アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
1月15日に大阪で行った聖伝のミサ(最初の隠遁者証聖者 聖パウロ)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2016年1月15日 金曜日 最初の隠遁者証聖者 聖パウロ(歌ミサ)
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月15日、最初の隠遁者聖パウロの祝日です。
今日このミサの後に、いつも新年に行っている、踏み絵に対して行われた罪の償いの式をする事を提案します。どうぞ皆さん、踏み絵に愛の接吻をなさって下さい。
“Confiteor tibi, Pater ,Domine coeli et terrae,quia revelasti ea parvulis.
Abscondisti prudentibus et sapientibus et revelasti ea parvulis.”
「天と地の聖父よ、私は御身に感謝します。何故ならば、あなたはこの事を、知恵ある者や世の賢い者には隠し、小さな者たちに教えて下さったからです。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、御自分の福音、御自分の教えは、「小さな者たちに表されたものだ」という事を仰っています。この福音の、一番のイエズス様の福音に倣おうと、イエズス様に倣おうと、多くの聖人たちが努力してきました。例えば今日の聖パウロは隠遁者となって、砂漠でたった一人で、113歳になるまで、お祈りと、苦行と、断食の生活をして、イエズス様に倣おうとしてきました。
ところで、イエズス様に倣う為の、一番の、イエズス様に近付く為の一番の近道があります。それは、マリア様です。マリア様に倣う事です。「マリア様を愛する、マリア様を敬う」という事の一番のやり方があります。それは、「イエズス様の聖心を私たちが頂く」という事です。
では、今日は、「イエズス様の聖心をいただく」という事は、一体結局何を意味するのか?イエズス様の聖心を頂いて、マリア様を愛する、という事はどうしたら良いのか?第3番目に、イエズス様の聖心を頂いてマリア様を愛する、という事をすると、どんな、どんな変化が私たちに起こるのか?色々、色々な事が起こるかもしれませんけれども、特に今日はその2つをみて、最後に、私たちは何か遷善の決心を立てる事に致しましょう。
では、マリア様の、マリア様を愛する、という事がよくできる為に、イエズス様の聖心を頂く、という事はどういう事でしょうか?これは、すなわち、「イエズス様の心を心とする」「イエズス・キリストを着る」「イエズス・キリストが私たちに於いて生きている。もはや生きるのは私ではなく、キリストが生きる」というその事なのです。イエズス様が一番大切にして、イエズス様が一番心にして、イエズス様が一番一生涯をかけて、その最も多くの時間をかけてやろうとした事を、私たちもする、イエズス様のやっていたその通りを、私たちもする、という事です。これが、イエズス様の心を頂いて、マリア様を愛する、という事です。つまり、「キリストにますます一致する」「イエズス様と瓜二つになる」「イエズス様化する」という意味です。
では、イエズス様の心を頂いてマリア様を愛して、イエズス様のようにますますなるには、どうしたら良いのでしょうか?
これは、特別の御恵みなのです。これは、知恵ある者や賢い学者たちには隠されていて、小さな者にのみ与えられる、特別の御恵みです。
でも、イエズス様はこれを望んでいます。私たちがイエズス様の真似をする事を望んでいます。ですから、このお恵みを私たちは求めなければなりません。祈って求めなければなりません。何故かというと、イエズス様はそれを望んでいるからです、「祈れ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」
私たちは、「イエズス様の心を下さい」と、いつも、毎日、頼まなければなりません。
もしも私たちが、「きっとイエズス様は、そういう事を頼んでも、もしかしたらくれないかもしれない。」という事は、それはイエズス様はとても悲しく思われる事です。何故かというと、イエズス様は私たちが同じ心を持つ事を望んでおられるからです。
ですから、私たちは毎日お祈りしなければなりません。特に勧められているのが、御聖体拝領の時に、イエズス様を私たちが受けた時に、その時こそ、「チャンスだ。」と、狙って、「私たちの心にイエズス様の心が来ますように。イエズスス様の心を以って、私たちがマリア様を愛する事ができるように。」と、祈る事です。毎日の黙想の時にも、マリア様を愛する心を、イエズス様に乞い願う事です。
では第3に、もしもそういう風に、イエズス様にお願いして、イエズス様の心を私たちのものとしたら、私たちにはどんな変化が起こるでしょうか?
