アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2023年2月23日、札幌で聖伝のミサを捧げましたが、その後で講話「ミサとは何か」を行いました。
今回は「ミサとは何か(その二)」のメモをご紹介いたします。メモなので、語調が統一されていません。その二では、ミサに関わるいくつかの真理のうち次の三つの点をお話ししました。
(1)ミサ聖祭は天主に捧げられる、罪の償いのため(天主の正義をなだめるため)の犠牲である。
(2)ホスチア(いけにえ)は、キリストご自身で、パンとブドウ酒の形色(外観)のもとにイエズス・キリストがまことに現存する。
(3)叙階の秘蹟を受けた司祭だけがミサ聖祭を捧げる役務者。
ミサとは何か(その二)
2)ミサに関わるいくつかの真理
(1)ミサ聖祭は天主に捧げられる本当の犠牲。罪の償いのため(天主の正義をなだめるため)の犠牲。
御聖体は、秘跡であると同時に新約の永遠の犠牲です。イエズス・キリストは、司祭の手を通して天主に捧げるためにこの犠牲を教会にお残しになりました。【犠牲とは、目に見える供え物を天主にささげ、破壊することによって、人間をはじめ全ての物の最高主である天主の支配を認めることです。】新約の犠牲は、ミサ聖祭と呼ばれます。ミサ聖祭とは、十字架上の犠牲を記念して、パンとぶどう酒の外観のもとに祭壇上でささげられる、イエズス・キリストの御体と御血の犠牲です。
この犠牲によって主が天主の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さったという点から見れば、十字架上の犠牲は新約唯一の犠牲です。十字架上で御自分をささげられたのも、祭壇上で聖務者である司祭の手を通してささげられるのも、同じイエズス・キリストですから、十字架上の犠牲とミサ聖祭とは、実体的には同じものです。
犠牲であることがよくわかる部分:
■奉献(offertorium)の祈り:
◎「聖なる父、全能永遠の天主よ、不肖のしもべである私が、活ける真の私の天主なる御身に、私の数知れぬ罪と侮辱と怠りとの為、又、ここに列席する全ての人々の為、さらに生存している、かつ死亡した全てのキリスト信者の為に捧げるこの汚れなきホスチアを受け容れ給え。。願わくは、これが私と彼らとの永遠の命への救いに役立つものとならんことを。アメン。」
◎「主よ、我らは御身に救いのカリスを御身に捧げ御身の慈悲を願い奉る。願わくは、これが、天主なる御身の御稜威の御前に、我らと全世界との救いの為に甘美な香りと共に昇らんことを。アメン。」
Offerimus tibi, Domine, calicem salutaris, tuam deprecantes clementiam, ut in conspectu divinæ Majestatis tuæ, pro nostra et totius mundi salute, cum odore suavitatis ascendat. Amen. 【解説】ミサ聖祭は救いの源。人類を聖化し、天主へと導く。天主を賛美し、栄光を帰す。
イエズス・キリストの御血は、聖心から流れ出た。主は、全世界の救いのために御血を流すことを望まれた。しかし、現実には贖いを拒む人がいる。
ゲッセマネの園で、主は祈り、苦しまれ、血の汗を流された。天主としては至福直感を受けていた。同時に私たちの罪のために、この世がイエズス・キリストを拒絶するために、主は苦しまれる。
罪とは主から離れて被造物を愛すること。アダムとエワから始まった人類の悲しい罪の歴史。主は御血で贖う。それでも主を拒絶する。それを見て私たちの心も苦しむ。霊的な殉教を感じる。私たちも祈り、苦しみ、隣人たちの救いのために自分を捧げる。イエズス・キリストだけが私たちの贖い主、救い主。イエズスという名前以外に天上天下私たちが救われる名前はない。
