幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(3)
ドモルネ神父 2023年9月24日
はじめに
今日は、前の2回の説教に引き続き、幼きイエズスの聖テレジアの聖性への道についての教え、一般に聖テレジアの「小さき道」として知られているものについて、もう一度お話ししたいと思います。1回目は、私たちに対する天主のあわれみ深い愛についてお話ししました。聖パウロはこう言っています。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」(エフェゾ2章4-5節)。2回目は、天主のあわれみ深い愛に対する私たちの信仰の結果、すなわち、天主を愛したいという望みについてお話しました。聖ヨハネはこう言っています。「だから、私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一書4章19節)。今日私は、天主を愛したいという望みが私たちを成長へと導く心構えについて話そうと思います。これらの心構えは、謙遜と天主の愛への信頼です。
1.謙遜
天主は、あわれみ深い愛で私たちを愛してくださいます。このことは、私たちに対する天主の愛は、私たちの小ささと弱さによって動かされている、という意味です。私たちが小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、天主のあわれみ深い愛を引き寄せるのです。このことに驚いてはなりません。なぜなら、人間同士でも、同じことが起きているからです。子どもは、小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、親から多くの注目と保護と愛を受けます。天主は聖書の中で、この現実についてこう述べておられます。「小さい者は誰でも、私のもとに来させよ」(箴言9章4節)。「あなたたちは胸に抱かれ、膝の上にのせてなでられる。母親がその子をなでるように、私もあなたたちを慰める」(イザヤ66章12-13節)。
ですから、天主の愛から恩恵を受けたいのならば、私たちは小さな者となり、自分の小ささを喜ばなければなりません。このことは、私たちが天主に完全に依存する弱い被造物、自分では何も持っていないみじめな被造物、自分では何もできない無力な被造物であることを喜ばなければならない、という意味です。私たちが霊的に小さければ小さいほど、天主のあわれみ深い愛を受ける権利は大きくなります。逆に、私たちが自分の力に頼って力強く自立したふりをすればするほど、天主のあわれみ深い愛を受ける権利は小さくなります。小さな子どもたちのことを考えてみましょう。小さな子どもは、その小ささのおかげで、母親の腕の中に横たわる特権を持っています。しかし、子どもが成長するにつれて、つまり小ささを失うにつれて、その特権は失われていきます。私たちも同じです。自分が小さいとかみじめだという感情から逃れることは、天主の愛から逃れることを意味するのです。
したがって、天主の愛から恩恵を受けるためには、私たちの努力が、自分の小ささを考えること、自分の小ささを素直に告白すること、自分の小ささを平和的に喜ぶことでなければなりません。なぜ、これが努力なのでしょうか。なぜなら、私たちは非常に高慢だからです。私たちは、自分自身の力によって、何らかの方法で強くなりたいのです。私たちは、天主のあわれみの対象にはなりたくないのです。原罪以来、ルチフェルの「non-serviam」、つまり「私は仕えない」という言葉が、私たちの霊魂の奥深くにこだましているのです。これこそが、聖ヨハネの言う「生活のおごり」(ヨハネ第一書2章16節)なのです。私たちが聖性のために努力しているときでさえ、ほとんど無意識のうちに、偉大な者になりたいという密かな望みを抱いています。高慢に根差したそのような望みは、私たちの霊魂に注がれる天主の愛を、直ちに枯渇させてしまうのです。
具体的に言えば、日常生活において、私たちは、自分の小ささによって、天主のあわれみ深い愛を、どのようにして引き出すことができるでしょうか。自分の無力さ、失敗、不完全さ、罪による自分の小ささを、私たちが目の当たりにするたびに、平安のうちに天主に立ち返り、信頼をもって天主に身を委ねることによってです。自分に腹を立てないでください、動揺しないでください、落胆しないでください。これらの態度はすべて、高慢に根差しています。このテーマで私たちの手本である、小さな子どもたちのことを考えてみましょう。自分の小ささが理由で何かを成し遂げられないとき、小さな子どもならどうするでしょうか。ただお父さんのところに駆けて行き、自分の代わりにそれをしてくれるよう、お父さんにお願いするのです。私たちも同じようにしましょう。自分の限界と弱さを静かに認めましょう。そして、信頼を持って、天の御父に助けを求めましょう。
