幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(2)
ドモルネ神父 2023年9月17日
はじめに
先週の主日に、私たちが持たなければならない信仰、私たちに対する天主のあわれみ深い愛への信仰についてお話ししました。聖パウロはエフェゾ人にこう語っています。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、キリストの恩寵によってあなたたちは救われた」(エフェゾ2章4-5節)。また、聖ヨハネはこう言っています。「私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪の贖いのために遣わされたこと、ここに愛がある」(ヨハネ第一書4章10節)。「私たちは、私たちに対して持っておられる天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一書4章16節)。天主のあわれみ深い愛への信仰を持つということは、天主が私たちを愛してくださるのは、私たちが小さく弱いからだということを理解することを意味します。
今日は、天主のあわれみ深い愛への信仰の効果、すなわち、天主を愛したいという望みについて考えてみましょう。「だから、私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一書4章19節)。
1.天主のあわれみ深い愛への答えである愛する望み
「私は天主に愛されている、限りなく愛されている、あわれみ深く愛されている、みじめな私、私のみじめさのゆえに」と、私たちが、深い信仰をもって心から自分に言い聞かせるとき、私たちの心に何が起こるでしょうか。私たちは、変容させていただくために、自分のありのままに、すべてのみじめさをもって、このあわれみ深い愛に身を委ねようと、心を動かされるのです。言い換えれば、天主のあわれみ深い愛に対する信仰は、私たちの心に、天主を愛したいという望みを起こさせるのです。
天主が、そのあわれみ深い愛を私たちに啓示されたのは、まさにこの目的のため、つまり、私たちの心に、天主を愛したいという望みを起こさせるためなのです。私たちがこの望みを持たない限り、天主は、ご自身を私たちに与えることはおできになりません。それはなぜでしょうか。なぜなら、天主は愛だからです。私たちが天主を愛さない限り、天主は、私たちを、ご自分の命にあずからせることはおできになりません。天主は、ご自身を私たちに与えたいという大いなる望みをお持ちであるため、愛されたいと渇いておられるのです。天主がまず私たちの心に起こされるのは、天主を愛したいという望みなのです。
福音のサマリアの女の話に、この真理の実例があります。私たちがこれまで述べてきたことに照らして、この話を読むと、次のようになります。イエズスは、サマリアの女に対して、「水を飲ませてください」(ヨハネ4章7節)と願われました。この言葉は、「あなたの愛をください」という意味です。サマリアの女は、「あなたはユダヤ人なのに、サマリアの女の私に飲ませてくれと言うのですか」と答えました。この言葉は、「いとも聖なる天主であるあなたが、罪人であり、弱くて、すべてが欠如している私に、愛を願われるのですか」という意味です。イエズスは、こう答えられました。「あなたが天主の賜物を知っていて、『飲ませてください』と言っている人が誰かを知ったら、自分の方からそうさせてくださいと頼んだに違いない。そして、あなたは生きる水を受けたことだろう」。この言葉は、「あなたに対する天主のあわれみ深い愛を知っていたなら、あなたは『あなたの愛をください!』と言っていただろう。そうすれば私は、私の愛をあなたの心に注ぎ込んでいただろう」という意味です。そこで、最後にサマリアの女は、熱心にこうお願いしました。「主よ、その水をください」。この言葉は、「あなたの愛をください!」という意味です。イエズスは、サマリアの女の心に、天主を愛したいという望みを起こさせ、この望みが起こると、イエズスは女を聖化されました。
そして、それは私たちも同じです。私たちに対する天主のあわれみ深い愛を信じ、謙遜と信頼をもって天主のもとに行き、こう言いましょう。「私にあなたを愛させてください! 私は小さくて、弱く、罪人であり、天主への愛とすべての徳が欠如しています。でも、私はあなたを愛したいのです。私にあなたを愛させてください!」。誰もが、例外なく、どんなに大いなる罪人であっても、天主を愛したいという望みを持つことができるのです。
2.聖性の原則である愛する望み
愛したいという望みは、聖性の始まりであり、聖性への手段であり、聖性そのものです。説明しましょう。
