2022年12月11日 東京 説教
聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様。
総長からの伝言があります。この一週間、司祭の研修会でマニラにアジア管区の全ての司祭が集まりました。私がマニラを立つ前に総長は私に、日本の皆さんに特別の挨拶を伝えるようにと、日本のミッションをサポートすると、お伝えくださいました。
アジア管区長は、今週の水・金・土の四季の斎日に、特に召命のために大小斎を捧げることを提案しています。昔は大小斎の義務があったのですが、今はその義務がなくなってしまいました。しかし、特に召命のために今回それを捧げるのはどうか、と招待しています。特にフィリピン人のラファエル・ファウスチノという神学生がこの四季の斎日の土曜日に副助祭に叙階される予定です。彼のためにも、お祈りと犠牲をお願い致します。また、日本からたくさんの司祭が誕生しますようにお祈りいたしましょう。
Gaudéte in Dómino semper : íterum dico, gaudéte.
「主において常に喜べ。繰り返して言う、喜べ。」
今日、教会は喜びについて黙想を提案しています。ですから一緒に、主において喜ぶということはいったい何なのか、を黙想いたしましょう。なぜ喜ぶのか?
そして最後に、私たちは遷善の決心を立てましょう。
【喜び:愛するものと一緒にいる】
では、喜びとはいったい何でしょうか。
喜びというのは、愛から生まれてきます。何故かというと、自分が愛している方、あるいは愛している友人、あるいは物と一緒にいるときに、自然と喜びが湧き起こってくるからです。
あるいは、たとえ愛している方があるいは友人が近くにいなかったとしても遠く離れたとしても、その人に、あるいはそれに、善いことが起こった、あるいはその善いことが続いている、ということを知れば、喜びが起こります。
ところで、聖パウロが言っているのは、そのような単なる自然な感情ではありません。超自然の喜びなのです。つまり、信仰と希望と愛に基づく、対神徳に基づく喜びのことです。なぜかというと、「主において喜べ」と言っているからです。私たちの愛の対象は単なる自然のものではなくて、自然を超えるイエズス・キリスト、まことの天主まことの人であるイエズス・キリスト、であるからです。
使徒聖ヨハネはこう書いています。
「天主は愛である。愛をもつ者は天主にとどまり、天主はかれにとどまられる。」(1ヨハネ4:16)
つまり、私たちが天主を愛すれば愛するほど、私たちの中に主はとどまる、ということです。主と一緒にいるということです。これが、私たちの超自然の喜びの理由なのです。
特に待降節では、この喜びがまさに増すのです、何故かというと主はすでに近くにおられるからです。あともう何日で、クリスマス!と。
【喜び:愛するものの望みを行う】
ところで、主が私たちとともに、愛の対象が私たちの近くに一緒におられる、というだけではありません。存在しているだけではありません。さらに理由があります。それは、行動の理由なのです。
愛というのは、二つの意志をあるいは複数の意志を一つにさせます。どういうことかというと、私はもしもイエズス様をお愛しするならイエズス様のお望みのことをやりたい、それをかなえたい、そしてお喜ばせしたい、と思います。ですから、愛すれば愛するほど、意志は一つになるのです。イエズス様のお望みが私の望み、私の望みはイエズス様の望み、と、まったく同化してしまうのです。主は、ですから私たちに掟を与えて、これを守るようにと言いました。これが主の望みなのです。
イエズス様は、最後の晩餐でこう言われました。
「私が父の掟を守り、その愛にとどまったように、あなたたちが私の掟を守るなら、あなたたちは私の愛にとどまるだろう。」
それだけではありません。そうするなら私たちはイエズス様と一緒にいるだけでなくてイエズス様のことをするので、お望みをするので、喜びが完全になるといいます。
「私がこう話したのは、私のよろこびがあなたたちにあり、そしてあなたたちに完全なよろこびを受けさせるためである。」(ヨハネ15:11)
