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シノダリティーに関するシノドス SYNOD ON SYNODALITY by Fr Peter Scott

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シノダリティーに関するシノドス

SYNOD ON SYNODALITY by Fr Peter Scott

シノダリティーに関するシノドス

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉

教皇ピオ九世は、間違いなく天主からの霊感を受けて、フリーメーソンと教会のすべての敵が、教会に侵入してカトリックの宗教を破壊するための計画において作成した誤謬を、自由主義者や進歩主義者が第二バチカン公会議のテキストに導入するのに成功した誤謬を、糾弾し、断罪しました。第二バチカン公会議は、それ以前のすべての公会議がそうであった教義的公会議ではなく、「司牧的」公会議にすぎないとよく言われますが、この公会議が聖霊によって霊感を受けたものではなかったことは本当に確実です。聖霊が、その全能によって、真理を誤謬で覆い隠しつつ、しかし誤謬を免れるように、第二バチカン公会議に霊感を与えることができたとほのめかすことは、考えられませんし、冒涜的ですらあります。
マルセル・ルフェーブル大司教
「異端に抗して」240ページ

シノダリティーに関するシノドス

来る2023年10月にローマで開催される「シノダリティーに関するシノドス」は、実質的な重要性はほとんどなく、聖伝のカトリック信者である私たちには関係ないと考えたくなります。これまでのシノドスと同じことが繰り返されるでしょうが、しかし、このシノドスは、教会を内部から破壊しつつある革命の重要な一歩です。情報を得ておくことは、このような自然主義に、教会の真の教えをもって対抗する準備をすることです。

シノドスは、教会における伝統的なものです。一つの州や国の司教たちによる集会であって、定期的に必要な規律の改革を検討するためのものです。しかし、今回は、「シノダリティーに関するシノドス」であるため、これまでとは異なります。教皇フランシスコは、教会は今やシノドスの教会であると主張しています。彼がこのことで言わんとしているのは、教会は民主的であり、聖ペトロの岩の上にではなく人民の上に創立され、上から下ってくるのではなく下から上がっていくものだということです。これは、フランス革命の原則、すなわち自由、博愛、平等を、教会に適用したことの最終的な結果です。教会に何を求めるかを決めるのは人民であり、永遠の救いを得るために何を信じ、何をすべきかを私たちに教えるのは、もはや教会の位階階級ではない、ということです。

革命的方法

第一に、今回のシノドスは、実際のところは司教のシノドスではありません。なぜなら、投票権を持つ364人のメンバーのうち、50人以上が女性、70人以上が平信徒であり、言うまでもなく司祭もいて、その中には同性愛推進派のジェームズ・マーティン神父もいます。

第二に、私たちは教会を変革するために使用される方法に注目しなければなりません。これは、これまでの段階的な会議と討議の後に作成され、2023年6月20日に発表された作業文書の中で説明されています。それは「討議要綱」(Instrumentum laboris)という名称です。同文書は、シノドスの教会とは何かについて明確な定義を与えることを拒んではいますが、その特徴、すなわち、「真の共同責任」を生み出す「洗礼に由来する共通の尊厳を認識することの上に、シノドスの教会が打ち立てられているという意識」(20条)を述べています。それは、権威が教える教会ではなく、経験を分かち合って対話によって学ぶという聴従の教会です。その結果、従来のカトリック教会とは完全に逆の姿となります。シノドスの目的は、教会についてのこの新しい民主的な考え方を、教会のすべての活動に浸透させていくことであり、「洗礼による共通の尊厳および宣教のための共同責任が肯定されるだけでなく、行使され、実践される空間を構成するように、制度、構造、手続きにおいてもますますシノドス的な教会」(21条)を作ることとされます。そのとき、位階階級、そして上から教えや規律を押しつける権威は、過去のものとなります。

このことを正当化するために、この作業文書は「信仰の感覚」(sensus fidei)について言及しています。「信仰の感覚」とは、伝統的には、信仰についての真にして超自然の意味と理解と解されています。真の「信仰の感覚」(sensus fidei)は、教える権威すなわち教導権から来るのですが、しかし、この理解はそうではなく、自分が何を信じたいかというすべての人の個人的な考えから来るものとされます。このことは、「洗礼によってキリスト信者は信仰の感覚を持つ」という断言によって、偽りの正当化がなされています。

