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ヨゼフ・M・ザイフェルト教授:カトリック教会の全枢機卿への公開書簡:アブダビ宣言は異端よりもはるかに悪い背教ではありませんか。イエズスの御言葉と完全に矛盾していませんか。

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ヨゼフ・M・ザイフェルト教授:カトリック教会の全枢機卿への公開書簡

アブダビ宣言は異端よりもはるかに悪いもの、すなわち背教ではありませんか。預言者エリアや他のすべての預言者のメッセージ、そしてイエズスの御言葉と完全に矛盾していませんか。

「フランシスコの奇怪な考えは信仰と道徳を破壊する」

5月3日

Seifert: Francis' Monstrosities Destroy Faith And Morals

現在ミュンヘン大学で教鞭を執るオーストリアの哲学者ヨゼフ・M・ザイフェルトは、5月2日に送った枢機卿たちへの公開書簡の中で、フランシスコは信仰と道徳の基盤を破壊しつつある、と書いています(日本語訳は以下をごらんください)。

ザイフェルトは、「ドゥビア」(Dubia、疑問)を発表した枢機卿たちを除くすべての枢機卿が、フランシスコの問題について、ただ沈黙を守ったままでいることが理解できません。
ザイフェルトの挙げた、フランシスコ教皇の問題の事例は以下の通りです。

◇天主が宗教の多様性を積極的に望んでいる、と主張していること(アブダビ宣言
◇同性愛のカップルを支持していること
◇姦淫など、常にどこでも悪である行為の存在を否定していること(アモーリス・レティチア[Amoris Laetitia])
◇死刑に関する誤った教え(カトリック教会のカテキズム)
◇地獄は空っぽであると主張していること
◇大罪の罪人の霊魂は死後に「破壊」されるという主張(エホバの証人の主張でもある)。

「私の知る限り、教会の歴史上、同様の奇怪な考えを主張した教皇は存在しません」とザイフェルトは説明しています。ザイフェルトは、全枢機卿が一斉にフランシスコに手紙を出し、背教のアブダビ宣言を撤回するよう要求することを期待していたのでしょう。しかし現実には、枢機卿たちは信仰を守るのではなく批判者を沈黙させている、とザイフェルトは付け加えています。

#newsAsvgoolboq

「聖なるカトリック教会の全枢機卿への公開書簡」
(これは、高度な共同責任を負うすべての総大司教、大司教、司教にも宛てられている)

4月30日 シエナの聖カタリナの祝日

カトリック教会の枢機卿猊下、大司教閣下、司教閣下、

私は2年半前、長年の友人関係にあったある一人の枢機卿に宛てて次の書簡をお送りしました。この方は、その少し前に、他の多くの司教閣下や枢機卿猊下と同様に、教皇フランシスコへの批判は根絶すべき大いなる悪であると、インタビューでも発言なさっていました。この枢機卿は私の書簡に極めて好意的に答えてくださいましたが、私の知る限り、何の行動もお取りになっていません。

教皇ベネディクト十六世の逝去と、教皇フランシスコが健康状態が著しく悪化した場合に発効する辞職願にすでに署名したというニュースを考慮すれば、したがって、まもなく招集されるかもしれないコンクラーベを考慮すれば、この書簡の内容はすべての枢機卿、さらには大司教、司教にかかわるものだと私は思います。したがって、私はこの書簡を、どの枢機卿宛てに書かれたものであるかを示すしるしをすべて取り除いた上で、すべての枢機卿、さらには教会においてさまざまな程度で責任を負っておられるすべての人に向けた公開書簡として扱います。

聖霊の御取り計らいにより、この書簡のすべての内容が真理と天主の御旨にかない、聖なる教会と多くの霊魂のために実を結ぶものでありますように、また、この書簡の中の一語たりともキリストの花嫁である教会を傷つけることがありませんように。私がシエナの聖カタリナの祝日を書簡の公表日に選んだのは、地上におけるキリストの代理人としての教皇に対する最も親密な敬愛と、まったく異なる2人の教皇に対する惜しみない批判を一体化させたのが唯一、聖カタリナだったからです。それでは、書簡の本文に移りましょう。例の枢機卿に個人的に宛てた書簡をどうぞお読みください。

