【参考文献】「婦人と竜」ヴィガノ大司教の説教
2023年5月20日(土曜日)
The Woman and the Dragon: Archbishop Viganò's Homily
カルロ・マリア・ヴィガノ
Admiramini, gaudete: Christus facti sumus.
Sancti Augustini, In Johann. Evang. Tract., 21, 8
感嘆せよ、喜べ。われらはキリストとなった。
聖アウグスティヌス「聖ヨハネ福音書注解」第21説教8
「十字架の元后」(Regina Crucis)の称号のもとで至聖なるマリアを讃えるこの随意ミサの神聖な典礼は、「婦人と竜」という黙示録のヴィジョンを私たちに提示し、この荘厳なミサに、偉大で重要な考察ポイントを提供しています。
婦人は、至聖なるマリアを、それゆえマリアが元后にして母である教会を表しています。なぜなら、マリアは、神秘体のかしらである私たちの主なる天主の御母であり、その神秘体の生きた肢体であるキリスト信者の霊的な母であるからです。その童貞なる足で、婦人は月を踏みつけています。これは、天主の不変の永遠性とは対照的に、はかないもの、変化するものへの軽蔑を象徴しています。彼女は正義の太陽を身にまとい、つまりキリストの保護下に置かれ、教会の宝石である十二使徒を表す十二の星の冠をかぶっています。彼女の生みの苦しみの叫びが暗示するのは、聖なる教会が(至聖なるマリアと同様に)天主の子らを恩寵の命に生み出し、彼らの悲しみを共同受難と調和のうちにキリストのご受難と贖いに一致させ、その結果、童貞マリアに十字架の元后という称号を得させるということです。童貞マリアは、キリストが十字架の上から御自らを世界の君主と宣言されたとき、キリストとともにおられました。また、十字架の足元で、彼女は完全な悲しみという元后のマントを身にまとわれて、自ら(の心)を貫かれて(いばらの)冠をかぶせられること、天主なる御子とともに苦しみの王笏を持つことをお許しになりました。
マリアが母である教会はまた、その子らの中で最も親愛なる者たち、すなわち、シエナの聖カタリナが呼んだように、「太陽【キリスト】と【キリストの】御血の役務者」である司祭も生み出します。司祭たちの誕生は、竜、すなわちサタンを思い起こさせます。なぜなら、サタンは、司祭たちが十字架の犠牲を神秘的に更新するのを妨げるために、彼らを引き裂いて粉々にしたいと思っているからです。この十字架の犠牲によって、主はアダムの罪が失わせたものを、超自然の秩序に回復されられたのですから。そして、私たちの最初の父祖【アダムとエワ】が追放されて以来、「原福音」の約束(創世記3章15節)は、常に黙示録の幻視に言及しています。そこでは、キリストとサタンの戦いが、キリストの末すなわち教会と、サタンの末すなわち反教会つまりメーソンのグローバリストの最高法院(サンヘドリン)の間で、再提案されています。
私は、皆さんに、竜の三重の攻撃に注目していただきたいと思います。
第一の攻撃は、婦人の生まれたばかりの子であるイエズス・キリストに対するもの(黙示録12章5節)ですが、彼は天に上げられることによって竜の攻撃から逃れます。
第二の攻撃は、婦人に対するもの(黙示録12章6節)であり、婦人は1260日、42カ月、3年半の期間、つまり反キリストの支配の期間(黙示録12章6と14節)、荒れ野(サタンの攻撃から守られた場所の寓意)に逃げ込みます。
第三の攻撃は、婦人の子ら、つまりキリスト信者と教会に対するものですが、彼らは小羊の血のおかげで竜に対する勝利を得ます(黙示録12章11節)。
私は、このサタンの攻撃に関する三重の区別が非常に有益であり、意味があると思います。悪魔は常にキリストを攻撃し、まずキリストのペルソナに対して、次にキリストの神秘体に対して、そして最後にキリストの信者に対して攻撃することが分かります。しかし、主が得るおつもりの勝利は、第三の攻撃においてのみ実現します。「竜は婦人に怒り、その子らの残りの者、すなわち天主の戒めを守り、イエズスの証明を持つ者に挑戦しようとして出て行(った)」(黙示録12章17節)。彼らは誰なのでしょうか。聖ヨハネが婦人の子についてほめかしたとき、信仰を棄てず、竜の尾で掃き寄せて投げられることを許さなかった者たち(黙示録12章4節)のことを言ったのではないならば、誰のことを言っているのでしょうか。主が喜んでご自分の子らをサタンとの戦いにお呼びになり、天主の御旨に寛大に身を任せることで、初めから人殺しだった者(ヨハネ8章44節)にキリストが勝利するための従順な道具となるのを見るのは、大いなる慰めです。
