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「イエズス、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。見えるようにしてください。」

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2023年2月19日(主日)大阪での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は2月19日、五旬節の主日です。来たる水曜日は、灰の水曜日です。成人の21歳以上から59歳までの健康な男女の信者は、灰の水曜日とそして聖金曜日のこの日に、大小斎を守らなければなりません。大斎というのは、一日に一回だけ十分な食事をすることです。小斎というのは、一日にいっさい肉を取らないことです。小斎は、14歳以上の健康な信者は死ぬまで生涯守らなければなりません。

復活祭の義務もあります。少なくとも一度復活祭の頃に聖体を受けること、また少なくとも毎年一度告白すること、です。教会の掟と習慣によると、特に四旬節の間に告白の秘跡を受けて、頻繁な告解が勧められてはいます。しかし少なくとも一度、四旬節の頃告白をして、そして復活祭の時にご聖体拝領をすること、特に少なくとも一度すること、が義務付けられています。寛大な四旬節と良い四旬節復活の義務をお捧げいたしましょう。 

今日の福音では、イエズス様が十二人の弟子たちをおそばにお呼びになって、ご自分の受難について予告されました。一緒に黙想いたしましょう。

「見よ、私はエルザレムに登る。人の子について、預言者たちを通して書かれたことは、みな成就するだろう。」
イエズス様が具体的にどのようなご受難を受けるかということを説明しても、しかし弟子たちには、何のことかよく分かりませんでした。そこで主は、彼らの信仰を強めようとして、そして彼らの目を開かせようとして、直後に奇跡を行います。

その時ちょうど、目の見えない乞食がいました。彼はナザレトのイエズスが通るということを聞いて、叫びます。
「イエズス様、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。」すると「なんだ、この乞食は。黙れ。うるさい。」と言うんです。すると、そのような叱責にも関わらず、彼はもっと大きな声で「イエズス様、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください!」
その叫びに、イエズス様はお憐れみを示して、ご自分の近くにお呼びになります。
「何をしてほしいのか。」
「見えるようにしてください。」
「私は言う。見えよ。」
すると彼はその瞬間に見えるようになって、イエズス様に付き従うようになります。

私たちもこの四旬節に入ろうとするこの直前、イエズス様の受難を黙想しなければなりません。受難の神秘に関する旧約の預言が、イエズス・キリストにおいて、あとかたもなくすべて成就した、すべて完成した、ということを、私たちが深く理解することができますように、今日の福音の乞食と一緒に祈りを捧げましょう。
「イエズス様、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。私が見えるようにしてください!」

イエズス様はおっしゃいます。「人の子について、預言者たちを通して書かれたことは、みな成就する」と。
イエズス様は、「人の子」と言います。これはへブライ語では、アダムの子という意味です。アダムとは、人間という意味だからです。
聖パウロはこう言っています。アダムは来るべきお方の前兆であった、と。
もしも私たちが旧約時代のすべての出来事を理解しようとするなら、目が見えることを望むなら――旧約にはいろいろな不思議な出来事があります、いったいなぜか?と思うようなことがあります――それを深く理解することができるとするならば、イエズス・キリストという鍵がなければなりません。なぜかというと、イエズス・キリストが、すべてその旧約に意味を与えるからです。

もっというと、天主はこの全人類の歴史を作るとき、人類だけではなくて、天主と人間とのすべての救いの歴史をつくるときに、最初に考えたのが、イエズス・キリストでした。

ご自分の御子が人間となって、イエズス・キリストとなる。それこそがブループリント、設計図、原型であって、イエズスのもとにすべてを一つにまとめようと計画されました。アダムから始まって全人類の最後の人間まで、イエズス・キリストにどのようにかかわるかによって、すべてが決まります。私たちの人生の意味が、決まります。

ですから、私たちは本当にこういわなければなりません。「初めに御言葉があった。万物は彼によって、御言葉によって創られた。造られたもののうちに一つとして、彼によらずに造られたものはない。」

旧約のすべての歴史は、イエズス・キリストという実体を照らし出す影にすぎませんでした。イエズス・キリストこそが本物であって、原型であって、その旧約の時代のすべての人たちはその写しでした。イメージでした。

今日は――もちろん旧約の時代のすべての太祖について、預言者について、そのイエズス・キリストの話について語りだしたら、おそらく永遠が必要かもしれません、ですから――今日は、旧約の太祖ヨゼフについてお話することを提案します。

