アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
主の御降誕まであと一週間となりました。
先週の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。
まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めることにいたしましょう!
そして、イエズス様のご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておられたかを黙想することにいたしましょう。ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたかを! どれほど御子をご覧になりたいと思われたかを! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたのかを! イエズス様がふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたかを!
私たちの霊魂が幼きイエズス様を見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をいたしましょう。
洗者聖ヨハネにの言葉に耳を傾けて、悔い改めの時である待降節を良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【お説教】
2015年12月13日待降節第三主日の説教―大阪 洗者聖ヨハネについて
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちの主イエズス・キリストは私たちに対して、「洗者ヨハネよりも偉大な預言者はいない」(ルカ7章28節)、さらにもう一度、洗者ヨハネは「預言者よりもすぐれた人」(マテオ11章9節)と言われました。洗者ヨハネとは何者なのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは彼についてこう言われます。「『私は使いを先に送る、あなたの道を整えさせるために』と[預言者マラキアによって]書かれているのはその人のことである」(マテオ11章10節)。しかし、聖ヨハネは非常に謙遜な方ですから、自分のことをこう言いました。「私はキリストではない…私はエリアではない…私は預言者ではない」(ヨハネ1章20-21節)。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒れ野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。聖ヨハネの使命は、民がキリストを受け入れるよう、直接準備をすることでした。ですから彼は、主を指し示し、主に洗礼を授けるという特別な恩寵を持っていたのです。
救い主の来臨は、四千年以上前、天主が蛇に「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世3章15節)と言われたときすでに、告知されていました。蛇の頭は、女とその子孫によって砕かれることになるのです。それ以来、天主は何度も預言者を送られました。それは、人類が罪の中に沈まぬようにするためというよりも、むしろ来るべき救い主への信仰を新たにするためでした。これは、救い主が出ることになっていたヘブライ人の準備において特に当てはまり、特別な方法で偉大な聖人たちを準備なさいました。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブ、さらに後には天主が律法をお与えになったモーゼでした。モーゼは、人々に自然の道徳の律法を思い出させ、儀式の律法を通してキリストを告知しました。さて、この民は大変反逆的でしたから、天主はさらに多くの預言者を送られ、民に忠実の道を思い出させ、罪を犯し続けるならば罰を与える、と民に警告されました。これらの罪のため、民はバビロニアへ追放されましたが、のちには追放から帰還させてもらいました。追放から帰還したときにいた最後の預言者たち以降は、もう預言者が出ることはなく、民は四百年近く、幾度となく告知されてきた救い主となるお方の出現を待ちながら生きていました。
そしてその後、聖ヨハネが生まれました。それは奇跡でした。なぜなら、聖ヨハネの母は子どものできない女であり、両親ともかなり高齢だったからです。人々は言いました。「『この幼子はどうなるだろう?』実に主の御手はその子とともにあったからである」(ルカ1章66節)。まだ非常に若いとき、聖ヨハネは砂漠に隠遁し、そこで聖霊によって教えを受けました。彼は悔い改めの生活を生きました。彼は「らくだの毛の衣をまとい、腰に皮帯を締め、いなごと野蜜を食べて」(マテオ3章4節)、すべての時間を祈りに費やしていました。人々は聖ヨハネのことに気付き、こう言いました。荒れ野に天主の人がいる! 人々が聖ヨハネのところへ来たため、聖ヨハネは大変強い調子で説教しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マテオ3章2節)。「まむし族の者よ、近く来る天主の怒りを逃れることを、誰があなたたちに教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。心の中で、『われわれの父にアブラハムがいる』と言おうとするな。私は言うが、天主はこれらの石からもアブラハムの子らを創ることができる。おのはもう木の根に置かれた。よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章7-10節)。