・愛したいという望みは、聖性の始まりです。実際、聖性とは、天主を完全に愛することにあります。「すべての心、すべての霊、すべての精神をあげて、主なる天主を愛せよ。…隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37節)。
・愛したいという望みは、聖性への手段です。幼きイエズスの聖テレジアは、ある日、お姉さんにこう言いました。「あなたは私に完徳への道を尋ねます。私が知っているのはただ一つのこと、愛です」。この愛したいという望みが天主を引き付けるのは、その望みが謙遜と信頼でできているからです。謙遜、それは私たちが自分の小ささと弱さを認めることだからです。信頼、それはあわれみ深い天主が、私たちの心に起こされた望みをかなえてくださることを、私たちが確信するからです。
愛したいという望みが聖性への手段であるのは、天主に対する私たちの愛を証明したいという衝動を、私たちの心に起こさせるからでもあります。私たちが、天主を愛したいという望みを自分の心に起こせば、この望みは私たちの自己中心性を取り除き、絶えず天主に心を向け、天主の愛のためにあらゆることを行うように促します。天主を愛したいという真摯な望みは、漠然とした効果のない感情ではなく、自分の愛を表現するための行動を起こす動機となります。この現実を表すために、聖テレジアは、「イエズスに花を投げる」という美しい表現を使っています。この表現の起源はこうです。聖テレジアのカルメル会修道院では、6月の夕方になると、修練者たちが庭でバラの花びらを集め、そのあと回廊の中央に置かれた大きな十字架のふもとに集まって、十字架上のイエズスに向かって花びらを投げるのです。この子どものように素朴なしぐさによって、修練者たちは私たちの主への愛を表現しました。
聖テレジアは自叙伝の中で、この習慣をほのめかしながら、イエズスを愛したいという望みをどのように表現するかについて、イエズスに語っています。「そうです。最愛の方よ、私の生涯はこのようにして燃え尽きるでしょう……。あなたに私の愛を明かすために、私は花びらを投げるよりほかありません。つまりどんなに小さな犠牲も、一つのまなざし、一つの言葉も逃さずに、もっとも小さいことまでも皆利用して、愛によって行うことです。……愛によって苦しみ、また楽しむことさえ愛によってしたい……。こうしてあなたの玉座の前に花びらを投げましょう。出会った花の一つでも、あなたのためにむしらずにはおきません。……そうして花びらを投げながら歌いましょう(これほどうれしい行いをしながら、泣くことなどできるでしょうか?)。たとえ茨の中に花を摘まなければならないときでも、私は歌いましょう……。茨の刺(とげ)が長くて、鋭ければ鋭いほど、私の歌はますます美しい調べになるでしょう。イエズスさま、私の花や歌があなたに何の役に立ちましょう? 私はよく知っています。この香る雨、このか弱い何の値打ちもない花びら、人々の心の中でもっとも小さい心が歌うこの愛の歌が、あなたの心を魅了することを……」。
・最後に、愛したいという望みは、聖性そのものです。なぜなら、私たちが天主を愛したいと望めば望むほど、天主は私たちに、さらにご自身を与えてくださいます。そして、天主が私たちにご自身をお与えになればなるほど、私たちの愛したいという望みは、さらに高まるのです。ですから、愛したいという望みは、最後には永遠の幸福にまで昇っていく渦の中に霊魂を引き込んでいくのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、満たさなければならない二つの渇きがあります。それは、天主の渇きと私たちの渇きです。一方には、ご自身を与え、それゆえに愛されたいという天主の渇きがあり、他方には、愛によって満たされたい、所有されたい、変容されたいという人間の愛への渇きがあります。一方には、サマリアの女に「私の水を飲みなさい」と言われたイエズスの渇きがあり、他方には、イエズスに「主よ、その水をください」と言ったサマリアの女の渇きがあります。一方には、十字架上で「私は渇いている!」、つまり「私は愛に渇いている」と言われたイエズスの渇きがあり、他方には、「主よ、あなたが御国に行かれるとき、私を思い出してください」(ルカ23章42節)と言った良き盗賊の渇きがあります。これらの二つの渇きが出会うことで、私たちの聖性が生み出されるのです。サマリアの女は聖化され、良き盗賊もそうでした。そして私たちも、彼らの模範に倣うなら、そうなるでしょう。誰でも聖人になることができるのです。なぜなら、誰でも天主を愛したいという望みを持つことができるのですから。