ですから、イエズス様のお望みをするということによって、私たちは完全な喜びを受けるのです。
すると、主が送られる十字架や辛いことや苦しみや悲しみ…いろいろなできごとが、もう、実は悲しみの原因ではなくて、喜びの原因となります。何故なら、これはもう主のお望みのことだからです。
【喜び:イエズス・キリストから愛されていることを知る】
第三の喜びの原因もあります。それは、私たちに対してイエズス様が特別の愛を注いでくださっているということを、ますます知ることができるからです。私たちがイエズス様の近くにいることができるというのは、権利ではありません。主が近くに来るというのは、私たちが当然要求することができるものではけっしてありません。それどころか、私たちは、主のために何かして差し上げる、奴隷のようなことをして差し上げる、ということをするさえ、価値もないものなのです。洗者聖ヨハネがイエズス様のサンダルの紐を解く値打ちさえもないと言ったのなら、私たちはどれほど、近づくことさえもできないほど価値がないものなのです。しかし、イエズス様は、このような私たちを特別に愛して、近寄ってくださっているのです。友として、しかも、隠れて。ご自分の愛と喜びを与えようとしてくださっているのです。
考えても見てください。いま全世界で、カトリックの聖伝のミサに与ることができるというのは非常に貴重になっています。御聖体を崇敬するというのは迫害を受けるようになる時代です。つい最近、トラディチオニス・クストデスという自発教令がでて、アメリカの有名なカルメル会はいま閉鎖されました。聖伝のミサだけをしていたカルメル会は閉鎖されました。何をしていたか、昔の通りにやっていたからです。
しかし、私たちはなにも恐れることなくイエズス様をお愛しして、ミサに与り、秘跡に与り、カトリックの伝統の教えを知り、そしてその通りに、かつてキリシタンがやっていたように、かつて殉教者がやっていたように、二千年間の教会の伝統をそのまま何の恐れもなくすることができている。これは、イエズス様からの特別の愛でなくいったい何でしょうか。
【本当の喜び:イエズス・キリスト】
現代世界は、イエズス様のいないところに喜びを探しています。この世の本当の喜びがないところにそれを探して、本当の喜びがあるところには近よりもしません。ですからそのような人たちは、心が虚しくうつろで悲しみに満ちています。酒酔いの後、空しい時を過ごした、後悔の念でいっぱいです。見てください。ポルノや不倫やあるいは肉欲の快楽を追求する人が、そこには喜びがあるのかと探して、ついには悲しみに終わっています。絶望的にさえなっています。家庭を崩壊させたり、男と女の区別もわからなくなってしまったり、喜びを求めて喜びを求めて、十字架のない世界を作ろうとして、かえって苦しみだけの世界を作ってしまっています。
しかし、カトリック教会は、私たちに、本当の喜びを私たちに伝えようとしています。
喜べ、主において常に喜べ、どんなことがあっても喜べ、主は近い、主はすぐ近くにおられる、何も心配しなくていい。ですからこの砂漠のような現代世界にあって、オアシスにいる人のように喜びましょう。
滾々(こんこん)と湧き出る生命(いのち)の喜びの水は、イエズス・キリストです。私たちはそれを知っています。
たとえ他の人々が、マスコミが、テレビが、他のほうが面白いよ、おかしいよ、楽しいよと言っても、騙されないでください。そこには悲しみと虚ろな心しかありません。本当の喜びは、イエズス・キリストだけが、私たちに与えることができるからです。
ですから、聖パウロの言葉をもう一度繰り返します。
「主において常に喜べ。繰り返して言う、喜べ。」
最後にマリア様にお願いしましょう。マリア様は私たちの喜びの源です。聖母はいつも心にどのようなことがあっても喜びをたたえていました。ですからマリア様の御取り次ぎで、私たちも決してこの喜びを失うことがないように、お祈りいたしましょう。
聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。