この悔い改めよとの呼びかけは、今日最も必要です。私たちはキリストに戻る必要があります。キリストをまったく知らなかった人々は、本当にキリストのところに来る必要があります。なぜなら、キリストなしでは誰も救われないからです。「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名はそのほかにはないからです」(使徒行録4章12節)。悔い改めは、私たちの主イエズス・キリストを受けられるようにするために必要な準備です。地上のもの、罪への愛着があって、頭が砂に埋もれてしまっては、誰も光を見ることはできません。悔い改めなければ、あわれみはありません。天主の御あわれみが、私たちを罪の悔い改めへと導きます。洗者聖ヨハネは、主の道を準備し、私たちの道を真っすぐにするため、悔い改めを説教しました。私たちが聖ヨハネの言うことをよく聞いて、本当に罪の悔い改めをすることができますように。
多くの人々が聖ヨハネから悔い改めの洗礼を受けましたが、ファリザイ人は彼を拒否しました。しかし、聖ヨハネの使命は、ただ悔い改めを説教するよりもずっと高い価値を持つものでした。その主な使命は、キリストがすでにそこにいること、民の中にいること(イエズスはヨハネよりもちょうど六カ月若かったため)を告知し、そのあとで彼らにキリストを指し示すことでした。「人々は主を期待していたので、みな心の中で、ヨハネはキリストではないのかと考えていたけれども、ヨハネはみなに向かって言った、『私は水で洗礼を授けるが、私よりも力のある方が来られる。私はその方の履物のひもを解く値打ちもない者だ。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授けられる。また、その方は手に箕(み)を持ち、打ち場を清め、麦を倉に納め、殻は消えることのない火で焼くだろう』」(ルカ3章15-17節)。この偉大な聖人が地獄にについて説教することを恐れなかったのを心に留めてください。
人々は聖ヨハネを自分たちよりもずっと高貴な存在だと思っていましたが、聖ヨハネ自身は、その靴のひもを解く値打ちもないほどキリストを自分より高貴な存在だと証言しました。それでは、私たちの主イエズス・キリストは何者でしょうか? 「ヨハネは自分の方に来られるイエズスを見て、『世の罪を取り除く天主の小羊を見よ。私がかつて〈私のあとに来るお方は、私よりすぐれた方で、私より前に存在しておられた〉と言ったのはこの方のことである。私はその方を知らなかったが、イスラエルに公に現れるようにと私はその方に水で洗礼を授けに来た』と言った。それからヨハネは証しを立てて言った、『霊が鳩のような形で天から下り、その方の上にとどまるのを私は見た。私はそれを知らなかったが、水によって洗礼を授けるようにと私を遣わされた方が、〈あなたは、その人の上に霊が下り、そしてとどまるのを見る。その方こそ聖霊で洗礼を授ける者である〉と仰せられた。私はそれを見、そして、その方こそ天主の御子であると証明した』」(ヨハネ1章29-34節)。
これは、洗者聖ヨハネの素晴らしい証言です。自身が洗者聖ヨハネの弟子であった使徒聖ヨハネによって、私たちのために記録されたものなのです。使徒聖ヨハネは、福音書に記録した言葉についての直接の証人です。その言葉が大変深遠であり、大変重要であったため、使徒聖ヨハネは決して忘れることができませんでした。イエズスは「天主の小羊」です。イエズスは「天主の御子」です。まことの人間であり、まことの天主であって、「世の罪を取り除く」お方、世の救い主です! これらの言葉の素晴らしさを認めましょう! まことの天主、全能である天と地の創造主は、驚くほど私たちを気にかけてくださる天主、人間を非常に気にかけ、御独り子を送られるほど人間を愛してくださるお方です。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「み言葉はご自分の家に来られた」(ヨハネ1章11節)。イエズスはまことの天主であり、天と地の創造主(「万物はみ言葉によって創られた。一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない」(ヨハネ1章3節))であり、無限の善そのものでいらっしゃいます! 私たちにはキリストの神性に対するこの信仰が必要です。イエズスは「天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主」(信経)であり、「真理であり命」(ヨハネ14章6節)であり、旧約で言われたように、彼は「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡であり、天主の崇高さのかたどりである」(知恵7章26節)のです。聖パウロは同じことを言っています。イエズスは「天主の栄光の輝き、天主の本性の型である子は、その勢力あるみ言葉によって宇宙を保」(ヘブライ1章3節)つのです。
