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【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その1

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【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その1

2023年7月26日(水曜日)

Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)

アルド・マリア・ヴァッリ

親愛なる友人の皆さん、数日前にカルロ・マリア・ヴィガノ大司教が私と行ったインタビューが大きな反響を呼んでおり、数カ国語訳されています。この対談は、特にベルゴリオが追求した戦略と、その結果として、信仰と正しいカトリックの教理を擁護するために取るべき種類の対応について、多くの重要な考察ポイントを提供しました。インタビューで取り上げたテーマをさらに掘り下げるために、私たちはヴィガノ大司教に再び接触し、2回目の対談を行いました。2部に分けて掲載します。

【問い(アルド・マリア・ヴァッリ)】大司教様、今回の対談は、ベルゴリオが最近の枢機卿の指名で従った論理に関して、私の質問に大司教様がお答えになった発言から再開するのが適切だと思います。大司教様はこう言われました。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】ベルゴリオの論理は完全に明らかです。彼は、離教(schism)の口実を作り出そうと望んでいるのです。言葉では離教を否定して嘆いてはいるものの、しばらく前から離教を準備しているのです。ベルゴリオは何とかして、信者や聖職者の善き部分を公式の教会から分離させたいと思っています。そしてこれを成し遂げるために、その人々が近代主義の最高法院(サンヘドリン)から距離を置くのを確実にするために、ローマ教皇庁の重要な地位に、部署の管理を可能な限り悪いものにするのを保証する人物たちを配置して、教会の体にとって可能な限り最も悪い結果と最も大きな損害をもたらすようにしたのです。

古代の典礼の挙行を漸進的に制限することは、保守派を"狩猟保護区"に閉じ込めて、その後、聖ピオ十世会へ向かわせるのに役立ちます。シノドスが、現在進行中の教理的、道徳的、規律的な変更という悲劇的な結末を迎えるや否や、-- エクレジア・デイ団体の廃止または正常化【新しいミサを受け入れさせること】の後 ---、聖伝の独占者となるであろうもの【聖ピオ十世会】へとカトリック信者らの大脱出が起こるでしょう。しかし、その時、つまり、聖伝のカトリック信者たちが聖ピオ十世会に移行して、同会の指導者たちが、廃止された「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)との競争に勝利したと信じるとき、新たな耐え難い挑発がなされ、聖ピオ十世会の少なくとも一部は、ベルゴリオのローマから距離を置くのを余儀なくさせることでしょう。これにより聖伝主義は「破門」されます。聖伝主義は、公式の教会内では代表することは――過去にはそうだったとしても――もはやなくなるでしょう。このような理由から、私の考えでは、聖伝のカトリック信者を教会の体から追放するという悪意ある作戦をさらに複雑にするために、何らかの抵抗の断片化を維持することが重要です。

女性助祭、教会の独身制の廃止、同性愛カップルの祝福、一夫多妻制の容認、ジェンダー論、LGBTQイデオロギー、テイヤール・ド・シャルダンのような環境保護主義的な汎神論。これらは、ベルゴリオが意図的に拡大している保守派(すでに距離を置いていて、構図から外れている聖伝派ではありません)と超進歩派の対立点です。彼の目的は、対立を作り出して、それを大きくさせ、最も極端な要求の支持者を励まして任命したり昇進させたりし、残っている数少ない良き司教、司祭、修道者らが非難されることへの予想通りの反応を目にすることなのです。良き司教や司祭らは、ベルゴリオの落とし穴に直面して、二者択一を迫られることになるでしょう。つまり、沈黙のうちの苦しみに戻るか、それとも、立ち上がってカトリックの真理に対する裏切りを糾弾し、自分の地位を辞さざるを得なくなり、地下で役務を行使するか、あるいは、少なくとも見かけ上は教会法的には正常ではない立場におかれるか、です。

いったん不都合な牧者たちが追放され、忠実な保守派らが解任されれば、ベルゴリオの位階階級は聖職者と人々を完全に支配することができるようになるでしょう。残った人々の従順は確実なものとなります。するとこのセクトは、カトリックという名前を持っているだけで(おそらくそれさえもなくなるでしょう)、キリストの教会を破壊するためにキリストの権威を濫用する裏切り者で腐敗した位階階級という逆説の中で、小羊の花嫁を完全に日食で覆い隠すでしょう。

【問い】要するに、その論理とは、真のカトリック信者にペトロの舟を放棄させるような状況を作り出そうとするもののように思えます。正しいでしょうか。

【ヴィガノ大司教】いいですか、すでに2019年(こちら)にベルゴリオは、離教を恐れていないと明言しています。そして、彼は「離教者は常に一つの共通点を持っています。彼らは民から、民の信仰から、天主の民の信仰から自分自身を切り離します」と述べる一方で、こう付け加えました。「イデオロギーの道徳性は、皆さんを硬直性へと導き、今日では、教会内に多くの硬直性の学派があります。それらは離教ではありませんが、悪い結果となる疑似離教的なキリスト教的やり方です。皆さんが硬直したキリスト信者、司教、司祭を見るとき、彼らの背後には問題があり、健全な福音はありません」。いつものように、彼は、自らがしようとしていることをするとして、カトリック信者を非難しました。