主は、お一人だけで勝利することを望んではおられません。キリストはご受難と贖いにおいて、至聖なるマリアは共同受難と共贖において、悪魔の奴隷としての状態から私たちを買い戻してくださった王たるキリストと元后たるマリアの御旗の下に、私たちが戦場に立つならば、主はその勝利を私たちのものにもしようと望んでおられます。そして、再び十字架を見てください。その上に王が座しておられ、その足元には元后マリアが、洗礼を受けたすべての者の、とりわけすべての司祭の元后かつ母として立っておられます。主は御母に司祭を、勇敢な臣下、献身的な子らとして託されたのです。
ですから、至聖なるマリアのすべての霊的な子である教会の子らに対する竜の激しい憎悪に驚かないようにしましょう。その憎悪は、教会自身への、無原罪の聖母への、天主の御子なる私たちの主イエズス・キリストへの憎悪の反映なのですから。もし竜が私たちをくらおうとしないなら、むしろ驚きましょう。なぜなら、それは、竜が私たちの内にキリストを見ておらず、天主に対して起こす戦争で私たちを障害物とみなさないということだからです。竜の手下どもが私たちを友として扱うなら、むしろ驚きましょう。なぜなら、私たちがこのことから理解しなければならないのは、私たちが行動したり考えたりしている際に、天主の霊に従っているのではなく、この世の精神に従っているということだからです。
この理由により、この腐敗した反逆的な社会において、心と意志が変質したエリートが悪【悪魔】の奴隷となっており、反教会の竜が司祭たちに対してこれほどまでに解き放たれているのです。そのエリートは、司祭たちがいかに恐るべきものであるかをよく知っています。なぜなら、司祭たちの両手には、キリストの御体と御血を聖変化させ、ミサの聖なる犠牲において罪なきいけにえを御父に捧げ、教会のかたどりである荒れ野に避難した婦人を保護する恩寵と祝福の川を永続させる神聖な力が、主から託されているからです。すべては十字架の周りを回り十字架にかかわっています。なぜなら、サタンが主によって打ち負かされたのが十字架だからであり、至聖なる御母が、御子のご受難に一致して、原福音で約束されたように蛇のかしらを踏みつけるのが十字架においてだからです。教会の母が、城塞を包囲する混沌とした地獄の大軍に対して、「戦列を整えし軍勢のごとく恐るべき御者」(terribilis ut castrorum acies ordinata)であることを証明なさるのは、十字架においてだからです。
司祭職、ミサ、ご聖体、至聖なるマリア。私たちの宗教のこれらの基盤は、悪魔とその手下どもによって日々攻撃されています。司祭職は、そのかしらの聖化する行為が教会の中で続いているからです。ミサは、司祭職の主要な行為だからです。至聖なるご聖体は、聖なる両形態の下に、天の故郷への霊的な栄養となるキリストを真に現存させているからです。童貞マリアは、いと高き御者の生けるご聖櫃であり、ルチフェルの高慢を打ち砕く聖なる謙遜の見本だからです。
確かに、罪により盲目となって、この戦いに直面しながら最も効果のあるものに逆らう者たちの運命に、私たちは震えてしまいます。また、キリストの代理人の玉座に座す者が、信仰の遺産を守ること、私たちの主の教えに忠実であること、私たちの主が使徒たちに教えられたことに「形式主義的」(formalism)に従うことを、「後戻り主義」(indietrismo)として非難するのを聞くと、私たちはぞっとしてしまいます。なぜなら、これらの暴言、これらの譫言は、位階階級や聖職者、そして信者が麻薬を打たれたように沈黙してきた10年間に増加してきたものであり、ベルゴリオの異質性、彼の保持する役割とは無関係だという異質性、さらには、カトリック的・使徒的・ローマ的なすべてのもの、司祭職やミサ、ご聖体という王にして大司祭なるキリストの現存を最も親密に実現するすべてのもの、に対する彼の明白な嫌悪という異質性を、最も明白かつ不快に証明するものだからです。また、教会の母にして十字架の元后であるお方への嫌悪も同様です。至聖なるマリアの共贖と仲介の教理が「無意味」と述べられるのを聞くと、私たちの血は血管の中で凍りついてしまいます。
いいえ、親愛なる兄弟の皆さん、私たちは「懐古趣味という病」にあるではありません。なぜなら、私たちはこの世に「属す」者でも、この世に「属す」べき者でもなく、むしろこの世にいる者、いるべき者だからです。なぜなら、主の言葉は、流行や時の流れに左右されることがないからです。「主の真理は永遠に絶えることなし」(veritas Domini manet in æternum)。私たちは、遠い時代、過ぎ去った黄金時代に憧れているのではありません。なぜなら、私たちは、地上の楽園で始まったキリストとサタンの戦いは続き、終末の時代の「会計の報告(総決算)」(redde rationem)【ルカ16章2節】が近づけば近づくほど激化する運命にあることを、よく知っているからです。
