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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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私たちはどのように互いに愛し合わなければならないのか? 主イエズスは、私たちの間にどのような愛を望んでおられるのか? なぜこの愛がイエズスの弟子の特別なしるしなのか?

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隣人への愛についての説教(聖木曜日)

ドモルネ神父 2023年4月6日

はじめに

あと数分で、洗足の儀式が行われます。司祭は、最後の晩餐のときに私たちの主ご自身がなされたことを再現します。イエズスは、この素晴らしい謙遜の行為を行い、使徒たちへの愛を示された後、こう言われました。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」(ヨハネ13章34-35節)。

今晩は、このイエズスのみ言葉についてお話しします。私たちは、どのように互いに愛し合わなければならないのでしょうか? 私たちの主イエズスは、私たちの間にどのような愛を望んでおられるのでしょうか? そして、なぜこの愛が、イエズスの弟子であることの特別なしるしなのでしょうか?

1. 自分のように隣人を愛すること:その意味

私たちの主イエズスは、私たちが互いに愛し合わなければならないと言われ、その方法を教えてくださいます。それは「私があなたたちを愛したように」です。しかし、ここで、私たちは少し混乱してしまうかもしれません。実際、イエズスは私たちに、福音の他の箇所で、こう言われました。「隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章39節)。しかし、他の箇所で、イエズスは、私たちが自分自身を憎まなければならないことも教えておられます。「私のもとにきても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない」(ルカ14章26節)。私たちの主のこれらのみ言葉は、矛盾しているように思えます。では、私たちは、どのようにして、互いに愛し合わなければならないのでしょうか?

この疑問に答えるには、第一に、自分自身について、区別を行う必要があります。原罪以来、私たちは、自分自身を愛すると同時に、憎まなければなりません。私たちは、天主の像と似姿に造られ、ついには顔と顔を合わせて天主を見て、天主の永遠の命にあずかるように運命づけられている、天主の被造物としての自分自身を、愛さなければなりません。要するに、自分自身を愛するということは、私たちの内におられる天主を愛することなのです。逆に、私たちは、天主に対立する自分自身、つまり、天主のご意志に対立する自己意志を憎まなければなりません。私たちは、自分自身の罪や、私たちの内にあって、私たちを天主から遠ざけるすべてのものを、憎まなければなりません。要するに、自分自身を憎むということは、私たちの内にある天主でないものを憎むことなのです。

ですから、キリストが、隣人を自分のように愛さなければならない、と言われるとき、キリストは、私たちが自分の内におられる天主を愛するように、隣人の内におられる天主を愛さなければならない、という意味で言っておられるのです。私たちは、自分自身のために永遠の救いを望むように、隣人にも永遠の救いを望み、この目的のために私たちにできることなら、それが何であっても、しなければならないのです。

しかし、イエズスは、私たちにそれよりもっと多くのことを望まれます。イエズスはこう言われました。「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合え」。ですから、私たちの基準と模範は、イエズスの愛なのです。私たちに対するイエズスの愛とは、どのようなものだったでしょうか?

2. 隣人を愛すること:いくつかの特徴

愛するということは、第一に感傷的な感情を抱くことではなく、本質的に言えば、人のために良いことをしたいと思うことです。愛とは、第一に意志の行いであり、感情ではありません。感情は、意志の行いと共にあることもありますが、必ずしもそうではありません。例えば、イエズスの友人ラザロが死んだときのイエズスを思い出してください。イエズスは泣かれました。イエズスの愛には感情が伴っていました。しかし、オリーブ園での苦悩のときのイエズスも思い出してください。私たちに対するイエズスの愛は、まったく感傷的ではありませんでした。イエズスは、私たちの救いのためにどれほど苦しむことになるかをすべて予見なさって、激しい苦悶の状態で、血の汗を流されていました。しかし、そのご意志の強さをこめて、こう祈られました。「父よ、おぼしめしならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままにではなく、あなたのみ旨のままに」(ルカ22章42節)。イエズスの愛は、私たちを救うという固い決心にあったのです。しかし、その決心が、イエズスを感覚的に大変苦しめることとなったのです。