イエズス様の御生涯をよくみると、特に2つの点が輝いています。1つは、「イエズス様がマリア様に対して従順であった」という事です。マリア様に必ず従っていて、マリア様に依存していた、という事です。他の言葉で言うと、「マリア様に自分を委ねていた、預けていた、奉献していた。」「イエズス様は、マリア様のものと全くなりきっていた」という事です。福音の中には、それが3つのラテン語の言葉で書かれています、「“erat subditus illis.”《イエズス様は、彼らに、服従していた》」30年間、マリア様とヨゼフ様に服従していた、という事です。
ベトレヘムでお生まれになる時にも、エジプトに逃げて、連れて行かれて逃げて行く時にも、或いはまた、エルサレムの神殿に奉献される時にも、毎年エルサレムに登る時にも、ナザレトに行かれる時にも、いつでもイエズス様は従順でした。イエズス様は、マリア様に従順である、という事を非常に喜びとして来ました。マリア様から、「イエズスや、こうしてなさい。」と、言われた時に、「はい。」と、答えて、マリア様のお望みの通りしようとした時の、イエズス様の喜びはどれほど大きかった事でしょうか。マリア様をお喜ばせる事ができる、というのは、イエズス様にとってどれほどの慰めだったでしょうか。
イエズス様は、マリア様のお話しをよく聞いて、マリア様の言葉を、マリア様の望みを、全て叶えようといつも思っていました。小さな時から、30歳になるまで、宣教の生活を始める時まで、いつもそうでした。マリア様がイエズス様をとても尊敬するので、イエズス様もマリア様を、マリア様に倣って尊敬していました。イエズス様の話し口調、或いは行動は、マリア様そっくりでした。
マリア様は、イエズス様がそうやって従順でなさるのを見て、その天主様の神秘、御謙遜を讃美しながら、もちろん、大きな喜びと感動と、至福の感情に満ちていたに違いありません。イエズス様が、ほんの小さなことでも、マリア様の望みを叶えてくれるのを見ると、助けてくれるのを見ると、マリア様は、どれほど大きな喜びを感じた事でしょうか。
これが、イエズス様がなさった従順です。これが、イエズス様がいつも心の中に持っていた、従順の心です。イエズス様は私たちに、その心を与えようとしております、「いつもマリア様を喜ばせたい、マリア様に従順でありたい」という心を私たちに下さいます。
第2に、イエズス様は、マリア様に特別の崇敬と、尊敬の念を持っていました。もちろん、マリア様は、イエズス様のお母様で、天主聖父の代理者であるからもちろんですけれども、マリア様にイエズス様は、特別の尊敬の念として、特別の特権も与えられました。無原罪の御孕り、全ての不完全から逃れていた事、或いは被昇天、或いはマリア様の、マリア様がいつもイエズス様の側に居て、マリア様と共に、イエズス様の贖いの業をする、という特権、等々。
マリア様は、聖エリザベトに、「我が魂は主を崇め、我が霊魂は主を仰ぎ奉る。全ての世の人々は、世々代々、私を幸せな者と呼ぶ事でしょう。」と、予言されました。この予言は現実になっています。イエズス様の聖名によって、イエズス様の御前に於いて、カトリック教会は、マリア様を讃えて尊敬し、イエズス様の心を以って、イエズス様の神秘体として、マリア様をできるだけ讃えようとしています。
では、私たちは、どうしたら、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私たちは2つあります。
まず1つは、イエズス様の心を頂く事ができるように祈らなければなりません。これは超自然の御恵みだからです。
第2に、お祈りをして、超自然のお祈りをして、「超自然だからお祈りだけで良いんだ。知らない、あとは知らない。」のではなくて、その後に、イエズス様の心を以って、私たちもマリア様を、マリア様に従順であり、マリア様を尊敬するようにしなければなりません。イエズス様の真似をして、イエズス様の心を以って、マリア様に従順であるように。特に私たちが、日常の義務をマリア様に従順であるが為に、イエズス様の心を以って、果たす事ができるように。
私たちの日常の義務は、時々単純であったり、時々それほど華々しいものでなかったり、それほど、「何かこの世の為になるのかなぁ?」とも思われるような事だったり、或いは、本当の単純な手作業だったりします。或いは、辛い事だったり、或いは自分が受けた、自分から選んだものではない、与えられた十字架であったり、或いは、悪意から来る十字架や苦しみだったりするかもしれません。
しかし私たちは、そのような日常の義務と務めを、マリア様への従順を以って、お捧げ致しましょう。イエズス様の心により、従順である為に、お捧げ致しましょう。
