り成してくださいます。聖母は、私たちが黙想すべき外的な模範であるだけでなく、私たちの霊魂を変容させ、癒やす内的な恩寵を、私たちのために取り成してくださるため今も働いてくださる取り次ぎ者でいらっしゃるのです。
天主は悪から善を引き出すお方です。原罪は、私たちが謙遜を保つために有益です。罪は傲慢によって世に入りました。原罪のなかったアダムとエバが傲慢になり、ひどく堕落しました。原罪を持って生まれた私たちにとって、自分の霊的な惨めさを認めると、それが私たちに謙遜を保たせてくれます。洗礼ののち、残っている傷もまた、私たちに謙遜を保たせてくれます。童貞聖マリアは受けた恩寵によって、いつも最も謙遜な心を持っておられました。「主が卑しいはしために御目をとめられたからです」(ルカ1章48節)。聖母は、私たちが謙遜の行いをすることができるよう、私たちを助けてくださる強い力をお持ちです。
第一の謙遜のわざは、私たちが天主に依存していることを認めることです。私たちの中にある善であるものはすべて、天主から頂きました。聖母は、「全能者が私に偉大なことをされたからです」(ルカ1章49節)とお認めになられました。感謝は美しい徳です。私たちは、特に完全な感謝のいけにえ、ミサを捧げることによって、天主に感謝します。
天主だけが、「ens a se―自分で存在する」のです。天主は存在をお受けになったのではありません。すべての被造物は「ens ab alio-他者によって造られ、他者によって存在する」のです。私たちは最終的に天主から存在を受けました。それゆえに、天主が被造物に依存することは絶対になく、逆に、私たちが完全に天主に依存しているのです。この天主の超越性が、天主を礼拝すべき理由そのものなのです。聖母はマニフィカトの同じ文の中でこの超越性をお認めになられました。「そのみ名は清」(ルカ1章49節)い、と。謙遜は、天主への崇敬と礼拝に密接に結び付いています。ですから私たちは、完全な礼拝のいけにえ、ミサの聖なるいけにえを天主に捧げるのです。
天主が何者にも依存しないこと、天主が無限に完全であることを聖母はどちらもたいへんよく理解しておられましたから、天主のみ前で完全な謙遜でおられました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。しかし、不幸なことに、他の人間はすべて多くの罪に陥ります。小罪だけの者もいますが、多くの者は大罪に陥ります。ですから、これが天主のみ前で謙遜であるべき第二の非常に重要な理由なのです。私たちは天主の御目の前に立つのにふさわしくありません。私たちは惨めな罪びとです。聖ペトロは、奇跡的な大漁ののち、ひれ伏して言いました。「主よ、私から離れてください。私は罪びとです」(ルカ5章8節)。ですから、私たちには絶対に贖い主が必要です。私たちは私たちの罪を償うために、天主に完全ななだめのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げることが必要なのです。
聖母は、私たちが罪深い者であることを知るのを助けてくださいます。聖母の完全な清さと無垢と比べることで、私たちの罪が真実の光の中で、その醜さを見せます。私たちの生活から絶対に拒否すべき大罪―それは絶対に駄目です―だけでなく、天主をお喜ばせしない小罪の醜さも見せてしまいます。私たちは、聖母の助けによって、聖母のように、インマクラータのように、もっともっと恩寵に忠実であるように、清くあるように努力すべきです。罪に対する戦いにおいて、聖母は最も力をお持ちのお方です。聖母は謙遜によって、悪魔の、この傲慢の怪物の頭を踏み砕かれました。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕く」(創世記3章15節)。罪に対する戦いに勝利するため、ここ地上で私たちの必要とするすべてのものを得るため、私たちには聖母の助けが必要です。そうすれば、聖母は多くの惨めさから私たちを助けてくださいます。私たちには私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、その恩寵を願い求めなければなりません。そのため、私たちは完全な祈願のいけにえ、願いのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げるのです。
生けるインマクラータ、無原罪の聖母は、まったく清らかでまったく純粋なお方です。それは、聖母が常に天主の光の下で、私たちの主イエズス・キリストという光の下で生きておられたからです。「み言葉には生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章4節)。「私は世の光である。私に従う人は闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの地上での生活の始まりから終わりまで、十字架の下まで、主に完全に従っておられました。それゆえに、聖母はさらに、被昇天によって天国にまで主に従うに値するお方でした。被昇天は、無原罪の御宿り(という与えられた恩寵)に対して忠実だった聖母への究極の報いなのです。無原罪の御宿りが聖母の生涯の聖寵充ち満てる始まりであったように、被昇天は同じ聖母の生涯の聖寵充ち満てる終わりなのです。聖母が聖寵充ち満てるお方であるのは、私たちの主イエズス・キリスト、「御父の御独り子、恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)お方に充ち満ちておられたからです。
