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信仰がいかにして清さの実践につながるのか、清さがいかにして信仰を守るのか、清さの喪失がいかにして信仰の喪失につながるのか

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信仰と清さの関係についての説教

ドモルネ神父 2023年4月30日

はじめに

数日前、聖ピオ十世会の総長であるパリアラーニ神父は、聖ピオ十世会の友人と恩人の皆さんに向けた手紙を書きました。総長は、司祭たちに対して、この手紙の内容を説教に反映させるよう求めました。そこで今日は、その手紙のテーマ、すなわち、信仰と清さの徳のつながり、つまり、信仰がいかにして清さの実践につながるのか、また他方、清さがいかにして信仰を守るのか、そしてその結果として、清さの喪失がいかにして信仰の喪失につながるのかについてお話しします。

不可欠な基盤である信仰

信仰とは、天主が私たちに与えてくださった、天主ご自身についての知識です。信仰を持つということは、天主がご自分について啓示されたいと望まれた範囲内において、私たちが天主をありのままに知ることです。天主は私たちよりも無限に偉大なお方ですから、私たちの信仰の中には、私たちには理解できない神秘があります。しかし、私たちがすべてのことを理解することはできないという事実にもかかわらず、信仰は私たちに、天主についての確かな知識を与えてくれます。なぜなら、天主は変化されることもなく、また、ご自身も私たちも欺くことがおできにならないからです。

信仰の全ては、私たちの主イエズス・キリストによって、私たちに与えられました。聖ヨハネが「天主を見た人は一人もいない。御父のふところにまします御独り子の天主がこれを示された」(ヨハネ1章18節)と言うように、私たちに天主を知らしめるのは主であり、主だけです。私たちの主は、カトリック教会に対して、世の終わりまで、あらゆる場所に信仰を広め、それを完全に伝達することを保障する使命を託されました。この使命は極めて重要です。なぜ、それほど重要なのでしょうか? なぜなら、人は天主を知らなければ、言い換えれば、まず信仰を持たなければ、天主を愛し、天主に仕えることはできないからです。

聖ピオ十世会は、ローマ・カトリック教会の一修道会です。カトリック教会の持つ目的以外の目的は持っていません。教会を揺るがしている現在の危機において、聖ピオ十世会は、近代主義の異端に直面して、信仰を広め、信仰の完全な伝達を擁護することに努めています。信仰の全体を完全に守ることは、個人的な好みの問題ではなく、霊的な生と死の問題です。霊魂が私たちの主を知り、主を中心に人生を築き、いつか主とともに天国の幸福にあずかることができるのは、信仰によってです。

清さの源泉である信仰

私たちの信仰は、単なる知的な知識であってはならず、むしろ私たちの行動を形作るものでなければなりません。そうでなければ、それは死んだ信仰です。聖パウロは、私たちは信仰によって生きなければならない(ローマ1章17節)と述べています。信仰によって生きるということは、天主を不快にさせるすべてのものから距離を置き、自分の精神と心を私たちの主イエズスと一致させ、主の教えを実践するよう努力することです。イエズスとの一致により、またイエズスのおかげで、信仰に生きる人は天主への愛とすべての徳の実践において成長し、その人の心は清められ、その行動はますます徳の高いものになっていくのです。その人の信仰は、天主の美しさと私たちの主によって与えられた聖性の理想に向かって、その人を上へ上へと引き上げます。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。逆に、その人の信仰は、その人をこの世的な精神、すなわち、この世が提供することのできる富、名誉、快楽を求める乱れた愛から遠ざけます。

生きた信仰は清さを生み出します。信仰は、天主を誤りなく、ありのままに知らしめることによって、知性を清めます。信仰は、私たちの主イエズス・キリストとの完全な一致を妨げるすべての乱れた愛着を打ち砕いてしまうため、心を清めます。信仰によって生きる人は、寛大に自分自身を清めます。その結果、天主の存在と美が、その人を通してますます輝き、他人を惹きつける力を発揮するのです。それは、ダイアモンドが、磨けば磨くほど光をよく通し、人々の目にますます輝いて映るのと似ています。このような信仰の輝きは、貞潔の徳、特に完全な貞潔という極めてキリスト教的な徳を通して、特に感じられるのです。この徳は、天主を求める善意の霊魂を啓発し、惹きつけますが、一方では逆に、この世的な人々の信仰の欠如とこの世への乱れた愛を浮き彫りにしますから、彼らを激怒させるのです。