また、その努力のもう1つは、マリア様を崇敬する事です。マリア様に、できるだけの敬意と、尊敬を払う事に致しましょう。マリア様をお愛しして、できる限り、私たちの力の及ぶ限り、マリア様が愛されて、マリア様が崇敬されるように、より多くの人が、マリア様を知り、愛し、崇敬する事ができるように、マリア様を尊ぶ事ができるように、努力致しましょう。お祈りと努力を致しましょう。マリア様を辱める、或いはマリア様を傷付けるような、悲しめる様な事をする人々に代わって、私たちがその罪の償いを致しましょう。そうする事によって、私たちはイエズス様の心をますます自分の心とする事ができます。そうする事によってますます、私たちが、「イエズス化」する事ができます。私たちはますます、イエズス様が最も生涯でなさりたかった、その時間を使った、そのものを実現する事ができます。
これこそが、マリア様が私たちに、こうやって私たちの中に於いて形成しようとしている、私たちによって実現を求めている事なのです。ますます私たちが、「イエズス様のようになる」という事です。
1月13日は、一昨日は、ファチマの日でした。ですから特に、ファチマのマリア様にお祈りして、イエズス様の心を私たちが頂いて、マリア様をお愛しする事ができるように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
1月15日に大阪で行った聖伝のミサ(最初の隠遁者証聖者 聖パウロ)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2016年1月15日 金曜日 最初の隠遁者証聖者 聖パウロ(歌ミサ)
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月15日、最初の隠遁者聖パウロの祝日です。
今日このミサの後に、いつも新年に行っている、踏み絵に対して行われた罪の償いの式をする事を提案します。どうぞ皆さん、踏み絵に愛の接吻をなさって下さい。
“Confiteor tibi, Pater ,Domine coeli et terrae,quia revelasti ea parvulis.
Abscondisti prudentibus et sapientibus et revelasti ea parvulis.”
「天と地の聖父よ、私は御身に感謝します。何故ならば、あなたはこの事を、知恵ある者や世の賢い者には隠し、小さな者たちに教えて下さったからです。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、御自分の福音、御自分の教えは、「小さな者たちに表されたものだ」という事を仰っています。この福音の、一番のイエズス様の福音に倣おうと、イエズス様に倣おうと、多くの聖人たちが努力してきました。例えば今日の聖パウロは隠遁者となって、砂漠でたった一人で、113歳になるまで、お祈りと、苦行と、断食の生活をして、イエズス様に倣おうとしてきました。
ところで、イエズス様に倣う為の、一番の、イエズス様に近付く為の一番の近道があります。それは、マリア様です。マリア様に倣う事です。「マリア様を愛する、マリア様を敬う」という事の一番のやり方があります。それは、「イエズス様の聖心を私たちが頂く」という事です。
では、今日は、「イエズス様の聖心をいただく」という事は、一体結局何を意味するのか?イエズス様の聖心を頂いて、マリア様を愛する、という事はどうしたら良いのか?第3番目に、イエズス様の聖心を頂いてマリア様を愛する、という事をすると、どんな、どんな変化が私たちに起こるのか?色々、色々な事が起こるかもしれませんけれども、特に今日はその2つをみて、最後に、私たちは何か遷善の決心を立てる事に致しましょう。
では、マリア様の、マリア様を愛する、という事がよくできる為に、イエズス様の聖心を頂く、という事はどういう事でしょうか?これは、すなわち、「イエズス様の心を心とする」「イエズス・キリストを着る」「イエズス・キリストが私たちに於いて生きている。もはや生きるのは私ではなく、キリストが生きる」というその事なのです。イエズス様が一番大切にして、イエズス様が一番心にして、イエズス様が一番一生涯をかけて、その最も多くの時間をかけてやろうとした事を、私たちもする、イエズス様のやっていたその通りを、私たちもする、という事です。これが、イエズス様の心を頂いて、マリア様を愛する、という事です。つまり、「キリストにますます一致する」「イエズス様と瓜二つになる」「イエズス様化する」という意味です。
では、イエズス様の心を頂いてマリア様を愛して、イエズス様のようにますますなるには、どうしたら良いのでしょうか?