ですから、この祝日の実りを引き出しましょう。聖母への無原罪の御宿りという驚くべき賜物をさらに深く尊重するという実り、私たちの主イエズス・キリストが御母になされた驚くべきわざを見て主の救いの御力をさらに深く信頼するという実り、私たちが自分の惨めさ、原罪の結果を考察してさらに深く謙遜になるという実り、私たちが天主に依存していることを考察して聖母をまねようと努めるときさらに深く謙遜になるという実り、私たちの主イエズス・キリストの恩寵、主によって生き、主のために生き、主の光において生きる恩寵に対するさらに大いなる忠実を持つという実りを引き出しましょう。そして最後には、主の恩寵によって、天国に行き、御父と聖霊と共に永遠に、顔と顔を合わせて主を見るという祝福されたその日を迎えることができますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった「無原罪の御宿り」についての講話をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年12月13日―大阪 勉強用説教「無原罪の御宿り」
親愛なる兄弟の皆さん、
童貞聖マリアは、(その母聖アンナに)宿られたとき無原罪でした。聖母は「無原罪の御宿り」です。この信仰の教義はどういう意味でしょうか?
その意味は、天主の特別な特権によって、私たちの主イエズス・キリストの功徳のゆえに、童貞聖マリアは原罪から守られていたということです。
原罪は、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです。そのとき、エバ、そしてアダムが天主に逆らって禁断の果実を食べ、天主のご意思よりも自分たちの意思を優先し、天主への従順を拒否し、天主のみ言葉よりも悪魔の言葉を信用し、善と悪についての知識を自分たちで得ようと望んだ、つまり何が善で何が悪であるかを自分たちで決定しようとしたのです。自分たちの上に法があることを欲せず、天主の法を拒絶したのです! 彼らは、罪についての完全な知識を持ち、善き主へのはなはだしい忘恩を承知の上で、この罪を犯したのです。主が彼らに、素晴らしい楽園だけでなく、無苦痛、不死、知識、正義という賜物に加えて、とりわけ成聖の恩寵という賜物をお与えになったにもかかわらずです。成聖の恩寵は、天主との友情という驚くべきものであり、それは彼らが夕べに天主と親しい会話を交わしていたことによって分かります。
罪を犯した後、彼らは、この友情が台無しになったのにすぐ気付いたため、身を隠しました。彼らはまた、肉の反逆を感じたため、いちじくの葉で身を覆いました。彼らは成聖の恩寵を失いました。つまり、知識、正義、無苦痛、不死という「(自然を外れた)外自然の賜物(preternatural gifts)」を失ってしまったのです。彼らは死の支配下に入ったのです。彼らの本性は深く傷つき、すなわち、今や罪への悪しき傾きを感じたのです。
アダムの罪はその子孫にも伝わります。それはなぜでしょうか? 不正義のように思えます。それを理解するためには、次のことを考えなければなりません。天主は、成聖の恩寵をただ アダムとエバだけにお与えになったのではなく、彼らの子孫にも成聖の恩寵が伝わるようにというご意向を持っておられたのです。もしアダムとエバが罪を犯さなかったとしたら、彼らは体の命だけでなく、一緒に結び付いた霊魂の命も伝達していたことでしょう。ある意味で、外自然の賜物は、本性と恩寵の「接着剤」のようなものだったのであり、天主の子にふさわしくなるように人間の本性を完成させるものだったのです。アダムが天主の養子であったということは、福音書自体にも見られます。それは、聖ルカ福音書のキリストの系図の終わりが「アダムは天主の子であった」と言っているところです。本性によらず、恩寵によって子であったのです。私たちの主イエズス・キリストのみが本性によって天主の御独り子であり、御父とまさに同じ天主の本性を持っておられるのです。しかし、アダムは養子として、恩寵によって子であったのです。さて、アダムはこれら外自然の恩寵を失ったのですから、失ったものを与えることはできませんでした。ですから、アダムは私たちに外自然の賜物を伝えることはできず、そればかりか、この接着剤を失ってしまったのですから、体の命と一緒に霊魂の命(成聖の恩寵)を伝達することはできませんでした。これによって、アダムの子孫は、アダムの過ちによって、霊魂の命をはく奪された状態で生まれるのです。
この最初に持っていた恩寵のはく奪は、まさに原罪の本質そのものです。また、それとともに私たちはアダムの傷ついた本性を受け継いでいます! 原罪は実際、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです!