同じように、私たちは、否定的な判断、軽蔑、不正、忘却、その他私たちを辱めるものの犠牲となるたびに、平安のうちに天主に立ち返り、天主の愛を信頼し、天主に身を委ねる必要があります。このような状況は、実際には、自分の小ささを深く自覚するのにとても役立ちます。ですから、他人に腹を立てたり、動揺したり、悲しみに打ちひしがれたりしないでください。ここでもう一度、私たちの手本である小さな子どもたちのことを考えてみましょう。小さな子どもたちが悲しみを抱いたときに何をするかを見たことがありますか。泣くことも、文句を言うことさえもせず、母親のところに行って腕の中に抱かれます。母親の愛に触れながら、母親の胸の上でしばらく休みます。次に、こうして慰めを受けてから、自分の活動に戻っていくのです。私たちは、試練に直面するたびに、天の御父に対して、このようにしなければならないのです。イエズスは、福音の中でこう言われなかったでしょうか。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11章28節)。
要するに、天主を愛したいという望みは、私たちが天主の愛でこれまで以上に満たされるようになるために、小さくなるように、ますます小さくなるように駆り立てるのです。
2.信頼
私たちが述べたことから、皆さんはすでにお分かりだと思いますが、自分の小ささの自覚を育むことは、天主のあわれみ深い愛への限りない信頼を育むことと常に密接に結びついているのです。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「聖性とは、心構えにあります。すなわち、天主の腕の中でへりくだって小さくなり、自分の弱さを自覚し、天主の父としてのやさしさを大胆に確信することにあります」。謙遜は、私たちを自分自身から遠ざけ、信頼は、私たちを天の御父の腕の中に投げ出させます。私たちは自分では無ですが、天主は無限の存在であり、私たちは弱いですが、天主は全能であり、私たちにはすべての完徳が欠如していますが、天主にはそのすべてがあります。そして天主は私たちを愛しておられます。私たちが天主に自分の霊魂に入っていただく限り、天主はその力と完徳をもって、私たちに自らを与えたいと望まれます。ですから、まさに私たちの弱さが、私たちを力ある者としているのです。これで、そしてこれだけで、たとえば殉教者たちが、ひどい拷問を受けたにもかかわらず、忠実であり続けることができた理由を説明することができます。
これまで説明してきたように、私たちの小ささを愛するという謙遜は、決して私たちを臆病にさせるものではありません。なぜなら、謙遜に伴うものは天主のあわれみ深い愛への信頼であり、この信頼があるからこそ、天主が私たちに求められるどのような使命であっても成し遂げることができるのですから。こういうわけで、聖パウロは、ローマ人にこう書き送ったのです。「誰がキリストの愛から私たちを離れさせ得よう。……死も、命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエズスにある天主の愛から、私たちを離せないのだと、私は確信する」(ローマ8章35-39節)。
聖テレジアは自叙伝の中で、謙遜と天主への信頼が、いかに最も困難な任務を成し遂げることを可能にするかを示す話を語っています。修道院では、修練女を修道生活で訓練し、霊的生活で指導する修練長の役割が非常に重要です。修道院の将来は、修練女たちの適切な養成によって、ですから修練長によって、大きく左右されます。修練長の役割を適切に果たすためには、多くの思慮深さ、識別力、愛徳が必要です。しかし、テレジアがまだ22歳であったとき、カルメル会の長上は彼女を副修練長に任命しました。それについて、聖テレジアは次のように書いています。「人々の至聖所の奥深く分け入るようになりましたとき、私はすぐに、これが自分の力に余る務めだとわかりました。そこで私は小さい子どものように、天主さまの腕の中に身を寄せ、私の顔をその髪の毛の中にうずめて言いました。『主よ、私はあなたの子どもたちを養うにはあまりに小さすぎます。もしも私を通して一人ひとりに適したものを与えようとなさるならば、どうぞ私の小さい手をいっぱいに満たしてください。そうすれば私はあなたのみ腕の中にとどまったまま、頭さえふり向けずに、私のところへ糧を求めに来るものにあなたの宝を与えましょう』。……事実、私の期待は決して裏切られませんでした。修練女たちを養う必要のあるたびに、天主さまは私の小さい手をいっぱいにしてくださいました」(原稿C 第二部)。
こうして聖テレジアは、謙遜と天主への信頼に満たされて、自らの小ささによって、非常に困難な任務を見事に果たすことができたのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、結論はいたって簡単です。私たちが天主を愛したいならば、幼きイエズスの聖テレジアが教えてくれたように、謙遜を実践し、天主のあわれみ深い愛に信頼を置きましょう。