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ある行為に善の結果と悪の結果の両方がある場合、その行為をすることが合法的か否かをどのように識別するか

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間接的自発性についての説教

ドモルネ神父 2023年5月7日

はじめに

今日は、私たちが何かをすることが合法的かそうでないかを識別するための重要な道徳的原則についてお話しします。私たちはこれを、間接的自発性の原則と呼んでいます。

私たちの行為にはしばしば、結果がいくつかついて回ります。例えば、ある家庭の父親が仕事に行き、一生懸命その仕事をすると、給料がもらえ、通常周りの人たち、特に妻や子どもたちから感謝され、たぶん昇進することもあるでしょう。逆に、一家の父親がアルコールに溺れると、一家は経済的に破綻して、口論になり、子どもたちの教育にも悪い影響が出るでしょう。

ある行為の結果がすべて善であるとき、それを行うのが合法的だということを私たちが知るのは難しくありません。ある行為の結果がすべて罪深いものであるとき、それを行うのが合法的でないということを私たちが知るのも難しくありません。しかし、ある行為に、善の結果と悪の結果の両方がある場合はどうでしょうか。そのような行為をすることが合法的かそうでないかを、私たちはどのように識別することができるのでしょうか。

1. 道徳的原則

このような状況は、決してまれなことではありません。私がアパートを持っていて、収入を得るために、それを貸したいと思っているのですが、それを借りたいと思っているのが同棲している人たちだと想像してみてください。私は彼らにアパートを貸してもいいのでしょうか。別の例です。私は印刷業者ですが、あるプロテスタントの牧師が私の店に入ってきて、彼のプロテスタントの説教を印刷するように頼んできました。この説教には信仰に反する誤謬が含まれていると知っていながら、私がそれをすることは許されるのでしょうか。さらに別の例です。私はレストランの経営者ですが、私が販売するアルコールのせいで、いつも何人かの客が酔っぱらってしまいます。私は彼らに酒を売り続けてもいいのでしょうか。こういった例をいくつも挙げることができるでしょう。

その答えを見つけるには、私たちは間接的自発性の原則に従わなければなりません。私たちが、善の結果と悪の結果の両方がある行為をすることが許されるのは、次の条件が満たされるときです。

・私が行うつもりの行為は、それ自体が善であるか、少なくとも中立、つまり善でも悪でもないものでなければなりません。
・私の行為の最初の結果は、善いものでなければなりません。
・その行為を行う私の意向が正しいものでなければなりません。
・私の行為によって何らかの悪い結果が生じることを予見していれば、その行為を行うための善い理由、つまりその悪い影響に釣り合った理由が必要です。

これらの点について、一つずつ説明していきましょう。

2.私たちの行為自体が善であるか、中立でなければならない

第一の条件は、私が行うつもりの行為が善であるか、少なくとも中立でなければならないということです。行為の中には、天主の法に反する、ひどく罪深いものがあり、これらの行為を善とすることができるものはありえません。例えば、嘘とは、人をだますために偽りを言うことです。このような行為は、それ自体が悪いものであり、この世には、これを合法的にすることができるものはありえません。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、天主は、私たちが自分の考えを表現できるように、私たちに言語という能力を与えてくださったからです。ですから、自分の考えに反することを表現するために言語の能力を使うことは、私たちの能力の悪用であり、天主が創造にあたって定められた秩序に完全に反しています。天主を冒涜したり、姦淫をしたり、妊娠中絶をしたり、避妊具を使用したりするといった行為についても、同じことが言えます。

その反対に、それ自体が善である行為もあります。例えば、祈ること、困っている人を助けること、食べること、飲むこと、眠ること、家庭や職場で身分に応じた義務を果たすことなどです。これらの行為が善であるのは、天主がこの世に定められた秩序に従っているからです。私たちは、天主の秩序に従って、食べたり、飲んだり、眠ったり、働いたりする必要があります。