原罪は信仰の教義です。聖パウロは実際、ローマ人へ書き送っています。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので死がすべての人に及んだ」(ローマ5章12節)。人類を眺めてみて、罪への傾きのような多くの悪があるのを見るとき、天主の御業がいつも善いのであるなら、どのようにしてそうなり得たのかと不思議に思うでしょう?! 人類の最初におけるこの悲劇だけが、人間の罪深さを説明することができます。
原罪は三つの結果をもたらします。1)成聖の恩寵の喪失、2)死という罰、3)罪による傷―です。この傷は、知性における無知という傷、意志における悪意(自己中心)という傷、欲望における弱さと情欲という傷です。
しかし、天主は人類をお見捨てにはなりませんでした。天主は、「罪から民を救う方」(マテオ1章21節)である救い主を送ると約束されました。私たちは「他の人々と同じく本来は怒りの子であった。しかし慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪にために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった、あなたたちの救われたのは恩寵による」(エフェゾ2章3-5節)。私たちの主イエズス・キリストが「現れたのは罪を除くためであり、イエズス自身に罪はない」(ヨハネ第一3章5節)。
私たちの主イエズス・キリストは天主の子であり、御父と等しいお方であり、私たちを罪から救うために天から下ってこられた全能者です。主は救いのために必要なすべての力を持っておられます。そして、その証拠はまさにこの祝日です。無原罪の童貞の祝日です。聖母は完全に罪から救われたため、罪は聖母に対しては何の力もなく、聖母に手を出すことはできませんでした。聖母は完全に(汚れのない)無原罪であり、御宿りのときだけでなく、全生涯にわたってそうあり続けたのであり、聖母は無原罪のお方、インマクラータなのです! 聖母は童貞中の童貞であり、あらゆる領域においてこの童貞という言葉の意味があてはまります。完全な無垢であり、罪に決して触れられることはありません。聖母は罪に対する最良の薬、予防薬を受けられたのです。聖母は御宿りの最初の瞬間より、あらゆる罪から守られていたのです。聖母は決して大罪を犯さず、小罪さえも決して犯しませんでした。聖母は決して原罪の影響を受けたことはなく、罪への傾きもまったくありませんでした。聖母は絶対的に(汚れのない)無原罪なのです。
さて、かつて原罪を否定する異端者がいました。彼らはペラギウス派と呼ばれました。原罪を否定した結果として、彼らは救いのための恩寵の必要性を否定しました。私たちの主イエズス・キリストの恩寵がなくても、私たち自身の自然の力によって罪を犯さないことは可能だ、天主の全ての戒めに従うことは可能だ、そして天国に行くことは可能だ、と主張したのです。彼らの異端は、自然主義として現代でも続いています。自然主義も原罪を否定し、人はみな善き者として生まれるが、社会が悪い者にしてしまうのだと主張します。これは、ルソーや他の多くの人々の哲学です。教皇ピオ九世は、1854年12月8日に無原罪の御宿りの教義を定めたとき、この教義はペラギウス派と自然主義の誤謬に対する薬であると説明しました。聖母に原罪がなかったのなら、聖母は私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要としなかった、と言う人がいるかもしれません。しかし、これは大変な考え違いです。実際、聖母が原罪から守られているのは、まさに私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってなのですから! 恩寵を必要としないどころか、童貞聖マリアはまさに「聖寵充ち満てる」お方です! また、ご自分に偉大なことをなさったのは天主であると、誰より先に聖母ご自身が認めておられます。「全能者が私に偉大なことをされたからです。その御名は清く、そのあわれみは、世々敬い恐れる人々の上に下ります」(ルカ1章49-50節)。