ミサは、文明の源。キリスト教文明は祭壇を中心に成立した。愛徳の精神、犠牲の精神、真理を愛する精神、正義の精神、弱者を保護し自分を犠牲と捧げる精神。十字架の精神。ミサ聖祭を生きる。十字架が私たちの御旗、祭壇(カルワリオ)、ミサ聖祭、ミサの聖堂、教会がキリスト教世界のしるし。
「キリスト教世界とは、発明するものではない」(聖ピオ十世)。キリスト教世界とは、イエズスの御受難、御神性から流れ出るもの。イエズスの模範、聖寵、聖徳から帰結するもの。
◎「主よ、謙遜の精神と、痛悔の心とにおいて、我らが御身に受け入れられんことを。天主なる主よ、御前において、我々の犠牲が、今日、御身に嘉せられんことを。聖とならしめ給う全能の御者、永遠の天主よ、来給え。御身の聖なる名に準備されたこ犠牲を祝し給え。」
■司祭の聖体拝領の前の祈り
◎「活ける天主の御子、主イエズス・キリストよ、御父の思し召しに従って、聖霊と共に御身は、その御死去によって、世に生命を与え給うた。至聖なる御体と御血とによって、私を全ての罪と悪より救い出し給え。私を、いつも御身の掟に従わせ、御身より離れることのないようにはからい給え。同じ父なる天主と聖霊と共に、世々に生き且つ治め給う主よ。アメン。」
■ミサの最後
◎「聖なる三位一体よ、しもべなる私の聖役を嘉納し給え。不肖の私が、敢えて御稜威の御前に捧げ奉ったこの犠牲を喜び給い、私と私がこれを捧げた全ての人々との為に嘉納せられるものとならせ給わんことを。我らの主、キリストによりて。アメン。」
【解説】
ミサは感謝の犠牲、賛美の犠牲だけではなく、罪の償いの犠牲、天主の正義を満足させる犠牲。
従って、ミサには次のものが必要。
◎石の祭壇(←→新しいミサでは食卓になっている)
◎祭壇石(殉教者の聖遺物入り)
◎跪き、多くの十字架のしるし、敬礼(←→新しいミサではほとんど全て省略)
◎三枚の祭壇布(←→新しいミサでは一枚のテーブルクロス)
◎司祭は東方を向く、イエズス・キリストに向き合う(←→新しいミサでは会衆の方を向く)
◎ホスチアはパテナの上にある(←→新しいミサではコルポラーレの上に直接置く)
◎特別のホスチア(←→新しいミサでは普通のパンが使われることもある)
◎貴金属のカリス(←→新しいミサではよく普通の容器が使われる)
◎祭壇上の十字架(←→新しいミサではよく十字架なしのテーブルだけ)
◎ミサは犠牲、十字架の犠牲だから、私たちは十字架のもとに生活すべき。いけにえに参与する。十字架に参与する。私たちは罪に死ぬべき。私たちは自分を犠牲にすべき、自分を屠る。十字架を求める。(←→御言葉を分かち合う、パンを分かち合う。苦しみのない喜びや楽しみだけを追求する)
◎美しい聖堂、教会、バジリカ、上から見ると十字架の形をしている。祭壇はその中心。(←→新しいミサでは集会が強調されるた場所)
◎聖変化の言葉によって全実体変化が起こる。秘跡的に屠られる。秘跡と犠牲とは分かつことができない。カルワリオの犠牲が再現する。(←→プロテスタントは、いけにえであることを否定、犠牲ではない、感謝の祭儀、犠牲ではない御聖体だけ、食事だけ過去の記念だけ)
(2)ホスチア(いけにえ)は、キリストご自身で、パンとブドウ酒の形色(外観)のもとにまことに現存する。真の現実の実体的な現存。全実体変化。
◎多くの跪きがある。跪くというのは聖書的な態度。(←→新しいミサでは立ったまま。日本では跪きの禁止)
◎聖伝のミサでは司祭の聖変化の言葉が発せられた直後、司祭が奉挙する前に跪く。(←→プロテスタントでは奉挙の後、信者の信仰によって現存する。霊的な現存、しるし・象徴としての現存にすぎない。プロテスタントによると、ホスチアを奉挙して信徒が信仰を起こすと、パンの意味が変わって体となる。プロテスタントには司祭がいない。)