【問い】ベルゴリオが採用した戦略をさらに浮き彫りにするために、大司教様は、ある米国人コラムニストの小論に言及されました。彼は、すでに2018年に、すぐに裏付けられることになったある行動指針を強調していました。この小論について教えていただけますか。

【ヴィガノ大司教】もちろんです。著者はパトリック・アーチボルドで、彼の小論は2018年に「Actuating Schism(離教を促す)」というタイトルで、「クリエイティブ・マイノリティー・リポート」(Creative Minority Report)に5回にわたって掲載されました(こちらこちらこちらこちらこちら)。この小論の中で著者は、彼の考えによればカトリック教会の中心に故意に離教を引き起こすことを意図したこのアルゼンチン人の悪意ある行動がどんなものだったかを、非常に明晰に概説しています。アーチボルトはこう書いています。

「このプロセスは今後も続くことが予想できる。異端のボールをグラウンドに転がし続けるという、あらかじめ定められた結果を作り出す賭け事のようなシノドス。(…)教会はしばらくの間、事実上の(de facto)離教状態にあったが、もはや教会の教えを保持していない人々が去ることを拒否しているに過ぎない。今や、彼らはここにいるだけでなく、責任ある立場にある。彼らは自分たち自身の別の教会や権力構造を求めたのではなく、長期的な見方を持って、カトリックという名前とその権力構造を欲していたのである。自分たち自身の教会を欲していたのではなく、私たちの教会を欲していたのだ。今や、彼らは権力を持ち、権力を行使している」。

アーチボルトは続けます。

「だから、ずっと私の心に存在している疑問はこうだ。自分の権力と戦うこれらのカトリック信者を、どうやって排除するのだろうか。定義上、唯一の真の教会に粘り強く執着している忠実なカトリック信者を、どうやって排除するのだろうか。真のカトリック信者を真の教会から、どうやって追い出すのだろうか。事実上の(de facto)離教を、どうやって本当の離教に変えるのだろうか」。

ここでアーチボルドは賢明にも、サンタ・マルタ館中央委員会が採用した構想を概説し、いくつかの異なる事例から見て取れる一貫性によってそれを特定しています。その事例とは、無原罪聖母のフランシスコ会、南米のロジェリオ・リビエレス・プラノ司教、米国のマーティン・ホリー司教、フランスの「贖いの御母マリア小修道女会」(Petites Sœurs de Marie Mère du Rédempteur)です。この短いリストに、2018年以降、ベルゴリオの「あわれみ」を味わった多くの司教や修道共同体(特に女子修道者の共同体)の名前を加えることができます。

そのシステムはいつも同じです。ごく短い予告で使徒的訪問が行われ、その結果や発見された重大な問題についての報告はなされず、調査の対象となった人々には説明や弁明の可能性はありません。

「そのメッセージや方法は明確である。彼らが、あなたたちがいなくなることを欲するなら、あなたたちをいなくすることができる。彼らはもはや、正当な手続きや教会法の下での権利といった申し立てや感覚などを一切無視しているのだ。これこそが、どの司教をも神経質にさせることであり、まさに核心なのである」。

この完全に非合法な教会法上の行動と並行して、ベルゴリオの使者は、司教や共同体が追放された人々を迎え入れるのを阻止するために、司教や共同体を威嚇することを躊躇しません。フィデンツィオ・ヴォルピ神父が、無原罪聖母のフランシスコ会に対するテロ行為を実行するために、イタリア司教協議会の会合に不定期に参加し、司教団を脅して保守的な修道士を教区に編入しないように言ったことを、私たちはよく覚えています。

「しかし、規則によって虐待された者の逃げ道を他の司教が提供することができる場合、それらの高位聖職者は脅され、遠く離れた教区で新しい忠実なカトリックのグループを作ることをどの司教もできないように規則が変更されたのだ」。

【問い】「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)は、まさにこの計画を表現したもののように思えますが…。