さて、天主の御子が地上に来られたのなら、これは全人類にとって最も重要です! 誰も彼を無視したり、嫌ったりすることは許されません。それどころか、私たちはみな、彼から学び、信仰によって私たちの頭に、愛によって私たちの心に、善き業によって私たちの両手に彼を受け入れるべきです。イエズスは私たちにとってすべてでなければならず、イエズスは私たちの命の理由そのものであり、私たちの命の究極の目的は、天国で顔と顔を合わせて彼を見ることなのです。
では、天主の御子は、何をするために地上に来られたのでしょうか? 「世の罪を取り除くために」、「民を罪から救うために」と、天使は聖ヨゼフに言いました。御子は救い主です。彼は私たち人間のあらゆる病気、そのうち最も重い病気である罪に対する薬です。彼は私たちの抱えるあらゆる問題の解決法です。彼は私たちの霊魂を癒やす天主の医者です。みな彼のところへ行き、心を開きましょう。そして、自分の罪を非難し、罪を告白し、御あわれみを頂き、私たちの霊魂が罪から癒やされる恩寵を頂きましょう。自己中心と憎しみがあるところに、彼は愛を置かれます。恨みのあるところに、彼は赦しを置かれます。傲慢のあるところに、彼は謙遜を置かれます。欲望があるところに、彼は純潔を置かれます。怒りと暴力があるところに、彼は柔和を置かれます。強欲と盗みがあるところに、彼は施しを置かれます。泥酔のあるところに、彼は平静を置かれます。闇のあるところに、彼はその光をもたらされます。失望のあるところに、彼は希望を置かれます。死のあるところに、彼は永遠の命をもたらされます!
では、天主の御子は、どのようにしてそのすべてを実現なさったのでしょうか? 十字架の祭壇の上でご自身を、天主の小羊として奉献することによってです! 「これは天主の小羊である」とは、私たちの主イエズス・キリストについての何と素晴らしい定義でしょうか! 主は実際まことの天主であり、天主の御子ですが、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われ」(フィリッピ2章8節)るために、地上に降りて来られました。主はこのようにして天主の小羊となられましたが、毎年過ぎ越しの祭で奉献されるすべての過ぎ越しの小羊がそれを象徴し、告知するだけでなく、旧約の神殿で奉献される毎日のいけにえがそれを象徴し、告知していたのです。しかし、主の十字架の完全ないけにえの奉献によって、主はこれら象徴的なものをすべて終了させ、今や新しい永遠の契約において、ミサの祭壇上の小羊のいけにえの完全な奉献に置き換えられました。
「天主の小羊!」。さて、これは最も驚くべきことです。天主の御子は私たちに代わって、私たち罪びとに代わって、十字架上で私たちの罪を償われるのです。無垢そのものであるお方が、私たちを罪から救うために罪のある私たちのために償われるのです! これは、天主がどれほど私たちを愛しておられるかということです。これは、天主がどれほど罪を憎んでおられるかということです。ですから、ためらってはなりません。私たちは、罪と完全に決別しなければなりません。私たちは、永遠に天主に忠実でなければなりません。私たちは、天主の恩寵によって、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子、天主の小羊の恩寵によって、そうすることができるのです。
洗者聖ヨハネのメッセージは、どれほど全世界にとって最も重要であるかを見てください! しかし、彼はさらに言います。ここには、彼が弟子たちに与えた美しくて深い確信があります。それはまさに、洗者聖ヨハネの本当の心を明らかにします。洗者ヨハネの弟子たちは「ヨハネのもとに来て、『先生、ヨルダン川の向こうで、あなたと一緒にいたあの人、あなたが証明したあの人が洗礼を授けて、人々はみなその方へ行きます』と言った。ヨハネは、『天から与えられぬ限り、人は何物もわがもの顔にはできぬ。私が〈私はキリストではない〉、〈ただ主に先立って送られた者だ〉と言ったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁を持つのは花婿で、花婿の友人はそこに立ち、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。これこそ私の満ちあふれる喜びである。彼は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ』と言った。上から来た人はすべてのものの上にあり、地から出た人は地上の者で地上のことを話す。天から来る方はみなの上にある。その方はご自分で見聞きしたことを証明されるが、誰一人その証明を受け入れぬ。だが、その証明を受け入れる人は、天主が真実であることを証明する。天主から遣わされた方は、天主から限りなく霊を与えられていて、天主のみ言葉を語る。御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた。御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章26-36節)。