私たちは原罪のアンチテーゼ(正反対)を聖母に見いだします。聖母は聖寵充ち満てるお方です。聖母は死に定められませんでしたが、御子が私たちの罪の負債を支払うために死を選ばれたため、聖母は御子にご自分を一致させることを選ばれ、そのために亡くなられました。しかし、命へと復活され、体と霊魂は天にあげられました。また聖母には、罪の傷、罪への傾き、自己中心性、弱さ、情欲のひとかけらもありませんでした。
聖ベルナルドは、聖母が「天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)のは、聖母ご自身のためだけでなく、私たちのためでもあったのだ、と言いました。聖母は私たちに、母として与えられました(ヨハネ19章27節)。聖母は私たちに、私たちの主イエズス・キリストが十字架の上で獲得された恩寵を配られます。聖母は私たちに、私たちの霊魂にある原罪の傷を癒やす恩寵をお与えになります。私たちには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要です! 「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。知性を照らし、無知の傷を癒やすため、私たちには信仰の恩寵が必要です。すべてに超えて天主の愛と共に私たちの意志を燃え立たせ、自己中心と悪意の傷を癒やすため、私たちには愛の恩寵が必要です。弱さの傷を癒やし、天国へ行く途中に出合うあらゆる困難、特に世の妨げによる多くの困難に打ち勝つため、私たちには剛毅の恩寵が必要です。情欲の傷を癒やし、速やかな満足と地上の楽しみへと向かわせる私たちの中の悪しき傾きに抵抗するため、私たちには感覚における節制と禁欲の恩寵が必要です。それによって、特に祈りにおいて、私たちの霊魂が天主の方へ挙げられるように。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。聖母はこれらの恩寵に満たされ、「聖寵充ち満てる」お方でしたから、私たちのためにそのすべての恩寵を取り成してくださいます。聖母は、私たちが黙想すべき外的な模範であるだけでなく、私たちの霊魂を変容させ、癒やす内的な恩寵を、私たちのために取り成してくださるため今も働いてくださる取り次ぎ者でいらっしゃるのです。
天主は悪から善を引き出すお方です。原罪は、私たちが謙遜を保つために有益です。罪は傲慢によって世に入りました。原罪のなかったアダムとエバが傲慢になり、ひどく堕落しました。原罪を持って生まれた私たちにとって、自分の霊的な惨めさを認めると、それが私たちに謙遜を保たせてくれます。洗礼ののち、残っている傷もまた、私たちに謙遜を保たせてくれます。童貞聖マリアは受けた恩寵によって、いつも最も謙遜な心を持っておられました。「主が卑しいはしために御目をとめられたからです」(ルカ1章48節)。聖母は、私たちが謙遜の行いをすることができるよう、私たちを助けてくださる強い力をお持ちです。
第一の謙遜のわざは、私たちが天主に依存していることを認めることです。私たちの中にある善であるものはすべて、天主から頂きました。聖母は、「全能者が私に偉大なことをされたからです」(ルカ1章49節)とお認めになられました。感謝は美しい徳です。私たちは、特に完全な感謝のいけにえ、ミサを捧げることによって、天主に感謝します。
天主だけが、「ens a se―自分で存在する」のです。天主は存在をお受けになったのではありません。すべての被造物は「ens ab alio-他者によって造られ、他者によって存在する」のです。私たちは最終的に天主から存在を受けました。それゆえに、天主が被造物に依存することは絶対になく、逆に、私たちが完全に天主に依存しているのです。この天主の超越性が、天主を礼拝すべき理由そのものなのです。聖母はマニフィカトの同じ文の中でこの超越性をお認めになられました。「そのみ名は清」(ルカ1章49節)い、と。謙遜は、天主への崇敬と礼拝に密接に結び付いています。ですから私たちは、完全な礼拝のいけにえ、ミサの聖なるいけにえを天主に捧げるのです。