最後に、行為の中には道徳的に中立なものがあります。それは、それ自体は善いものでも悪いものでもなく、状況に応じて善いものにも悪いものにもなる、という意味です。例えば、山でのハイキングは、それ自体では善いことでも悪いことでもありません。リラックスしたり、健康を維持したり、その後自分の義務をよく果たすことができるようになるためにするのであれば、それは善いことです。しかし、天主の掟を破るような行為であれば、同じハイキングでも罪深いことになります。例えば、主日にミサにあずからずにハイキングをすることは罪深いことです。もう一つの例です。人を殺すことは中立であり、良いことでも悪いことでもありません。もし私が兵士で、祖国を守るために戦っているのなら、敵を殺すのは正しいことです。しかし、怒りや復讐心から人を殺すのは悪いことです。

ですから、まず考えるべきことは、私たちが行うつもりの行為それ自体が善いものであるか、少なくとも中立なものであるかということです。

3.私たちの行為の直接的な結果は善いものでなければならない

第二の条件は、私たちの行為の直接的な結果が善いものでなければならないということです。聖パウロは、このルールをこう表現しています。「私たちは善をひき出すために悪をしてはならない」(ローマ3章8節)。例えば、私たちは、貧しい人に与えるために金持ちから盗むことは決してできません。なぜなら、盗みの直接的な結果は、人からその人のものを不当に奪うことだからです。私たちは、母親の命を守るために中絶をすることは決してできません。なぜなら、中絶の直接的な結果は、罪のない人を殺すことだからです。

私が行おうとする行為の第一の結果は、善でなければなりません。例えば、誰かがアパートを貸そうとする場合、その行為の第一にして直接的な結果は、収入を得ることでしょう。それは問題ありません。誰かがレストランの経営者だとすると、その人の仕事の第一にして直接的な結果は、人々に食事を提供することです。それは問題ありません。ある妊婦が重い病気にかかり、医者がその病気に対する強い薬を与えます。その薬の第一にして直接的な結果は、妊婦の痛みを和らげることです。それは問題ありません。

4.私の意向は正しくなければならない

第三の条件は、善い意向を持っていることです。善い意向があれば、悪い手段を使うことが正当化されるわけではないと述べました。例えば、貧しい人を助けたいという善い意向は、金持ちから盗むことを正当化するわけではありません。しかし、悪い意向は、その意向を実現するために行うすべての行為を悪いものとします。例えば、ある人が女性を誘惑する意向を持っていて、その目的を達成するために、この女性にさまざまな方法で親切にし、助けてあげたとしたら、その人のすべての愛徳の行為は、見かけ上は善ですが、実際には、その罪深い意向によって台無しにされているため、悪となります。

ですから、私たちが、善の結果と悪の結果の両方がある行為を行おうとするときは、自分の良心を調べ、真摯にこう自問しなければなりません。「本当は、私は何を望んでいるのだろうか。この行為による善い結果なのだろうか、それとも悪の結果なのだろうか」。私たちは、自分に正直にならなければなりません。心の底を見通しておられる天主をだますことなどできないのですから。

5.釣り合いの取れた理由を持つこと

第四の条件は、悪い結果に対して釣り合いの取れた善い理由があることです。私たちの行為が何らかの悪い結果をもたらすと分かっている場合、その行為を行うためには、その悪い結果を補うだけの、重大な、善い、理由が必要です。そのような釣り合いの取れた善い理由がなければ、私たちはその行為を行うことはできません。例えば、ある人が自分のアパートを貸したいと思っていて、自分の家族を養うための収入がとても必要であって、そのアパートを借りたい人は同性愛者だけしかいないとします。その人は、経済的な苦境を脱するまで、自分のアパートをこれらの人々に貸すことが許されます。別の例です。ある人がある場所で働いていますが、その場所で深刻な誘惑にさらされているとします。その人は、その仕事を辞めなければならないのでしょうか。いいえ、もしその人が自分の生活を保障するための他の選択肢がない場合には、辞めなくてもよいのです。

釣り合いの取れた理由があるかどうかを評価することは、識別のなかでも、おそらく最も困難なところです。私たちは、賢明の徳を実践する必要があります。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの生活においては、本当にしばしば、善い結果と悪い結果の両方があるような決定を下さなければなりません。そのとき私たちは、何をすべきかを知るために、間接的自発性のルールを適用しなければなりません。

聖霊が常に私たちの心を照らし、天主の御旨に従って私たちを導いてくださいますように。


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