聖ヨハネのこれらの弟子たちは、聖ヨハネと一緒にいることによって彼に忠実を尽くそうと思っていました。しかし、聖ヨハネは彼らに、彼らがいかに間違っているかを説明しました。弟子たちがみなイエズスの方へ行ってそのお話を聞くならば、聖ヨハネはもっと幸せになるのです。実際、「花嫁を持つのは花婿」なのですから。花嫁は教会、信者の会衆です。花婿はキリスト、救い主です。聖ヨハネはどうかと言えば、彼は「花婿の友人」、イエズスの友人であり、彼は喜びます。なぜなら、救い主が来て、その救いの使命を開始したからです。聖ヨハネの喜びは満たされます。聖ヨハネの謙遜は次の言葉にあります。「彼[イエズス]は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ」。彼らの死自体が、そのことを実現しました。イエズスは十字架上に上げられ、栄え、洗者聖ヨハネは斬首され、引き退(さが)ったのです。そして聖ヨハネは続けて、私たちの主イエズス・キリストと彼の神性について証言しました。「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」。御父は御子にすべてを、ご自分の神性をお与えになったのです! そして聖ヨハネは、私たちのために結論を引き出します。私たちは御子を信じなければなりません。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネから、私たちの主イエズス・キリストの神性についてのその偉大な信仰を、私たちの主イエズス・キリストに対するその偉大な愛をいただけるよう願い求めましょう。そうすることで、私たちが完全に主のために生き、聖ヨハネのように主のために自分の命を捧げることができますように。また、イエズスを知らせようとするその熱心さを願い求めましょう。皆さん一人一人がクリスマスにもう一人の人を連れてきてくださるならば、素晴らしいことです。幼きイエズスへの大変すてきな贈り物となるでしょう。
ミサに出席するときはいつでも、私たちは聖ヨハネの言葉を聞きます。聖体拝領の前に、司祭がその言葉を言います。「天主の小羊を見よ! 世の罪を取り除き給う御者を見よ!」。この偉大な預言者、全預言者の中で最も偉大な方を忘れないようにしましょう。そして、まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めましょう! これは、あの同じイエズス、ガリレアの道を歩まれ、聖ヨハネがヨルダン川で洗礼を授け、十字架上で亡くなられ、再びよみがえり、パンとぶどう酒の外観のもとに、ご聖体にまことにましますあの同じイエズスでいらっしゃるのです。これは、あの同じイエズス、彼に願い求めるすべての人に対して多くの恵みをお与えになるあの同じイエズスでいらっしゃるのです。主はご自分の体で私たちを養ってくださるので、私たちは主によって生きるのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。主が私たちのうちに生きてくださるようにです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。主は、私たちの霊魂の花婿として来られます。私たちが、「教会がキリストに従うように花婿に従う」(エフェゾ5章24節)良き花嫁として、まったく主のために、主に従って生きることができますように。
洗者聖ヨハネは、童貞聖マリアがご訪問で、その母にあいさつなさったとき、母の胎内で聖化されました。聖ヨハネが非常に多くの恩寵を受けたのは、マリア様を通してなのです。私たちがクリスマスの準備をするのも、マリア様を通してなされるべきです。聖母は救い主のご誕生の準備をどのようにしてなさったのでしょうか? イエズスのご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておいででしたのでしょうか? ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたでしょう! どれほど御子をご覧になりたいと思われたでしょう! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたでしょう! イエズスがふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたでしょう! 買い物にすべての注意を向けて、この世的な方法でクリスマスを迎えるのではなく、私たちの霊魂が幼きイエズスを見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をしましょう。この待降節は悔い改めの時であり、特に第三週は四季の斎日がありますから、聖ヨハネが説いたように私たちは悔い改めをもって準備をすることができますように。
洗者聖ヨハネと童貞聖マリアの模範に従って、私たちがすべてにわたって私たちの主イエズス・キリストのために生き、主を受けるのにふさわしい準備を、特にいとも聖なる秘跡であるご聖体を受けるのにふさわしい準備をすることができますように! アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
主の御降誕まであと一週間となりました。
先週の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。
まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めることにいたしましょう!
