恩寵についての説教
ドモルネ神父 2023年8月13日
はじめに
今日の福音と書簡は、私たちの霊魂に対する天主の働きについて、言い換えれば、恩寵について語っています。福音の中で、私たちの主イエズスは、耳が聞こえず話すことのできない人の耳を開かれ、舌のもつれを解かれます。この体の癒やしは、霊魂の癒やしを象徴しています。イエズスは、霊魂が天主の愛の呼びかけを聞いて、それに答えられるようにしてくださいます。書簡の中で、聖パウロは自分への天主の働きについて、こう語っています。「天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)。今日は、恩寵について、特に、助力の恩寵についてお話ししようと思います。
恩寵という概念
私たちの存在の目的は、天主の命と幸福に永遠にあずかることです。天主の命にあずかることを、私たちは「超自然の命」と呼びます。なぜなら、それは人間の本性を超えた命であるからです。私たち自身の意志や力では、それに到達することはできません。超自然の命には、超自然の手段によってしか到達することができません。なぜなら、手段は目的に合っていなければならないからです。天主が私たち人間の命に天主の命を接ぎ木し、私たちを天国の栄光へと準備するのに使われる手段は、恩寵と呼ばれます。
恩寵とは何でしょうか。恩寵とは、まず何よりも、超自然の賜物です。なぜなら、天主には恩寵を与える義務はないからです。第二に、恩寵とは、天主だけが私たちに与えることのできる賜物です。なぜなら、天主の命に与る手段を私たちに与えることがおできになるのは、天主だけだからです。最後に、恩寵とは、私たちの主イエズス・キリストの功徳によってのみ、天主が私たちに与えてくださる賜物です。天主がアダムとエワを創造されたとき、天主は二人に恩寵を与えられましたが、二人は原罪によって恩寵を失いました。そのとき以来、恩寵は救い主の功徳によってのみ与えられてきたのです。このため教会は、祈りの最後に、いつも次のように唱えます。「Per Dominum nostrum Jesum Christum」、「われらの主イエズス・キリストによりて」。
恩寵には2種類あります。成聖の恩寵と助力の恩寵です。成聖の恩寵は、私たちが大罪によってそれを台無しにしない限り、私たちの霊魂の内にとどまります。成聖の恩寵は、天主の三つのペルソナが私たちの霊魂にとどまられるように、私たちが天主との友情の状態にあるようにします。一方、助力の恩寵は、永遠の命に導く善業を行うための一時的な助けです。聖パウロが書簡の中で、「天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)と言うとき、彼は助力の恩寵について述べているのです。
助力の恩寵の必要性
私たちには助力の恩寵が絶対に必要です。私たちの救い主イエズスに回心するためには、助力の恩寵が必要です。私たちの主はこう言われました。「父から与えられた人でなければ、私のもとには来られない」(ヨハネ6章44節)。私たちが天国へ行くための良い行いをするためには、助力の恩寵が必要です。イエズスはこう言われました。「木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが、あなたたちも、私にとどまらぬなら、それと同じである。私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は、多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章4-5節)。
私たちの霊魂の内に成聖の恩寵を長く保つためには、助力の恩寵が必要です。私たちの主は、私たちにこう言われました。「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈れ」(マテオ26章41節)。また、聖パウロはこう言っています。「私の内に、すなわち、わたしの肉に、善が住んでいないことを知っている。しかし、善を望むことは私の内にあるが、それを行うことは私の内にないからである。私は自分の望む善をせず、むしろ望まぬ悪をしているのだから。…私は何と不幸な人間であろう。この死の体から私を解き放つのは誰だろう。主イエズス・キリストによる天主の恩寵である」(ローマ7章18-25節)。
最後に、死のとき、私たちには、非常に特別で重要な助力の恩寵が必要です。この恩寵を、私たちは最後の忍耐の恩寵と呼んでいます。これは、成聖の恩寵の状態にあることと、死が同時に起こることです。成聖の恩寵の状態で生きている人が、大罪に陥る危険の中にいて、まさにそのとき、死が訪れることがありえます。もし、私たちが大罪の状態にあるときではなく、成聖の恩寵の状態にあるときに、天主が私たちの死を許されるなら、これは恩寵です。これが、私たちに天国を実際に開いてくれる最後の恩寵です。この恩寵はとても重要ですから、私たちは「めでたし」を祈るたびに、童貞聖マリアを通してこの恩寵を求めるのです。「今も臨終のときも、祈り給え。」
次の自問をしてみましょう。「成聖の恩寵もなく、助力の恩寵もない人が、真理を知ることができるでしょうか」。いくつかの自然の真理、すなわち被造世界に関する現実を知ることはできます。例えば、異教徒は、天主の恩寵なしに、数学的法則や生物学的法則を発見することができます。しかし、恩寵の助けなしには、信仰を持つことはできません。
また次の自問をしてみましょう。「成聖の恩寵もなく、助力の恩寵もない人が、善業をすることができるでしょうか」。できます。でも、その人の善業には、永遠の救いに値する価値はありません。ですから、例えば異教徒は、貧しい人に施しをすることはできますが、この行いで天国に値する功徳を得ることはありません。
助力の恩寵の分配
天主からの助力の恩寵を受けずに、天国に行くことは不可能です。聖パウロが言っているように、天主は、すべての人の救いを望んでおられます(ティモテオ前書2章4節参照)。ですから、天主は、すべての人に、永遠の救いを得るのに十分な助力の恩寵を与えられます。例外なくすべての人に対して。
成聖の恩寵の状態にある人々に、天主は、天主と教会のすべての掟を果たすのに十分な恩寵を与えられます。聖パウロはこう言っています。「天主は忠実であるから、あなたたちの力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐え、それに打ち克つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前書10章13節)。
大罪の状態にある罪人に、天主は、償いを行うことができるのに十分な恩寵を与えられます。天主ご自身が預言者エゼキエルを通してそう言われました。「私は悪人の死ではなく、むしろ、悪人がその道を改めて生きるようにと望む。悪人たちよ、道を改め、その悪い生き方を変えよ。…悪人でも、悪を捨てるなら、その悪のために滅びることはない」(エゼキエル33章11-12節)。
不信心者、ユダヤ人、異端者、離教者にも、天主は、救いを得るのに十分な恩寵を与えられます。聖トマス・アクィナスはこう言っています。「森で、異教徒の間で育った人であっても、その人が、自然の法則について自分が知っていることに従い、善を求め、悪を避けようとするならば、天主がその人に、内なる霊感によって、信じるために必要なことを伝えられるか、あるいは、天主がペトロをコルネリオに遣わされたように、その人に信仰を教える人を遣わされるかのどちらかであることは、非常に確かな真理として、私たちが信じるべきことである」。
最後に、洗礼を受けずに死ぬ子どもたちにさえも、天主は、救いの手段をすべて用意しておられます。このような子どもたちがこれらの手段を使えないとすれば、それは、何らかの自然の原因のせいであって、天主は、それを奇跡によって防ぐ義務は負っておられないのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、天主は、私たちが善を行い、誘惑に抵抗するのに十分な恩寵を、いつも私たちに与えてくださいます。もし私たちがそれに失敗するとすれば、それは私たち自身の過失です。私たちがこれらの恩寵を求めることを怠ったか、怠慢や悪意から恩寵を拒んだかのどちらかです。ですから、朝の祈りのとき、活動を始める前、試みのとき、決断を下す前に、これらの恩寵を求めるようにしましょう。また、天主がいろいろな時に私たちに送ってくださる良い霊感に、確実に従うようにしましょう。私たちが聖性において進歩するのは、これらの恩寵に忠実であることによるのです。