【書評3】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(3)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
LGBTQ+運動とは性革命の一段階だ。
毛沢東は文化革命で中国の過去の遺産を全て破壊しようとした。しかし究極の革命とは天主の創造の秩序の破壊だ。性革命は、究極の革命の一部だ。
テサロニケ人への後の手紙には、主イエズス・キリストの再臨の時についてこうある。
「それ【主の来臨】より先に、棄教のことがあり、罪の人、亡びの子が、天主の聖所にすわり、自分を天主として示し、天主ととなえられるもの、崇敬されるもののうえに、自分を立てる反逆者としてあらわれるまで、主の日は来ない。」
「罪の人、亡びの子」とは一体誰か?「天主の聖所にすわり、自分を天主として示す」とはどういう意味なのか?
「罪の人、亡びの子」とは、天主の創造の秩序を破壊しようとする人間のことだ。天主の十戒をあえて破り、天主の御旨(みむね)に従おうとしない人々のことだ。
「天主の聖所にすわり、自分を天主として示す」とは、いにしえの蛇(サタン)の誘惑をうけた人祖のように、自分のやり方で天主のようになりたいと欲することだ。
現代人は自分が神だという
現代人は、天主など存在しないという。現代人は、自分こそが神だという。
何が善で何が悪かを決定するのは私だ、という。
天主の十戒など関係ない、という。そんなもの知ったものか!という。
私は、やりたいことをする。私は自由だ。
私は、男であるか女であるかさえも自分で決めるし、決めることができる!
子供が生まれてくるか、生まれてこないか、私が決める。
避妊薬を飲み、堕胎薬を飲み、堕胎手術も自由にする権利がある。これは、私の自由だ。
性的な快楽を自由に楽しみ、それにともなう一切の制限は拒否する。性の快楽さえあれば子供はいらない。結婚もいらない。私は自由だ。性交のパートナーは男だろうが女だろうが何人だろうが自由に選ぶ。複数の男が複数の女と関係があるのも自由だ。近親相姦も何が悪いのか。獣姦もやりたい放題だ。私は自由だ。
同性愛のカップルに子どもが必要なら、工場製品のように部品を買って生産すればよい、と現代人は言う。卵子を買う、精子を買う、代理出産の女性の胎を買うのだ、と。
こうして生まれてきた子供は自分の本当の親が誰かを知ることもできず生まれてくる。子供は自分の両親のもとで育つ権利を奪われて同性愛カップルに渡される。このようにして子供を「生産」することは、天主の定めた命の掟に反している。天主の計画に恐るべきやり方で逆らっている。
性革命のトランスジェンダーの段階
同性愛者の「結婚」の次は、トランスジェンダーの段階へと性革命は進む。トランスジェンダー・イデオロギーを幼少期から押し付けて洗脳する。何故なら、もしも「同性婚」が法律で認めらえるようになれば、それを子供にも教えなければならないからだ。合法化されたのだから。結婚が揺らぐことによって、家庭が傷つく。家庭が病むことによって社会の基礎が揺らぐ。
子供は幼稚園のころから性に目覚めさせられる。思春期の少女は、自然の摂理に従って自分の体がおかしいと思うようになる。しかしジェンダー・イデオロギーは、少女たちに女性ホルモンをストップさせる薬を与え、彼女たちを生涯不妊にさせる。医者は少女たちの健康な胸を切り取ってしまうこともする。現在18才の Chloe Cole はそれを経験させられた。彼女は脱トランスジェンダーした。
もし私がリストカットをしたら、もしも私が健康な足を切り取ったら、精神の病気だと言われるだろう。しかし、もしも私が自分の生殖器を切り取ったなら、小宇佐神父は「病気ではなく、多様に現れる人間の個性なのです」と言うかもしれない。しかしそれは私にとって本当に必要なアドバイスではない。そのような私に必要なのは、天主の秩序に戻らせてくれる真理の言葉だ。こころと体の不一致というジェンダー・ディスフォリアの原因を調べるべきだ。40%のトランスジェンダーの方々は「性転換」(本当の転換は人間にはできない)の前に自殺を試みている。「転換」の後でも40%が後悔して自殺を試みていると言われている。実際に自殺をするのは19~20%だ。ジェンダー・ディスフォリアの人々を救うのは、天主の御計画に戻ることだ。
人類は何千年もの間、男と女が結婚すると知っていた。男と女との違いを知っていた。現代の人間は、結婚が何かが分からなくさせられた。男と女が何かもわからなくさせられた。人間が何かも分からなくなりつつある。カトリック信者というアイデンティティも消えつつある。日本人というアイデンティティも失わされるだろう。全世界が全体主義の呪縛に陥る危険がある。
私たちは天主の秩序に戻らなければならない。
洗者ヨハネが来て、ユダヤの荒れ野で教えをのべ、「くいあらためよ、天の国は近づいた」といった。イエズスは、教えをのべはじめていわれた「くいあらためよ、天の国は近づいた」。
聖母はルルドでこう言われた。「痛悔しなさい、痛悔しなさい、痛悔しなさい」と。
聖母はファチマでも言われた。「ロザリオを唱えなさい。」「人々は自分の生活を改め自分の罪の赦しをこい求めなければなりません。彼らは私たちの主に罪を犯してはなりません。主は既にあまりにも多く侮辱されすぎています!」
私たちは聖母にならって、天主の秩序に戻らなければならない。
聖母の謙遜と従順
聖母は、無条件に天主の御旨(みむね)を受け入れた。天主にまったく従った。聖母は謙遜だった。聖母は従順だった。聖母は全てを受け入れた。童貞でありながら母親となるという不可能に思われることにも従った。石殺しになるかもしれないという危険もあったがそれを捧げた。
「我は主のはしためなり。仰せのごとく、われになれかし」、これが聖母の答えだった。天主のお望みになることを聖母は全て行った。聖母の謙遜と従順は、現代人の傲慢と反乱の対極にある。
聖母の汚れなき御心
聖母の心は、いとも清い汚れのない御心だ。聖母の清さは、聖母の美しさの秘密だ。女のうちで祝せられた聖母は、美しさの極みだ。女性は美しさに召し出されている。つまり、女性は清さに召されている。全ての女性は聖母の持つ美しさに招かれている。聖なる清い生活へと招かれている。避妊具や避妊薬によって自分の情欲を思うがままに満足させる招かれているのではない。貞潔で純潔な笑顔の聖徳の美しさこそ本当の美しさだ。女性の美しさはその慎み深さにある。それが聖パウロがテサロニケ人への手紙で書いたことだ。「実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となること。あなたたちは淫行を避け、あなたたちのおのおのがうつわを神聖に尊く保ち、天主を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならない。…天主が私たちを招かれたのは、不潔のためではなく、私たちの主イエズス・キリストにおいて聖となるためである。」
現代人は、子供に性教育を押し付けて子供からも清い純潔の美しさを奪おうとし、天主の秩序に逆らって情欲の奴隷となり、性欲に燃えることが「自由」の達成だと錯覚している。終生童貞である聖母は、現代人の反乱の対極におられる。
私たちは聖母の謙遜と美しさにならわなければならない。
(つづく)