そして、イエズス様のご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておられたかを黙想することにいたしましょう。ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたかを! どれほど御子をご覧になりたいと思われたかを! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたのかを! イエズス様がふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたかを!
私たちの霊魂が幼きイエズス様を見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をいたしましょう。
洗者聖ヨハネにの言葉に耳を傾けて、悔い改めの時である待降節を良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【お説教】
2015年12月13日待降節第三主日の説教―大阪 洗者聖ヨハネについて
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちの主イエズス・キリストは私たちに対して、「洗者ヨハネよりも偉大な預言者はいない」(ルカ7章28節)、さらにもう一度、洗者ヨハネは「預言者よりもすぐれた人」(マテオ11章9節)と言われました。洗者ヨハネとは何者なのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは彼についてこう言われます。「『私は使いを先に送る、あなたの道を整えさせるために』と[預言者マラキアによって]書かれているのはその人のことである」(マテオ11章10節)。しかし、聖ヨハネは非常に謙遜な方ですから、自分のことをこう言いました。「私はキリストではない…私はエリアではない…私は預言者ではない」(ヨハネ1章20-21節)。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒れ野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。聖ヨハネの使命は、民がキリストを受け入れるよう、直接準備をすることでした。ですから彼は、主を指し示し、主に洗礼を授けるという特別な恩寵を持っていたのです。
救い主の来臨は、四千年以上前、天主が蛇に「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世3章15節)と言われたときすでに、告知されていました。蛇の頭は、女とその子孫によって砕かれることになるのです。それ以来、天主は何度も預言者を送られました。それは、人類が罪の中に沈まぬようにするためというよりも、むしろ来るべき救い主への信仰を新たにするためでした。これは、救い主が出ることになっていたヘブライ人の準備において特に当てはまり、特別な方法で偉大な聖人たちを準備なさいました。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブ、さらに後には天主が律法をお与えになったモーゼでした。モーゼは、人々に自然の道徳の律法を思い出させ、儀式の律法を通してキリストを告知しました。さて、この民は大変反逆的でしたから、天主はさらに多くの預言者を送られ、民に忠実の道を思い出させ、罪を犯し続けるならば罰を与える、と民に警告されました。これらの罪のため、民はバビロニアへ追放されましたが、のちには追放から帰還させてもらいました。追放から帰還したときにいた最後の預言者たち以降は、もう預言者が出ることはなく、民は四百年近く、幾度となく告知されてきた救い主となるお方の出現を待ちながら生きていました。
そしてその後、聖ヨハネが生まれました。それは奇跡でした。なぜなら、聖ヨハネの母は子どものできない女であり、両親ともかなり高齢だったからです。人々は言いました。「『この幼子はどうなるだろう?』実に主の御手はその子とともにあったからである」(ルカ1章66節)。まだ非常に若いとき、聖ヨハネは砂漠に隠遁し、そこで聖霊によって教えを受けました。彼は悔い改めの生活を生きました。彼は「らくだの毛の衣をまとい、腰に皮帯を締め、いなごと野蜜を食べて」(マテオ3章4節)、すべての時間を祈りに費やしていました。人々は聖ヨハネのことに気付き、こう言いました。荒れ野に天主の人がいる! 人々が聖ヨハネのところへ来たため、聖ヨハネは大変強い調子で説教しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マテオ3章2節)。「まむし族の者よ、近く来る天主の怒りを逃れることを、誰があなたたちに教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。心の中で、『われわれの父にアブラハムがいる』と言おうとするな。私は言うが、天主はこれらの石からもアブラハムの子らを創ることができる。おのはもう木の根に置かれた。よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章7-10節)。