正しい心構えをもって有効で合法的に受けた洗礼ならば、注入された信仰の徳が与えられるのは確実だというのは正しいことです。しかし、このことは、洗礼を受けた人が、全てカトリック信者として考えるということを保証したり、また、信仰を守ること、ましてや信仰が私たちカトリック信者に教え求めていることの自覚を保証したりするものではまったくありません。さらには、おそらく有効に洗礼を受けたであろうプロテスタント信者で、真の信仰をまったく持っていない者も、何百万人もいるでしょう。しかし、作業文書は次のように断言しています。「一つの洗礼を通して、すべてのキリスト信者は、『信仰の感覚』(sensus fidei)にあずかっています。この理由で、シノドスの教会では、すべての洗礼を受けた人には、注意深く耳を傾けなければなりません」(ワークシートB 1.4)。

教会の教導権の教える権威を実質的に否定していることに、誤謬があります。この理論によれば、洗礼を受けたすべての人々は不可謬であり、自分の望むことを信じることができることになります。これは、真理が客観的で不変であると断言する人にとっては明白な矛盾です。教会は自らの教えが不可謬であることを明確に定義しています。第一バチカン公会議で定義された(Db1839)【デンツィンガーの旧版の番号】ように、能動的な不可謬性はキリストの代理人である教皇にのみ属し、教皇はそれによって信仰や道徳に関する教義を不可謬的に定義します。しかし、信者の受動的な不可謬性もあり、それは能動的な不可謬性の結果です。教会の教導権の教えに同意する限りにおいて、信者は間違うことはあり得ません。これこそが、真の「信仰の感覚」(sensus fidei)であり、忠実なカトリック信者だけが持つものなのです。それは、他の多くのものの中でもとりわけ、ご聖体への愛、ミサへの愛、童貞聖マリアへの愛、天主の審判への恐れ、煉獄のあわれな霊魂のために祈ろうという望みを彼らに与えます。

注意していただきたいのは、この信仰の真の理解とは、人の個人的な考えに従うのではなく、教会の教えに服従するということです。誰であっても、教会の教導権への従順を撤回した途端に実際にそうなるように、自分自身の個人的な確信において必ずや間違いを犯し得るのです。洗礼は、このこと【間違いを犯し得ること】に対抗する保証にはなりません。特に、真の信仰を持っていない異端者から洗礼を受ける場合いはそうです。このような純粋に人間的な、そしてしばしば誤った、宗教問題に関する個人的な考えを、信仰の感覚(sense of Faith)と呼ぶのは全くの茶番であり、直ちに真の信仰の喪失へと至らせます。

エキュメニズム

このことによる結果があります。プロテスタント信者も洗礼を受けています。それゆえ、シノドスの教会によれば、彼らにもまた、カトリック信者と同様に耳を傾けなければなりません。なぜなら、教会とその教える権威を拒否しているという事実にもかかわらず、彼らもまた信仰の感覚を持っていることになるからです。このことは明確に述べられています。「エキュメニカルな旅を深めたいという深い願望もまた現れます。真正なシノドスの教会は、一つの洗礼を共にするすべての人々を巻き込まずにはおきません」(24条)。このカトリック信仰との明白な矛盾は、この作業文書が常に助長しているエキュメニズムの基礎です。なぜなら、シノドスの教会は、まるで教会がこれまで「教会の外に救いなし」と定義したことがなかったかのように、必然的にエキュメニカルな教会であろうとするからです。

ピオ十一世は、1928年にエキュメニズムを断罪した回勅の中で、明確にこう教えました。「そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。…教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、『教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない』と言っています」(「モルタリウム・アニモス」[Mortalium animos]9条)。

【参考】
回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」 真実の宗教の一致について(ここでは10条から12条まで)

近代主義

注意していただきたいのは、すべての人の信仰体験を良しと断言する、この誤ったエキュメニカルな考えの根源は、信仰が主観的であると考えることにあります。すなわちこれによると、信仰は個々の人に依存し、人によって変わる、ということです。これは近代主義の主要な誤謬であって、1907年に聖ピオ十世によって断罪されているものです。すなわち、近代主義によると、信仰は各人に内在するものであって、すべての人が持たなければならない客観的な真理ではない、ということになります。これは、信仰とは、外部の源泉から来るものではなく、人の個人的な意識から来る経験だということを意味します。それによると、天主の啓示とは結果的に私たちの内で進行しているものとなります。従って、信仰は内在性を介して私たちの内に生じ、私たち自身の思考として私たちの心の中に湧き上がるものだと、彼らは断言します。そうなると、キリストが教会を通して私たちに信仰を教えるのではなくなります。これが、シノドスの教会に信仰の感覚を適用する根源となる概念です。すべてのさまざまな信仰の信条と経験を受け入れ、歓迎しなければならなくなるのです。