【ヴィガノ大司教】その通りです。「トラディティオーニス・クストーデス」は、「聖伝の」団体を教会法的に設立する権限が聖座にあると主張し、どの教区の司祭も古代の典礼に従って祭儀を行う許可を得られないことを司教たちに理解させました。「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の取り消しは、これと同じ方向に進むものであり、このことは明らかです。とりわけ、ピエンツァのベネディクト修道女会やマラディのドミニコ修道女会の事例を思い浮かべれば十分でしょう。彼女らは偶然にも、「贖いの御母マリア小修道女会」と何ら変わらない状況に置かれています。「彼女らは、少し保守的すぎるということと、地元の教区長が欲しがる不動産を所有しているという二重の罪を犯したのです」。その不動産とは、オルチャ渓谷を見下ろす丘の上の土地や、アペニン山脈にある16世紀の巨大な修道院です。テキサス州アーリントンのカルメル会でも同じことが起こりました。ここでは、修道女たちの保守主義に対する怒りが、修道院長を中傷するという恥ずべき事態を引き起こし、修道院長は担当管理官の下に置かれ、教会法上の規範に反して解任されました。そこもまた、膨大な不動産と油田がある修道院なのです。

しかし、バチカンは、司教が特定の聖伝の共同体の存続を助けることを妨げるために、司教の権利を制限することを躊躇しない一方で、そのような共同体を抑圧・迫害するために役立つときはいつでも、自分たちの手下の不正や虐待を制裁することによって、法律を超えて他の司教の権利を大幅に拡張します。これに、ベルゴリオが修道会から自治権を剥奪し、自称修道者省【奉献・使徒的生活会省】の超進歩的な、中国式の再教育に沿った、厳格な統制のもとで修道会を連盟に編入した憲章「ヴルトゥム・デイ・クエレーレ」(Vultum Dei Quærere)と教令「コル・オランス」(Cor Orans)を加えることもできるでしょう。

政治局公認のカトリック・メディアは、シノダリティーとは、教会の統治を分散化させて、司教協議会の形態でもっと民に近づけることだ、と言うだろう。明らかに、これほど真実からかけ離れたものはない。その嘘が実証される信じられないような出来事として、シノダリティーに関するシノドス文書のインクが乾かないうちに、教皇は自ら介入し、米国司教協議会が虐待スキャンダルについて何か無駄なことをするという議論について考える前に、同協議会を公に骨抜きにした。ベテランの教会ウォッチャーにとっても、これはかなりの見ものだった」。

アーチボルドはこのパターンを次の言葉で要約しています。

「それは、迷える正統的な司教が聖伝の砦となり、聖伝のカトリシズムの安全地帯となることができないのを確実にすることである。その司教は、新しい修道者のグループが自分の教区に形成されることを許可することができず、聖伝の修道女たちを自分の教区に招き入れることもできず、あまりに伝統的なことをするならば、司教協議会とうまくいっていないという罪で使徒的訪問を受けて終わりを迎えることになる。このすべては、聖伝のカトリック信者の逃げ道をすべて断つためなのである」。

ここで、アーチボルドは孫子の兵法の一節を引用します。「囲師には必ず闕(か)く(包囲した敵には、逃げ道を残しておかなければならない)【師は軍隊のことで、囲師は軍隊を包囲すること】」。

アーチボルトはこうコメントしています。

「敵を包囲するには、他の逃げ道をすべて断たなければならない。敵とは、伝統的で『真実を知ってしまっている』(red-pilling)保守的なカトリック信者であって、自分たちがもっと安全だと感じる一カ所に集める必要があり、その後で一撃を加えるのだ。しかし、一撃だ。それはやって来る。(…)私は、ローマが聖ピオ十世会と交渉を完了することができない場合、彼らは、『スンモールム・ポンティフィクム』と、そのミサを唱える司祭の個々の権利を廃止し、すべての聖伝のカトリック信者を、一つまたは少数の認可されたところ、おそらく聖ペトロ兄弟会や王たるキリスト会、またはいくつかの燃料を補給されたエクレジア・デイ委員会【傘下の団体】に強制的に送り込むつもりだと信じている。(…)彼らは私たちを特別許可(indult)の時代に戻し、私たちをいくつかのグループ(聖ペトロ兄弟会、王たるキリスト会など)やいくつかの免除された特別許可の場所に統合するだろう。『これは反聖伝の動きではありません』と、彼らは主張するだろうし、カトリックの主流メディアに登場するおべっか使いの仲間たちはまくしたてるだろう。『教皇はただの一つの聖伝のミサも廃止していません。これは統治行為に過ぎません』。(…)」

「だから、これで終わりだ。変更に抵抗したり、大声で不平を言ったりする認可団体は、使徒的訪問を受け、教皇に服従することを拒否したとして潰される。抵抗する教区の特別許可共同体は潰される。では、地下に潜って誰かの家でミサが行われると考えるカトリック信者はどうか。駄目だ。個々の司祭には、もはやミサを行う権利はない。それを行えば、教皇の権威に服従することを拒否したことになる。あなたは離教者だ。どの司教であってもそうだ。圧迫されて第二バチカン公会議を受け入れるか、離教者であるかのどちらかなのだ」。