これは、特別の御恵みなのです。これは、知恵ある者や賢い学者たちには隠されていて、小さな者にのみ与えられる、特別の御恵みです。
でも、イエズス様はこれを望んでいます。私たちがイエズス様の真似をする事を望んでいます。ですから、このお恵みを私たちは求めなければなりません。祈って求めなければなりません。何故かというと、イエズス様はそれを望んでいるからです、「祈れ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」
私たちは、「イエズス様の心を下さい」と、いつも、毎日、頼まなければなりません。
もしも私たちが、「きっとイエズス様は、そういう事を頼んでも、もしかしたらくれないかもしれない。」という事は、それはイエズス様はとても悲しく思われる事です。何故かというと、イエズス様は私たちが同じ心を持つ事を望んでおられるからです。
ですから、私たちは毎日お祈りしなければなりません。特に勧められているのが、御聖体拝領の時に、イエズス様を私たちが受けた時に、その時こそ、「チャンスだ。」と、狙って、「私たちの心にイエズス様の心が来ますように。イエズスス様の心を以って、私たちがマリア様を愛する事ができるように。」と、祈る事です。毎日の黙想の時にも、マリア様を愛する心を、イエズス様に乞い願う事です。
では第3に、もしもそういう風に、イエズス様にお願いして、イエズス様の心を私たちのものとしたら、私たちにはどんな変化が起こるでしょうか?
イエズス様の御生涯をよくみると、特に2つの点が輝いています。1つは、「イエズス様がマリア様に対して従順であった」という事です。マリア様に必ず従っていて、マリア様に依存していた、という事です。他の言葉で言うと、「マリア様に自分を委ねていた、預けていた、奉献していた。」「イエズス様は、マリア様のものと全くなりきっていた」という事です。福音の中には、それが3つのラテン語の言葉で書かれています、「“erat subditus illis.”《イエズス様は、彼らに、服従していた》」30年間、マリア様とヨゼフ様に服従していた、という事です。
ベトレヘムでお生まれになる時にも、エジプトに逃げて、連れて行かれて逃げて行く時にも、或いはまた、エルサレムの神殿に奉献される時にも、毎年エルサレムに登る時にも、ナザレトに行かれる時にも、いつでもイエズス様は従順でした。イエズス様は、マリア様に従順である、という事を非常に喜びとして来ました。マリア様から、「イエズスや、こうしてなさい。」と、言われた時に、「はい。」と、答えて、マリア様のお望みの通りしようとした時の、イエズス様の喜びはどれほど大きかった事でしょうか。マリア様をお喜ばせる事ができる、というのは、イエズス様にとってどれほどの慰めだったでしょうか。
イエズス様は、マリア様のお話しをよく聞いて、マリア様の言葉を、マリア様の望みを、全て叶えようといつも思っていました。小さな時から、30歳になるまで、宣教の生活を始める時まで、いつもそうでした。マリア様がイエズス様をとても尊敬するので、イエズス様もマリア様を、マリア様に倣って尊敬していました。イエズス様の話し口調、或いは行動は、マリア様そっくりでした。
マリア様は、イエズス様がそうやって従順でなさるのを見て、その天主様の神秘、御謙遜を讃美しながら、もちろん、大きな喜びと感動と、至福の感情に満ちていたに違いありません。イエズス様が、ほんの小さなことでも、マリア様の望みを叶えてくれるのを見ると、助けてくれるのを見ると、マリア様は、どれほど大きな喜びを感じた事でしょうか。