この悔い改めよとの呼びかけは、今日最も必要です。私たちはキリストに戻る必要があります。キリストをまったく知らなかった人々は、本当にキリストのところに来る必要があります。なぜなら、キリストなしでは誰も救われないからです。「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名はそのほかにはないからです」(使徒行録4章12節)。悔い改めは、私たちの主イエズス・キリストを受けられるようにするために必要な準備です。地上のもの、罪への愛着があって、頭が砂に埋もれてしまっては、誰も光を見ることはできません。悔い改めなければ、あわれみはありません。天主の御あわれみが、私たちを罪の悔い改めへと導きます。洗者聖ヨハネは、主の道を準備し、私たちの道を真っすぐにするため、悔い改めを説教しました。私たちが聖ヨハネの言うことをよく聞いて、本当に罪の悔い改めをすることができますように。
多くの人々が聖ヨハネから悔い改めの洗礼を受けましたが、ファリザイ人は彼を拒否しました。しかし、聖ヨハネの使命は、ただ悔い改めを説教するよりもずっと高い価値を持つものでした。その主な使命は、キリストがすでにそこにいること、民の中にいること(イエズスはヨハネよりもちょうど六カ月若かったため)を告知し、そのあとで彼らにキリストを指し示すことでした。「人々は主を期待していたので、みな心の中で、ヨハネはキリストではないのかと考えていたけれども、ヨハネはみなに向かって言った、『私は水で洗礼を授けるが、私よりも力のある方が来られる。私はその方の履物のひもを解く値打ちもない者だ。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授けられる。また、その方は手に箕(み)を持ち、打ち場を清め、麦を倉に納め、殻は消えることのない火で焼くだろう』」(ルカ3章15-17節)。この偉大な聖人が地獄にについて説教することを恐れなかったのを心に留めてください。
人々は聖ヨハネを自分たちよりもずっと高貴な存在だと思っていましたが、聖ヨハネ自身は、その靴のひもを解く値打ちもないほどキリストを自分より高貴な存在だと証言しました。それでは、私たちの主イエズス・キリストは何者でしょうか? 「ヨハネは自分の方に来られるイエズスを見て、『世の罪を取り除く天主の小羊を見よ。私がかつて〈私のあとに来るお方は、私よりすぐれた方で、私より前に存在しておられた〉と言ったのはこの方のことである。私はその方を知らなかったが、イスラエルに公に現れるようにと私はその方に水で洗礼を授けに来た』と言った。それからヨハネは証しを立てて言った、『霊が鳩のような形で天から下り、その方の上にとどまるのを私は見た。私はそれを知らなかったが、水によって洗礼を授けるようにと私を遣わされた方が、〈あなたは、その人の上に霊が下り、そしてとどまるのを見る。その方こそ聖霊で洗礼を授ける者である〉と仰せられた。私はそれを見、そして、その方こそ天主の御子であると証明した』」(ヨハネ1章29-34節)。
これは、洗者聖ヨハネの素晴らしい証言です。自身が洗者聖ヨハネの弟子であった使徒聖ヨハネによって、私たちのために記録されたものなのです。使徒聖ヨハネは、福音書に記録した言葉についての直接の証人です。その言葉が大変深遠であり、大変重要であったため、使徒聖ヨハネは決して忘れることができませんでした。イエズスは「天主の小羊」です。イエズスは「天主の御子」です。まことの人間であり、まことの天主であって、「世の罪を取り除く」お方、世の救い主です! これらの言葉の素晴らしさを認めましょう! まことの天主、全能である天と地の創造主は、驚くほど私たちを気にかけてくださる天主、人間を非常に気にかけ、御独り子を送られるほど人間を愛してくださるお方です。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「み言葉はご自分の家に来られた」(ヨハネ1章11節)。イエズスはまことの天主であり、天と地の創造主(「万物はみ言葉によって創られた。一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない」(ヨハネ1章3節))であり、無限の善そのものでいらっしゃいます! 私たちにはキリストの神性に対するこの信仰が必要です。イエズスは「天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主」(信経)であり、「真理であり命」(ヨハネ14章6節)であり、旧約で言われたように、彼は「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡であり、天主の崇高さのかたどりである」(知恵7章26節)のです。聖パウロは同じことを言っています。イエズスは「天主の栄光の輝き、天主の本性の型である子は、その勢力あるみ言葉によって宇宙を保」(ヘブライ1章3節)つのです。