「修道者としてであろうと、全時代のミサにあずかるだけであろうと、真正な聖伝のカトリック生活を送ろうとすれば、それだけであなたは離教者になる、とされえるだろう。聖ピオ十世会に行けば、あなたは離教者にされる。地下ミサに行けば、あなたは離教者とみなされる。ローマの許可を得ずに聖伝の規則の下で信者のグループを結成すれば、離教者とされる。このようにして、彼らは、聖伝のカトリックの生活を送ろうとするあらゆる試みを、不従順の行為に変えるだろう」。

【問い】5年後、アーチボルトの2018年の小論によって提起された警鐘が、十分に根拠のあるものであったことが証明されたことは明らかだと思えます。しかし、多くの聖職者、修道者、信者が当然問うように、この時点で、私たちがどのような道を歩もうとも、私たちが離教者として非難されることになるのであれば、私たちはこの破壊転覆的行為にどのように抵抗すればいいのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】殉教者や証聖者たちの英雄的行為から、何世紀にもわたって同じ選択を迫られてきた聖職者、修道者、平信徒ら多くのカトリック信者の沈黙の信仰心に至るまで、私たちは先人たちの確固とした抵抗に、その答えを見いだすことができます。妥協と背教という広くて快適な道か、狭くて困難なキリストへの忠実という道かのどちらかです。それはしばしば痛みを伴う選択ですが、主が私たちに用意してくださった選択です。「私が地上に平和を持ってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣を持ってきた。つまり、私は息子をその父から、娘をその母から、若い嫁をその姑から別れさすために来た。人は自分の家の者を敵に回すだろう」(マテオ10章34-36節)。

この剣は、聖パウロが天主の言葉である聖霊の剣(エフェゾ6章17節)と同一視しているもので、キリストの忠実な信者を反抗的で腐敗した位階階級から、忠実な修道者を異端の長上から、忠実な司祭を近代主義者の司教から別れさせます。ですから、私たちの敵は自分の家の者、つまり教区司祭、司教、そして誤謬と分裂を広めるためにペトロの玉座を簒奪している者なのです。

「つまずきを起こすこの世にのろいあれ! つまずきは避けがたいけれども、つまずかせる人にのろいあれ」(マテオ18章7節)。これらの言葉は、教理的、道徳的、典礼的なつまずきが深刻であることと、最後の審判の前に悪しき者が一時的に勝利する結果であるつまずきが避けがたいことについて、私たちを戒めています。しかし、これらの言葉はまた、つまずきに抵抗し、それを糾弾し、それが日常生活のあらゆるレベルで広まっているからといって、それが普通のことだと考えないよう、私たちを戒めているのです。

60年間にわたって、私たちは、司牧者たちの権威が、表面上は形式的な合法性を保ちながら、信者に対して、また教会自身に対して利用されるのを見ることに慣れてきたことを忘れてはなりません。「公会議」そのものは、――近代主義者が立役者である唯一の公会議であり、公会議についてのカトリック的なものがない唯一の公会議であるため、彼らが大切にしている唯一の公会議ですが、――教会の体に対する巨大な欺瞞でした。なぜなら、公会議は、エキュメニカル公会議の権威を維持しつつも、異端の教理を詐欺的にほのめかしているからであり、また公会議は、公会議教父とローマ教皇の権威を維持しつつも、まさにカトリックという大伽藍を取り壊すために利用されているからであり、また公会議は、途切れることのない不変の教導権とは対照的に、規範に対する盲目的で隷属的な従順を押し付けたからです。パウロ六世が自分の使徒的権威を利用して意図した聖伝の典礼の廃止は詐欺でした。そして、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)を、同じ自発教令(明らかに同じ教会法上の効力を持っています)で取り消そうとする現在の試みも、それに劣らず悪質です。その目的は、教会の善と信者の救いではなく、両者の破滅なのです。他方、最高法院(サンヘドリン)が私たちの主に対して行った、冒涜したという告発でさえも、天主なる罪なき立法者に対して行われたため、本質的には非合法かつ無効であったにもかかわらず、形式的には申し分のない行為のような外観を持っていたのです。

権威当局は、それ自体の権威性によって従順を得ることもできますし、権威主義によって自らを押し付けることもできます。前者の場合、権力は当局が制定された目的のために行使されます。後者の場合、権威はそれ自体が目的となってしまいます。権威主義は、キリストの唯一の権威と、キリストを代表する地上の権威という代理性を排除するがゆえに、現世の問題においても、宗教の問題においても、天主の秩序を破壊します。要するに、権威主義は、あたかも権威の座にある者(統治者や司教)が、キリストの権威の代理人だからではなく、その者自身に正当性があるかのように振る舞うのです。このため、権威主義は破壊転覆的な権力となり、共通善を追求するキリストのご意志に自らを合わせる義務から解き放たれ、このような理由から、否応なく憎むべき専制政治へと変貌を遂げる運命にあるのです。

(続く)


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