○○枢機卿猊下

率直に申し上げますが、教皇フランシスコへの批判について、猊下から出たとされている発言に、私は懸念と悲しみを覚えております。猊下はあるインタビューで、メディアの報道が信頼できるものであれば、教皇への批判は「決定的によくない現象であり、できるだけ早く根絶されるべき」と述べられ、教皇は「教皇でありカトリック信仰の保証人」であると強調しておられます。

猊下が、教皇への批判が悪だと言いことがおできになるのは、どうしてでしょうか。使徒パウロはすでに、初代教皇ペトロを強くかつ公に批判していませんでしたか。シエナの聖カタリナは、2人の教皇をさらに厳しく批判していませんでしたか。

たとえ教皇フランシスコが「教皇」であっても、多くのカトリック信者が彼を批判できる理由を、猊下は理解しておられないようにお見受けします。逆に私は、どう見ても「ドゥビア」の4人の枢機卿以外の枢機卿の方々が、教皇に批判的な質問をなさらずに沈黙を守ったままでおられるのも理解できません。教皇フランシスコの言動には、批判的な質問だけでなく、愛のこもった批判を引き出すべきものが数多くあるからです。教皇フランシスコがグランド・イマームのアフマド・モハマド・アル=タイーブとともに署名した「すべての人々の兄弟愛に関する宣言」を思い起こしてみましょう。それはこう述べています。
【参考:「世界平和のための人類の兄弟愛」に関する共同宣言書】

「宗教、肌の色、性、人種、言語の多元性・多様性は神の叡智が望んだことであ(る)」。
(さらに腹立たしいのは英語版です。The pluralism and the diversity of religions, color, sex, race and language are willed by God in His wisdom, through which He created human beings. 【英語版だけは、宗教だけが religions と複数形になっている。その他の言語では全て単数形。また英語版でも、肌の色、性、人種、言語については単数形のまま。】)

天主が――両性の違いを望まれたように――すなわち積極的なご意志をもって――宗教の違いも直接望まれ、そのため、すべての偶像崇拝と異端も望まれた、と主張することは、異端であり、かつひどい混乱ではありませんか。そうです、アブダビ宣言は異端よりもはるかに悪いもの、すなわち背教ではありませんか。

イエズスの神性を拒否し、至聖なる三位一体を否定し、洗礼とすべての秘跡と司祭職を拒否する宗教を、どうして天主が、その肯定的な創造のご意志をもって、お望みになることが可能だというのでしょうか。あるいは、天主が、多神教や、バアルあるいはパチャママという偶像の崇拝を望まれたということがあり得るのでしょうか。これは、預言者エリアや他のすべての預言者のメッセージ、そしてイエズスの御言葉と完全に矛盾していませんか。

フランシスコがこの「文書」をすべての神学校と神学部の司祭養成の基礎とするよう要求しているとき、枢機卿や司教の皆さまは、断固とした「non possumus」(私たちはできない=拒否)を言うべきではありませんか。

天主は、異端的なキリスト教の信仰告白でさえも、単にお認めになることだけでなく、直接的かつ積極的にお望みになったり、認可なさったりすることなどあり得ません。なぜなら、それらの信仰告白は、「私たちの永遠の救いは天主の恩寵だけによってもたらされるのではなく、私たちの自由な協力と善業を必要とする」という聖書の教えといった聖書的かつカトリック的な信仰の柱を否定するからです。そうすると、キリスト教の信仰の基盤全体とキリストご自身を拒否するような宗教を、どうして天主が直接的かつ積極的なご意志をもって望むことがおできになるのでしょうか。

「教皇が、教皇であり信仰の保証人であること」それ自体は正しいことですが、アブダビ宣言に署名してそれを世界中に広め、またその他にも教会の一貫した教えに反する多くの言動を行った教皇に、この言葉を適用するのは不可能です。

同性愛者の「シビル・アライアンス/シビル・ユニオン」を推し進めるべきだという教皇の発言は、教会の教導権の明確な発言(教皇聖ヨハネ・パウロ二世の教皇在位中に発表された2003年6月3日の同性愛者の同棲の法的認可の草案に関する考察を参照)、とりわけ聖書と教会の聖伝全体に相反しています。枢機卿の皆さまは、アタナシウス・シュナイダー司教が素晴らしいことをなさったように、教皇に対する真の愛の行為を行い、これを公に、そして同司教がなさったのと同じように明確に表明なさるべきではありませんか。