さて、天主の御子が地上に来られたのなら、これは全人類にとって最も重要です! 誰も彼を無視したり、嫌ったりすることは許されません。それどころか、私たちはみな、彼から学び、信仰によって私たちの頭に、愛によって私たちの心に、善き業によって私たちの両手に彼を受け入れるべきです。イエズスは私たちにとってすべてでなければならず、イエズスは私たちの命の理由そのものであり、私たちの命の究極の目的は、天国で顔と顔を合わせて彼を見ることなのです。
では、天主の御子は、何をするために地上に来られたのでしょうか? 「世の罪を取り除くために」、「民を罪から救うために」と、天使は聖ヨゼフに言いました。御子は救い主です。彼は私たち人間のあらゆる病気、そのうち最も重い病気である罪に対する薬です。彼は私たちの抱えるあらゆる問題の解決法です。彼は私たちの霊魂を癒やす天主の医者です。みな彼のところへ行き、心を開きましょう。そして、自分の罪を非難し、罪を告白し、御あわれみを頂き、私たちの霊魂が罪から癒やされる恩寵を頂きましょう。自己中心と憎しみがあるところに、彼は愛を置かれます。恨みのあるところに、彼は赦しを置かれます。傲慢のあるところに、彼は謙遜を置かれます。欲望があるところに、彼は純潔を置かれます。怒りと暴力があるところに、彼は柔和を置かれます。強欲と盗みがあるところに、彼は施しを置かれます。泥酔のあるところに、彼は平静を置かれます。闇のあるところに、彼はその光をもたらされます。失望のあるところに、彼は希望を置かれます。死のあるところに、彼は永遠の命をもたらされます!
では、天主の御子は、どのようにしてそのすべてを実現なさったのでしょうか? 十字架の祭壇の上でご自身を、天主の小羊として奉献することによってです! 「これは天主の小羊である」とは、私たちの主イエズス・キリストについての何と素晴らしい定義でしょうか! 主は実際まことの天主であり、天主の御子ですが、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われ」(フィリッピ2章8節)るために、地上に降りて来られました。主はこのようにして天主の小羊となられましたが、毎年過ぎ越しの祭で奉献されるすべての過ぎ越しの小羊がそれを象徴し、告知するだけでなく、旧約の神殿で奉献される毎日のいけにえがそれを象徴し、告知していたのです。しかし、主の十字架の完全ないけにえの奉献によって、主はこれら象徴的なものをすべて終了させ、今や新しい永遠の契約において、ミサの祭壇上の小羊のいけにえの完全な奉献に置き換えられました。
「天主の小羊!」。さて、これは最も驚くべきことです。天主の御子は私たちに代わって、私たち罪びとに代わって、十字架上で私たちの罪を償われるのです。無垢そのものであるお方が、私たちを罪から救うために罪のある私たちのために償われるのです! これは、天主がどれほど私たちを愛しておられるかということです。これは、天主がどれほど罪を憎んでおられるかということです。ですから、ためらってはなりません。私たちは、罪と完全に決別しなければなりません。私たちは、永遠に天主に忠実でなければなりません。私たちは、天主の恩寵によって、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子、天主の小羊の恩寵によって、そうすることができるのです。
洗者聖ヨハネのメッセージは、どれほど全世界にとって最も重要であるかを見てください! しかし、彼はさらに言います。ここには、彼が弟子たちに与えた美しくて深い確信があります。それはまさに、洗者聖ヨハネの本当の心を明らかにします。洗者ヨハネの弟子たちは「ヨハネのもとに来て、『先生、ヨルダン川の向こうで、あなたと一緒にいたあの人、あなたが証明したあの人が洗礼を授けて、人々はみなその方へ行きます』と言った。ヨハネは、『天から与えられぬ限り、人は何物もわがもの顔にはできぬ。私が〈私はキリストではない〉、〈ただ主に先立って送られた者だ〉と言ったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁を持つのは花婿で、花婿の友人はそこに立ち、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。これこそ私の満ちあふれる喜びである。彼は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ』と言った。上から来た人はすべてのものの上にあり、地から出た人は地上の者で地上のことを話す。天から来る方はみなの上にある。その方はご自分で見聞きしたことを証明されるが、誰一人その証明を受け入れぬ。だが、その証明を受け入れる人は、天主が真実であることを証明する。天主から遣わされた方は、天主から限りなく霊を与えられていて、天主のみ言葉を語る。御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた。御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章26-36節)。