信仰の保護である清さの徳

信仰と心の清さの間にある直接的なつながりを見てください。信仰は、心の清さ、特に貞潔を生み出します。しかしまた、心の清さ、特に貞潔は、信仰を守るものです。私たちの主は、こううまく言っておられます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろうから」(マテオ5章8節)。信仰を持つということは、天主をありのままに見るということです。ですから、私たちの主の御言葉を、次のように訳すことができるでしょう。「心の清い人は幸せである、彼らは信仰を守るであろうから」。つまり、信仰を守るための最善の保証は、清さへの愛と、それを培うための絶え間ない努力に見いだされる、ということになります。

その反対に、悪魔の戦術は、まず私たちに心の清さを失わせ、次に信仰を失わせるか、あるいは少なくとも信仰を不毛なものにし、霊魂を変容させることができないようなものにすることです。悪魔は、キリスト教徒を追い込んで、この世と妥協するように、つまり、大罪の限界にまでこの世の快楽と富を求めるように、わざと小罪を犯すように、キリスト教的生活の犠牲から逃れるか、あるいは、それを相対化するように、天主の掟に反する法律や流行に順応するようにさせます…こうしてキリスト教徒はぬるま湯状態になり、外的にはキリスト教的生活を送っていても、内的にはキリスト教的精神をなくしてしまうのです。このことは、いくつかのキリスト教国全体が、突然、しかも急激にカトリックの信仰を失ってしまう、ということが起こりえたことの説明です。ヘンリー八世の時代の英国、ルターの時代のドイツ、第二バチカン公会議後の欧州諸国のことを考えてみてください。

キリスト教徒をこの世との妥協に追い込むために、悪魔が最も多く使う武器は情欲です。つまり、悪魔はまずキリスト教徒に貞潔への愛を失わせ、そこから不純の罪へと追い込んでいきます。いったんキリスト教徒が情欲という悪徳にはまると、悪魔は祈りや秘跡、そして最終的にはキリスト教生活全般を放棄させるように追い込むのです。不純の悪徳が、知性と意志に影響を及ぼすことはよく知られています。不純は知性を鈍らせるため、人格が不安定になり、反省することができなくなり、軽率な行動を取るようになります。不純は、霊的なものすべてに対する嫌悪感、天主とカトリックの宗教への憎しみ、そして永遠の命への絶望を引き起こすことによって、心を腐敗させます。多くのキリスト教徒にとって、情欲という悪徳が、信仰を失ってしまった道となってきたのです。

結論:信仰を擁護するために清さをめぐる戦いを戦う

上記からの結論は明白です。信仰を擁護するには、寛大に貞潔を実践することが必要です。原罪以来、私たちは肉の快楽に無秩序な形で惹きつけられており、これは、私たちが肉の欲望と呼んでいるものです。貞潔とは、この肉の欲望を抑えることであり、それは困難で生涯続く戦いです。聖職者であれ信者であれ、すべての教育者は、子どもや青少年をこの戦いにそなえて訓練するよう、細心の注意を払わなければなりません。

貞潔の徳は、子どもや青少年にとって、特に彼らが成聖の恩寵の状態にある場合、非常に強い魅力があります。しかし、この魅力はそれだけでは十分ではありません。子どもやティーンエイジャーには、彼らが清さの理想を構築し、それを達成することができるような知識、指導、模範を与えなければなりません。このような教育は、彼らの年齢にふさわしい言葉で、しかし世間知らずではない方法で、行わなければなりません。今日の世界では、子どもたちは早くから道徳的な腐敗に直面しています。したがって、幼いときから、清さを愛し、この徳を害するすべてのものを直ちに拒絶し、この徳を強めるために自然および超自然の手段を用いるように教育する必要があります。

童貞の保護者である聖ヨゼフが、私たちの身分に状態に応じた貞潔への愛を保つことができるよう助けてくださいますように。これこそ、明日の聖ヨゼフの祝日に願い求めるべき恩寵です。アーメン。


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