◎礼拝する。礼拝の態度を示す。御聖体には、御神性【天主の本性】がある。(←→プロテスタントでは主の記念のパン)
◎御聖体は教会の中心(←→新しいミサでは御聖体が脇祭壇におかれ、聖書がよく中央におかれている)
◎跪いて口による聖体拝領をする。天使たちもひれ伏して礼拝している、畏れ多く震えている、天にある者たちも地にある者たちも地の下にある者たちも膝をかがめる唯一の御名(←→新しいミサでは手による拝領:たんなる食事であるかのように)
◎司祭だけが聖体をさわり配る(←→新しいミサでは叙階を受けなくても誰でも奉仕者になれる)
◎どんなに小さな破片にも主は現存する、聖体拝領盆、指を閉じることや指とカリスの清め(←→新しいミサではよく無視される)
◎ファチマの天使が子供たちに教えた祈り:ひれ伏し(←→日本では跪きの禁止)
(3)叙階の秘蹟を受けた司祭だけがミサ聖祭を捧げる役務者。
ミサ聖祭の第一の主たる奉献者はイエズス・キリストです。司祭は、イエズス・キリストの名においてこの犠牲を永遠の父なる天主にささげるのです。
■叙階の秘跡を受けた司祭の司祭職:霊魂に霊の刻印をうける:聖変化を行い能動的にミサを執行する。御聖体に対する権能。罪を赦す権能。御聖体を配る権能、その準備をさせる権能、従って神秘体に対する権能。(←→新しい「司祭職」は福音宣教。人々に対する働きかけ。ミサや御聖体は福音宣教の手段。)
■平信徒は、受動的にいけにえを捧げる。参与する能力をもつ。霊的に自分の祈りと犠牲を捧げる。イエズス・キリストの犠牲の功徳を受ける。
◎告白の祈りは、まず司祭、次に信徒がする。Confiteor 私は告白する。(←→新しいミサでは司祭は信徒と一緒に告白する。司祭は司会に過ぎない、中心は信徒、会衆が司式する、集会が執行する、信徒の「能動的」参加)
◎司祭(聖職者)だけが聖書を読み、説教し、御聖体を配る(←→新しいミサでは叙階を受けていなくとも聖体奉仕者、聖書朗読者となる。万民司祭論の影響を受けている)
◎イエズス・キリストは男性で一人で十字架にかかった。司祭は男性で一人でミサの犠牲を行う、会衆のいないミサ、聖なる階級秩序、権威は天主から来る(←→新しいミサでは共同司式が行われる。会食だから。女性の侍者もある。民主主義的、会食、皆で食す。バチカンの聖ペトロ大聖堂で一人のミサは禁止された、権威は人民から来るという考えが背後にある。団体主義)
3)結語
■ミサ聖祭は、カトリック信者の、カトリック司祭の生活のプログラム、指針、模範。
ミサが違うと、信仰生活のプログラムも異なってしまう。
私たちの人生は天国を目指す十字架の生活(祭壇でいけにえを捧げる)か、それとも、この地上のことだけに目を向けて生活する(食卓をかこんでパンを分かち合う)のか。
イエズス・キリストとの一致をまず第一に目指す(司祭はキリストを向く)のか、それとも、周りの人々のことを第一に気にかける(司祭は会衆の方を向く)のか。
■ミサは、生きている公教要理。私たちにカトリック信仰を教えてくれる。
使徒信経、天主の十戒、秘跡、徳、聖徳、主の祈り、罪、永遠、主の愛について教えてくれる。
使徒信経:天主が私たちを愛してくださっていることをうたう歌。天主の愛の詩(ポエム)とも言える。
聖変化:カルワリオでのいけにえ。天主の愛の私たちへの実現。愛の掟の実現。天主の十戒の実現、律法と預言の完成。
■イエズス・キリストは私たちに御自分の命を与える。贖いのため、霊魂の救いと聖化のために御血を流された。これがミサ聖祭。天主の十戒の完全な実践。私たちのための模範。
御聖体によって私たちと一致される。私たちを天国に導かれる。
信仰、希望、愛徳がミサ聖祭に含まれている。
信仰を教えられ、十字架において希望を与えられ、御聖体拝領は愛徳の業。御自分を全て与え尽くして私たちを養われる。