聖ピオ十世は、真理それ自体を破壊するこの考えを、次のように断罪しました。「すべての宗教の基礎であり土台である信仰は、天主的なものを必要とする衝動に由来する感情から成り立っている。この天主的なものの必要は、特別で、ふさわしい状況においてのみ経験されるものであり、それ自体は意識の領域に最初に潜んでいる。言い換えると、近代哲学の言葉を借りれば、潜在意識の中にあり、そこに、信仰の根が隠れ、気づかれないままで存在している」(7番)。このような主観的な感情こそが、シノドスが共有するとされている、いわゆる「信仰の感覚」(sensus fidei)の基礎であり、これが超自然的に啓示されたカトリック信仰を破壊しようとしているのです。天主の啓示はもはや、トリエント公会議が定義したような聖書と聖伝という二つの源泉を持っておらず、その代わりに洗礼を受けた者の心の中に見いだされるとされているからです。

結果

しかし、カトリック信仰によるこのような明確な教えにもかかわらず、このワークシートは、カトリック信者と異端者の間の会話における平等を提案し、混宗婚は信仰にとって危険であるとして教会によって常に禁止されてきたにもかかわらず、混宗婚を奨励さえしています。

非カトリック信者も同様に、唯一の真の信仰を受け入れることを拒否しているにもかかわらず、信仰の証人である殉教者になることができると考えられています。以下はワークシートの文章です。「シノダリティーとエキュメニズムは、より良いキリスト信者の証しという共通の目標を持って、共に歩む二つの道です。これは、【異なる】教会間の結婚や、殉教のエキュメニズムでキリストへの信仰の証しとして命を捧げるという究極の行為によることを含め、さまざまなレベルでの『生活のエキュメニズム』の共存の形を取ることができます」(B 1.4)。この重大な無関心主義は、唯一の真の教会によって教えられたままの信仰の破壊、つまり、私たちの主イエズス・キリストへの真の信仰の破壊です。

この作業文書にあるその他の誤謬は、結果として生じたものです。最悪の誤謬は、聖なる叙階に関するものです。プロテスタントと同様、この文書は、一般の平信徒の司祭職が、叙階された司祭職と同等の重要性を持つものとして提示されています。その結果、教会全体に対する責任や、教会で教え統治する権利を与えるのは洗礼であり、もはや聖なる叙階ではありません。教会は、聖なる叙階の秘跡を受けることができるのは男性だけであると不可謬的に教えているにもかかわらず、女性は、同等の権威を持つことになり、さらには助祭に叙階されることになるとされています。司祭はもはや天主の人ではなく、他の人と同じ人であるとみなされているため、司祭の結婚は許可されることになるのです。

このシノドスのプロセスでは、誰も、公の大罪を犯した人さえも排除しないような包括的な精神が、同性愛者やトランスジェンダーの場合のように、性的倒錯への開放へと至ります。これもまた、客観的な道徳の破壊がもたらした結果です。質問形式ではありますが、この宣言は非常に明確です。

「シノドス後の使徒的勧告『愛のよろこび』(Amoris Laetitia)に照らして、地位や性的指向のゆえに教会から排除されていると感じている人々(例えば、再婚した離婚者、一夫多妻の婚姻状態にある人々、LGBTQ+の人々など)を歓迎するために、どのような具体的な段階が必要だろうか?」(ワークシートB.1.2§6)。大罪の状態にあって、秘跡から排除され、永遠の滅びの火に入る公の罪人に対して、誰ももはや、回心して、不道徳な生活習慣というつまずきを終わらせ、天主の掟を守るように言うことはできなくなるのです。このような大罪の状態にある霊魂をそのままにしておくとは、何という"愛徳"でしょうか!また、教会が回心なしで彼らを受け入れるとは、何という悪しき模範でしょうか!

この文書を読むと、福音に従った真の教会改革には関心がなく、むしろ現代の世俗世界の天主を認めない人文主義的な原則を受け入れていて、環境、少数民族の文化の保護、社会正義、貧困者や移住者の解放、そして純粋に自然なレベルでの他の懸念されることに焦点を当てていることが分かります。しかし、永遠の救いという一大事についてはどうでしょうか、そのために教会が創立されたというのに。このシノドスは、教会の超自然の使命を裏切るものとならざるを得ません。しかし、その使命のために、天主は人となられ、私たちの罪のせいで死なれたのです。ですから、私たちは、カトリック聖伝への愛着を堅持するとともに、自分自身の高位聖職者によってひどく苦しめられている教会のために償いの祈りを捧げましょう。

ピーター・R・スコット神父


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