ヨゼフ――なぜかというと今日は2月の19日です。19日ですから聖ヨゼフの日でもあるからです――太祖ヨゼフについて語るのがよいのではないかと思います。

ヨゼフについて創世記を読むと、こういわれています。自分の父親イスラエルから、非常に愛された、特別に愛された子どもであった。だから特別の服を着せられて、そして兄弟たちからの嫉妬・妬みを買った。しかしエジプトで、高い位について、飢饉から人々を救い、パンを与えて、救い主と呼ばれた。飢餓に苦しむ人々に寛大にパンを与えたから。多くの民を、民族を救った。救い主と呼ばれた。まさにヨゼフは、イエズス・キリストの淡いイメージではないでしょうか。

ヨゼフの生涯を見ると、三つの服があります。お父さんのもとに居たときには、きれいな色とりどりの良い服を着せられて、そして幸せでした。

しかし兄弟たちから裏切られて、そしてエジプトに奴隷として売り飛ばされます。兄弟たちによって井戸に投げさせられて、井戸の中には幸いに水がなかったので、その中で気を失っていると、通りかかった商人に助けられ、エジプトに奴隷として売り飛ばされます。その時、ヨゼフは奴隷の服を着ます。

のちに、ファラオのもとで働くことになり、ファラオから、エジプトの飢饉を救ったので特別の絹の服を着せられるようになります。

ちょうどこれらは、天主イエズス・キリストが天主御父のふところに居た時に、栄光に満ちて美しい幸せでおられたことを意味し、天から人間の本性をとって、あたかも奴隷の姿を取って、十字架の死に至るまで従順になられたことを示唆し、最後には復活されて、栄光の肉体を取っておられるということの淡いイメージではないでしょうか。

人の子、アダムの子、イエズス・キリストは、アダムのしたことによってもあらわされています。特にイエズス・キリストの御受難は、アダムの眠りによってあらわされます。眠ったアダムのわき腹からエワが作られたように、ちょうどイエズスも十字架の上で死の眠りについている間、わき腹から血(御聖体)と水(洗礼)が流れ出て、花嫁である教会が作られるからです。

ヨゼフも眠って夢を見たと創世記には書かれているのではないでしょうか。

ヨゼフは、子どものころ、夢を二回見ます。お父さんのもとできれいな服を着ている時の夢です。その夢によると、自分は太陽と月と星から礼拝を受けたとか、麦の穂から尊敬を受けた、という夢です。この夢の解釈でヨゼフは家族からの怒りを買います。

これはイエズス様がご受難を通して、死の眠りを通して、全人類の救い主として、崇敬を尊敬を礼拝を受けるべきものとなる、ということを意味することではないでしょうか。

ヨゼフは、牢獄に投獄されたときに、やはり牢獄にいた二人の夢を解釈します。この二人の人は、ひとりひとり別の夢を見ました。一人はファラオの王のパンの管理者の夢で、もう一人はぶどう酒の管理者の夢でした。パンの管理者は、鳥に王さまのパンを取られるのをそのまま許した、これは仕事を怠けたという意味で、断罪され死刑になるだろう。しかしぶどう酒の責任者は、ファラオに忠実だったということが示されて、牢獄から解放されてよい地位につくだろう……という夢の解釈をします。

イエズス・キリストは私たちの地上という悪夢が終わったのちに、御聖体に忠実であったかどうかによって私たちを審判して、解釈して、そして私たちを地獄に、あるいは天国に、審判するべきお方ではないでしょうか。

ヨゼフは、ファラオの夢をも、解釈します。ファラオは同じような夢を二回見ます。これは太祖ヨゼフによると、このような時には、天主はもはやこれを変えることができない、決定されている、このことは必ず起きるという夢だ、といいます。それは七年間の豊作の後に、七年間の飢餓が来るだろうということでした。ヨゼフはそのことをファラオに忠告します。ヨゼフだけがその夢を解釈することができて、エジプトを救います。また周りの国々をも救います、なぜかというと、パンを準備していたからです。

これはイエズス・キリストだけが御聖体をもって、ついには悪に勝利するという、これは決定的であって誰にも変えることはできないということを意味するのではないでしょうか。

今日、太祖ヨゼフの話を黙想しましたが、そればかりではありません。その他多くの旧約時代の出来事が、すべてイエズス・キリストの御受難とそして復活、そして私たちの贖いのわざについて、予告しています。私たちの人生も、まさにイエズス・キリストとどれほど一致しているか、イエズス・キリストの似姿にどれほど寄り添っているか、イエズス・キリストの様になっているかによって、私たちの人生も判断されます。

四旬節は私たちがイエズス様の御受難を黙想すると同時に、ますますイエズス様のようになるときでもあります。ぜひそのお恵みを求めましょう。マリア様の御取次によって、四旬節の神秘を、イエズス・キリストの神秘を、深く観ることができるようにお祈りいたしましょう。

「イエズス、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。見えるようにしてください。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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