第二に、隣人を愛することは、隣人の言動や行動に同意することではなく、逆に、隣人が悪から離れて善を行うように助けることです。例えば、私たちの主イエズスが神殿から商人たちを追い出されたことを思い出してください。イエズスは彼らを愛し、彼らの永遠の救いを望んでおられたため、彼らの悪しき商売をやめさせられたのです。また、聖ペトロが主のご受難を思いとどまらせようとしたとき、イエズスが聖ペトロに言われた強い言葉も思い出してください。イエズスはペトロを愛しておられましたが、ペトロにこう言われました。「サタン、ひきさがれ!あなたは私の邪魔をするのか」(マテオ16章23節)。また、イエズスがファリザイ人をどのように呼ばれたかを思い出してください。「偽善者よ…盲目の案内人よ…愚か者、盲目よ…蛇よ、まむし族よ…」(マテオ23章)。イエズスはファリザイ人を愛し、彼らの永遠の救いを望んでおられました。しかし、彼らはあまりにも罪に凝り固まっていたため、イエズスは彼らが罪から抜け出せるようにと、彼らの悪事を強く糾弾なさらなければならなかったのです。

第三に、隣人を愛するとは、個人的な利益を求めずに、隣人の善を求めることを意味します。私たちに対するキリストの愛は、私たちの救いのために死を覚悟した、至高の慈愛に満ちた愛でした。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。イエズスには、私たちのために死ぬ義務がなかったことを思い出してください。私たちに対するイエズスの愛は、私たちに過去の功徳があったから、というわけではありませんでした。それどころか、私たちはイエズスの敵だったのです(ローマ5章10節参照)。ですから、イエズスが私たちに、「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合え」と言われるとき、イエズスは私たちに、すべての人に対して、それが私たちに何も良いことをしてくれなかった人であっても、たとえ敵であっても、私たちが慈愛に満ちた愛を持つことを命じておられます。私たちの愛は、隣人の永遠の救いのために必要であれば、肉体的な死をも覚悟するほどのものであるべきです。囚人収容所で餓死の刑を宣告された人の身代わりになった、聖マキシミリアノ・コルベの例を思い出してください。彼は、この人や他の囚人たちの霊魂が救われるように、自分が肉体的に死ぬことを決心したのです。

3.愛はキリストの弟子の持つ特別なしるしである

ここで、私たちの主イエズスの、次の言葉を考えてみましょう。「互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」。なぜ、私たちの間の愛が、私たちがキリストの真の弟子であることを識別するための特別なしるしなのでしょうか? その答えは単純です。私たちは、イエズスだけが与えることがおできになる成聖の恩寵と、超自然の徳である愛がなければ、イエズスがなさったように、隣人を愛することはできないからです。

率直に言えば、完璧な男も完璧な女も存在しません。私たちは皆、原罪と自罪の影響を受けています。私たちが他人の欠点に耐えることは困難で、他人が私たち自身の欠点に耐えることも困難です。すべての人が私たちの友人というわけではありません。私たちの人生において、あらゆる種類の不正や不義が、私たちに対してなされる可能性があります。

私たちの知性が、信仰という超自然の徳によって強められなければ、私たちの敵を、キリストの血によって贖われ、永遠の命に召された天主の被造物と見ることが、どうして私たちにできるでしょうか? 私たちの意志が、愛という超自然の徳によって強められなければ、私たちの敵の永遠の救いを確実にするために、自分の死を覚悟するほど敵を心から愛することが、どうして私たちにできるでしょうか? イエズスを自分の心に抱かなければ、私たちは、イエズスが私たちに望まれるように、隣人を愛することはできません。

結論

親愛なる信者の皆さん、この聖木曜日に、私たちの主から私たちに与えられた愛の掟を思い出しましょう。私たちの気質の違い、好き嫌いの違い、私たち一人一人に固有の欠陥や霊的な惨めさを超えて、私たち共通の存在目標、すなわち永遠の命に心を集中させ、イエズス・キリストとの一致を保ち、またイエズス・キリストにおいて、互いに一致を保ちましょう。私たちの主イエズスから、主の教えや模範、恩寵から、互いに愛し合うことを学びましょう。


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