聖ヨハネのこれらの弟子たちは、聖ヨハネと一緒にいることによって彼に忠実を尽くそうと思っていました。しかし、聖ヨハネは彼らに、彼らがいかに間違っているかを説明しました。弟子たちがみなイエズスの方へ行ってそのお話を聞くならば、聖ヨハネはもっと幸せになるのです。実際、「花嫁を持つのは花婿」なのですから。花嫁は教会、信者の会衆です。花婿はキリスト、救い主です。聖ヨハネはどうかと言えば、彼は「花婿の友人」、イエズスの友人であり、彼は喜びます。なぜなら、救い主が来て、その救いの使命を開始したからです。聖ヨハネの喜びは満たされます。聖ヨハネの謙遜は次の言葉にあります。「彼[イエズス]は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ」。彼らの死自体が、そのことを実現しました。イエズスは十字架上に上げられ、栄え、洗者聖ヨハネは斬首され、引き退(さが)ったのです。そして聖ヨハネは続けて、私たちの主イエズス・キリストと彼の神性について証言しました。「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」。御父は御子にすべてを、ご自分の神性をお与えになったのです! そして聖ヨハネは、私たちのために結論を引き出します。私たちは御子を信じなければなりません。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネから、私たちの主イエズス・キリストの神性についてのその偉大な信仰を、私たちの主イエズス・キリストに対するその偉大な愛をいただけるよう願い求めましょう。そうすることで、私たちが完全に主のために生き、聖ヨハネのように主のために自分の命を捧げることができますように。また、イエズスを知らせようとするその熱心さを願い求めましょう。皆さん一人一人がクリスマスにもう一人の人を連れてきてくださるならば、素晴らしいことです。幼きイエズスへの大変すてきな贈り物となるでしょう。
ミサに出席するときはいつでも、私たちは聖ヨハネの言葉を聞きます。聖体拝領の前に、司祭がその言葉を言います。「天主の小羊を見よ! 世の罪を取り除き給う御者を見よ!」。この偉大な預言者、全預言者の中で最も偉大な方を忘れないようにしましょう。そして、まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めましょう! これは、あの同じイエズス、ガリレアの道を歩まれ、聖ヨハネがヨルダン川で洗礼を授け、十字架上で亡くなられ、再びよみがえり、パンとぶどう酒の外観のもとに、ご聖体にまことにましますあの同じイエズスでいらっしゃるのです。これは、あの同じイエズス、彼に願い求めるすべての人に対して多くの恵みをお与えになるあの同じイエズスでいらっしゃるのです。主はご自分の体で私たちを養ってくださるので、私たちは主によって生きるのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。主が私たちのうちに生きてくださるようにです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。主は、私たちの霊魂の花婿として来られます。私たちが、「教会がキリストに従うように花婿に従う」(エフェゾ5章24節)良き花嫁として、まったく主のために、主に従って生きることができますように。
洗者聖ヨハネは、童貞聖マリアがご訪問で、その母にあいさつなさったとき、母の胎内で聖化されました。聖ヨハネが非常に多くの恩寵を受けたのは、マリア様を通してなのです。私たちがクリスマスの準備をするのも、マリア様を通してなされるべきです。聖母は救い主のご誕生の準備をどのようにしてなさったのでしょうか? イエズスのご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておいででしたのでしょうか? ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたでしょう! どれほど御子をご覧になりたいと思われたでしょう! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたでしょう! イエズスがふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたでしょう! 買い物にすべての注意を向けて、この世的な方法でクリスマスを迎えるのではなく、私たちの霊魂が幼きイエズスを見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をしましょう。この待降節は悔い改めの時であり、特に第三週は四季の斎日がありますから、聖ヨハネが説いたように私たちは悔い改めをもって準備をすることができますように。
洗者聖ヨハネと童貞聖マリアの模範に従って、私たちがすべてにわたって私たちの主イエズス・キリストのために生き、主を受けるのにふさわしい準備を、特にいとも聖なる秘跡であるご聖体を受けるのにふさわしい準備をすることができますように! アーメン。