教皇フランシスコは――私は辛くて血を流すような心でこう申し上げます――「信仰の保証人」ではなく、この発言や他の多くの発言で、絶え間なくますます信仰と道徳の基盤を破壊しつつあります。私の知る限り、教会の歴史上、同様の奇怪な考えを主張した教皇は一人もいないのではないでしょうか。私が何年も回心を祈ってきた、深い信仰を持つ親愛なるルター派の友人が、このアブダビ宣言によってカトリック教会はキリスト教の土壌から離れた、と私に書き送ってくるとき、私はどのように答えるべきなのでしょうか。

次期教皇は、フランシスコがすべての司祭の神学校やカトリックの学部に送っているこのアブダビの教えを、背教として非難しなければならないことは明らかではありませんか。教会がこのようなひどい発言を非難しないのであれば、教会が教皇ホノリウスを限りなく信仰から逸脱したとして断罪したことを、どのように正当化できるというのでしょうか。全枢機卿が一斉に教皇に手紙を出し、この使徒的宣言の撤回を求めなければならないのではありませんか。

イエズスの御言葉と正反対のことを述べるアブダビ宣言に対して猊下が抗議なさらないのなら、イエズスの荘厳な【以下の】宣教命令をどのようにして果たすことができるのかとキリストに問われるであろうその瞬間を前にして、枢機卿の皆さまは震え上がらなければならないのではありませんか。

「そののち、十一人の弟子が食卓についているときもイエズスは現れ、…そして言われた。『あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる』」(マルコ16章14-16節)。

猊下も、「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)以降に、カッファーラ枢機卿――彼は死の前夜にも私に電話をかけてこられ、私は真理を擁護し続けることを約束しなければなりませんでした――と他の3人の枢機卿の方々のまったくもって正当な「ドゥビア」について、どうして沈黙したり、あるいはこれらの「ドゥビア」を批判したりすることさえおできになったのでしょうか。

「アモーリス・レティチア」にある道徳的・神学的な異端についての丁寧な疑問を定式化なさったのは、つまり、暗黙の本質的に悪しき行為を否定なさったのは、全枢機卿のうち、4人の「ドゥビア」の枢機卿だけです。善の輝きと、悪しき行いが常にどこにでも(ut in omnibus)存在することは、ソクラテス以来、すべての倫理学の礎石と認識されており、教皇聖ヨハネ・パウロ二世が倫理学と教会の道徳的教えの不動の基盤として教えておられたものです。

全枢機卿がカルロ・カッファーラ枢機卿と他の3人の「ドゥビア」の枢機卿に同意され、この明確化を要求され、それによって教皇が真理を宣べ伝えるのをお助けになるべきではなかったでしょうか。全枢機卿が一斉に立ち上がり、バーク枢機卿が予告されながらも実行なさらなかったfraterna correctio(兄弟的矯正)を支持なさるべきではなかったでしょうか。

この中心となる道徳的問題についてもしも教皇が沈黙するなら、4人の枢機卿が教皇に対して「兄弟的矯正」correctio fraternaを行うだろう、とバーク枢機卿が予告なさったのですが、この「兄弟的矯正」は、バーク枢機卿の側でも他の枢機卿の側でも、これまで何年も行われてはいません。ですから、少数の信者と司祭がさまざまな宣言でこの逸脱した教理を批判し、いわば、枢機卿の方々の代理として、真理と信仰の遺産(depositum fidei)を守るために介入してきたのです。それは、信者がかつて、アリウス派の異端に直面して、教皇リベリウスと大多数の司教が弱腰であったとき、聖アタナシウスと他の少数の忠実な枢機卿とともに行ったのと同じです。

しかし、(当時まだモンシニョール・)カルロ・カッファーラが愛情に満ちたユーモアで私に電話をかけてこられたように、私たち「みじめな信者 miseri laici」の代わりに、枢機卿の方々には、真の信仰のために血を流す覚悟を持つべき義務がおありではないでしょうか。教皇批判者たちが、教皇フランシスコが異端の多くを犯したこと、少なくとも異端を示唆したことを証明している異端に対して声を上げる覚悟を持つべき義務がおありではないでしょうか。教皇の発言を批判することを禁止するのではなく、むしろ兄弟として、あるいは子として教皇を非難するという掟がおありではないのでしょうか。

ところが今、皆さまが声をお上げになるのは、defensio fidei(信仰の擁護)のためではなく、これらの批判者を沈黙させるため、まさにすべての批判を「根絶」しよう望んでいるためではないでしょうか。