天主が何者にも依存しないこと、天主が無限に完全であることを聖母はどちらもたいへんよく理解しておられましたから、天主のみ前で完全な謙遜でおられました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。しかし、不幸なことに、他の人間はすべて多くの罪に陥ります。小罪だけの者もいますが、多くの者は大罪に陥ります。ですから、これが天主のみ前で謙遜であるべき第二の非常に重要な理由なのです。私たちは天主の御目の前に立つのにふさわしくありません。私たちは惨めな罪びとです。聖ペトロは、奇跡的な大漁ののち、ひれ伏して言いました。「主よ、私から離れてください。私は罪びとです」(ルカ5章8節)。ですから、私たちには絶対に贖い主が必要です。私たちは私たちの罪を償うために、天主に完全ななだめのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げることが必要なのです。
聖母は、私たちが罪深い者であることを知るのを助けてくださいます。聖母の完全な清さと無垢と比べることで、私たちの罪が真実の光の中で、その醜さを見せます。私たちの生活から絶対に拒否すべき大罪―それは絶対に駄目です―だけでなく、天主をお喜ばせしない小罪の醜さも見せてしまいます。私たちは、聖母の助けによって、聖母のように、インマクラータのように、もっともっと恩寵に忠実であるように、清くあるように努力すべきです。罪に対する戦いにおいて、聖母は最も力をお持ちのお方です。聖母は謙遜によって、悪魔の、この傲慢の怪物の頭を踏み砕かれました。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕く」(創世記3章15節)。罪に対する戦いに勝利するため、ここ地上で私たちの必要とするすべてのものを得るため、私たちには聖母の助けが必要です。そうすれば、聖母は多くの惨めさから私たちを助けてくださいます。私たちには私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、その恩寵を願い求めなければなりません。そのため、私たちは完全な祈願のいけにえ、願いのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げるのです。
生けるインマクラータ、無原罪の聖母は、まったく清らかでまったく純粋なお方です。それは、聖母が常に天主の光の下で、私たちの主イエズス・キリストという光の下で生きておられたからです。「み言葉には生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章4節)。「私は世の光である。私に従う人は闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの地上での生活の始まりから終わりまで、十字架の下まで、主に完全に従っておられました。それゆえに、聖母はさらに、被昇天によって天国にまで主に従うに値するお方でした。被昇天は、無原罪の御宿り(という与えられた恩寵)に対して忠実だった聖母への究極の報いなのです。無原罪の御宿りが聖母の生涯の聖寵充ち満てる始まりであったように、被昇天は同じ聖母の生涯の聖寵充ち満てる終わりなのです。聖母が聖寵充ち満てるお方であるのは、私たちの主イエズス・キリスト、「御父の御独り子、恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)お方に充ち満ちておられたからです。
ですから、この祝日の実りを引き出しましょう。聖母への無原罪の御宿りという驚くべき賜物をさらに深く尊重するという実り、私たちの主イエズス・キリストが御母になされた驚くべきわざを見て主の救いの御力をさらに深く信頼するという実り、私たちが自分の惨めさ、原罪の結果を考察してさらに深く謙遜になるという実り、私たちが天主に依存していることを考察して聖母をまねようと努めるときさらに深く謙遜になるという実り、私たちの主イエズス・キリストの恩寵、主によって生き、主のために生き、主の光において生きる恩寵に対するさらに大いなる忠実を持つという実りを引き出しましょう。そして最後には、主の恩寵によって、天国に行き、御父と聖霊と共に永遠に、顔と顔を合わせて主を見るという祝福されたその日を迎えることができますように。アーメン。