終末の時代に私たちは、大天使聖ミカエルがサタンとその手下どもを、二度目にして永遠に、奈落の底に追い返すのを見ることになるでしょう。「私たちは過去に愛着があるのではなく、むしろ永遠に愛着があるのです」(Ours is not an attachment to the past, but rather to what is eternal)。耽美主義(aestheticism)というオアシスに避難することで、現在の挑むべき課題から逃れるというやり方なのではありません。なぜなら、もしそうだとしたら(私たちが知っているように、いわゆる保守的な共同体ではそうです)、私たちは形式と実質を交換し、見た目を維持するために原則を譲るという罪を犯すことになるからです。
人類の歴史および教会生活のこの重要な局面で起きていることを、現実主義をもって、また自分自身を欺かずに、見てみましょう。私たちは終末の時代に非常に近づいており、おそらく「婦人」が荒れ野に逃げ込むその3年半は、私たちが願うほど遠いものではないかもしれません。反キリストがこの世の頂点に君臨する3年半は、この世の無関心、メディアの沈黙、偽りの牧者たちの共犯的不注意の中で、信者を迫害して殉教させるのです。実際には、彼らの鈍感で不潔な共犯関係によるものであり、その共犯関係が、彼らの本当の意向を明らかにし、さらに悪いことには、彼らの私たちの主に対する裏切りを明らかにするのです。
「もしおまえが天主の子なら、十字架から下りよ」。公会議のセクトの位階階級が、この言葉を繰り返すのは、最高法院(サンヘドリン)の大司祭としての権力を濫用することで、司祭を役人に変えることでキリストによって制定された司祭職を取り消そうとし、和やかな宴会へと変えて腐敗させることでミサの聖なる犠牲を妨げようとし、至聖なるご聖体を受けるにふさわしくない者たちに聖体拝領を許すことでご聖体を冒涜しようとしているときです。
「十字架から下りよ」と、彼らは叫びます。つまり、われわれがこれほどまでに恐れている贖いを完成させるな、ということです。「祭壇から下りよ」と、今日、彼らは警告しています。それは、その贖いが永続し、時間的に延長されないようにするため、1990年前の犠牲が過去にとどまり、不忠実なしもべが畑に埋めたタレントのように不毛で非生産的となるようにするためです。私たちは「後戻り主義者」ではなく、「懐古趣味に病む」者でもありません。むしろ、彼らこそ、その時すでに敗れていた自分たち自身の戦争という現実を恐怖をもって見つめており、あらゆる方法でキリストの凱旋を妨げようとしており、彼らは――キリストと太陽を身にまとった婦人に対する攻撃に失敗した後――今日では、教会の子ら、至聖なるマリアの子らを襲っているのです。
どうすれば私たちは、竜に打ち勝つことができるのでしょうか。「小羊の御血と自分たちの殉教の証明によってである」(黙示録12章11節)。霊魂の救いのために今日もなおいと尊き御血を豊かに注ぐミサによって、ミサを可能にし、宣教によって「証人の言葉」を広める司祭職によって、小羊の御体と御血である至聖なるご聖体によって。そして、その内部で私たちの主が形成され、またそのご胎内から天主の子らが霊的に生まれる、至聖なるマリアおよび教会のかたどりである婦人によって、です。
「永遠の観点の下で」(Sub specie æternitatis)イベントを見てみましょう。これが、この世のメンタリティーに従って行動する者たち(そのかしらはサタン)の欺瞞を理解し、それに対抗することができる唯一の方法です。また、傭い人や羊の皮をかぶった狼が「司牧的考え方」で私たちにそうあってほしいと思う者になるよりもむしろ、主が私たちにそうあってほしいとお思いになる者になることを捨てないようにしましょう。教皇尊者ピオ十二世の次の言葉は、ベルゴリオの何度目か分からないほど多くの不快でつまずきを与える発言に対して、私たちに代わって応えています。「教会を硬直していると非難する人々の背後には、キリスト自身の真理を攻撃する偽預言者のこじつけしかありません」。アーメン。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年5月20日
御昇天の八日間内の土曜日
英語版 The Woman and the Dragon: Archbishop Viganò
イタリア語版 La Battaglia contro il Dragone, e Maria. Omelia di mons. Viganò.