他の多くのケース、例えば、教皇がカトリックのカテキズムに神学的、教会学的に間違った変更を恣意的に導入した場合、すべての枢機卿には抗議する必要がおありではないでしょうか。その恣意的導入は、聖書の中の天主の明確な言葉(すでに創世記の中にある)と、絶え間ない聖伝と歴史的事実の中で形成された死刑に関する教皇の多くの教理的発言に矛盾しています。また、イエズスの多くの力強い御言葉やカトリック教会の教義に反しているにもかかわらず、教皇が、空っぽの地獄について語ったり、エホバの証人のように、矯正できない罪人の霊魂は地獄に行かず破壊されると主張したりするとき、全枢機卿が抗議すべきではないでしょうか。

親愛なる友人の皆さま、アブダビにおいて明示的ではないにせよ、暗黙のうちに唯一の真の教会の存在と「unam sanctam, catholicam et apostolicam ecclesiam」(一[いつ]、聖、公、使徒継承に対する)信仰を否定し、イエズス・キリストと教会の教えの支配者のように振る舞う教皇と、多くの沈黙する枢機卿というこのシナリオは、私のような多くの信者を悩ませるものであり、私たちの信仰を危険にさらし、教会と霊魂に計り知れない損害を引き起こすものです。

私は皆さまに、揺るぎない真理のために声を上げ、また、他の枢機卿に対して、機会を見て真理を語るように動かすことをお願い申し上げます。たとえそうすることが、私たちがそのただ中にいる教会における恐るべき危機と離教を明らかにし、また一部の「小さな霊魂」(pusillae animae)がその中に誤解してつまずきを見るとしても、です。

これは、南米人の教皇の文化的な問題ではありません。趣味やスタイル、気質の問題ではありません。いいえ、それは、すべての民族と国々に「キリストを信じる者は救われるが、信じない者は滅ぼされる」という福音を宣べ伝えるように言われたキリストに対する「はい」か「いいえ」なのです。教皇は、アブダビ宣言によって、この宣教命令を事実上(de facto)破棄することができるのでしょうか。

教皇は、聖書の、そして教会の道徳的教えの核心や、各回勅「フマネ・ヴィテ」(Humanae Vitae)、「いのちの福音」(Evangelium Vitae)、「真理の輝き」(Veritatis Splendor)と矛盾する道徳の神学者たちを教皇庁生命アカデミーに任命し、さらには自らがほめたたえて表彰することまでできるのでしょうか。枢機卿の皆さまは(特に、教皇聖ヨハネ・パウロ二世と教皇ベネディクト十六世の下で長年働いてきて、教会に忠実に仕えてこられた皆さまは)、この件と、他の多くの「内陣の荒廃」について、教皇が公然と、あるいは暗黙のうちに、言葉や行動(たとえば宗教改革を祝ったり、バチカンにルター像を建立したり、宗教改革を祝う切手を発行したり、バチカン庭園と聖ペトロ大聖堂でのパチャママ崇拝など)によって逆らっているこれら多くの信仰の真理を宣言するために可能なあらゆることをするために、批判的な信者や神学者よりもずっと多くのことをなさらずに、沈黙したままでおられるのでしょうか。そして、自らの教理の確かな羅針盤を聖書の真理や教会の不変の教義にのみ見いだすように、また、信仰の本質は言うまでもなく、それらを一点一画たりとも変えることを自らに許さないように、教皇に懇願するのでしょうか。

キリストの花嫁である教会の多くの傷に対する深い悲しみにおいて、また、イエズスと、イエズスがペトロの岩の上に立てられた教会に対する愛情において。

キリストにおいて
ヨゼフ

追伸:私は、イエズスへの、マリアへの、至聖なる三位一体への、教会への、教皇の霊魂への、そして他の多くの霊魂への愛の行為となる、言葉と行いによる皆さま方の応答を、心の奥底から望んでおります。聖ヨハネ・パウロ二世とともに、私は皆さま方に「corraggio!」(勇気をもってください!)と呼びかけます。真理のために、キリストと教会のために、またフランシスコ教皇の霊魂を含む霊魂たちのために、そして真理においてのみ可能なすべてのキリスト教徒の一致のために、勇気をもって遠慮なく戦ってください。

キリストにおいて皆さま方と深く一致している
ヨゼフ


ヨゼフ・M・ザイフェルト教授(博士号・大学教授資格取得、名誉博士)。現在、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで哲学を教えている。

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