これが、イエズス様がなさった従順です。これが、イエズス様がいつも心の中に持っていた、従順の心です。イエズス様は私たちに、その心を与えようとしております、「いつもマリア様を喜ばせたい、マリア様に従順でありたい」という心を私たちに下さいます。
第2に、イエズス様は、マリア様に特別の崇敬と、尊敬の念を持っていました。もちろん、マリア様は、イエズス様のお母様で、天主聖父の代理者であるからもちろんですけれども、マリア様にイエズス様は、特別の尊敬の念として、特別の特権も与えられました。無原罪の御孕り、全ての不完全から逃れていた事、或いは被昇天、或いはマリア様の、マリア様がいつもイエズス様の側に居て、マリア様と共に、イエズス様の贖いの業をする、という特権、等々。
マリア様は、聖エリザベトに、「我が魂は主を崇め、我が霊魂は主を仰ぎ奉る。全ての世の人々は、世々代々、私を幸せな者と呼ぶ事でしょう。」と、予言されました。この予言は現実になっています。イエズス様の聖名によって、イエズス様の御前に於いて、カトリック教会は、マリア様を讃えて尊敬し、イエズス様の心を以って、イエズス様の神秘体として、マリア様をできるだけ讃えようとしています。
では、私たちは、どうしたら、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私たちは2つあります。
まず1つは、イエズス様の心を頂く事ができるように祈らなければなりません。これは超自然の御恵みだからです。
第2に、お祈りをして、超自然のお祈りをして、「超自然だからお祈りだけで良いんだ。知らない、あとは知らない。」のではなくて、その後に、イエズス様の心を以って、私たちもマリア様を、マリア様に従順であり、マリア様を尊敬するようにしなければなりません。イエズス様の真似をして、イエズス様の心を以って、マリア様に従順であるように。特に私たちが、日常の義務をマリア様に従順であるが為に、イエズス様の心を以って、果たす事ができるように。
私たちの日常の義務は、時々単純であったり、時々それほど華々しいものでなかったり、それほど、「何かこの世の為になるのかなぁ?」とも思われるような事だったり、或いは、本当の単純な手作業だったりします。或いは、辛い事だったり、或いは自分が受けた、自分から選んだものではない、与えられた十字架であったり、或いは、悪意から来る十字架や苦しみだったりするかもしれません。
しかし私たちは、そのような日常の義務と務めを、マリア様への従順を以って、お捧げ致しましょう。イエズス様の心により、従順である為に、お捧げ致しましょう。
また、その努力のもう1つは、マリア様を崇敬する事です。マリア様に、できるだけの敬意と、尊敬を払う事に致しましょう。マリア様をお愛しして、できる限り、私たちの力の及ぶ限り、マリア様が愛されて、マリア様が崇敬されるように、より多くの人が、マリア様を知り、愛し、崇敬する事ができるように、マリア様を尊ぶ事ができるように、努力致しましょう。お祈りと努力を致しましょう。マリア様を辱める、或いはマリア様を傷付けるような、悲しめる様な事をする人々に代わって、私たちがその罪の償いを致しましょう。そうする事によって、私たちはイエズス様の心をますます自分の心とする事ができます。そうする事によってますます、私たちが、「イエズス化」する事ができます。私たちはますます、イエズス様が最も生涯でなさりたかった、その時間を使った、そのものを実現する事ができます。
これこそが、マリア様が私たちに、こうやって私たちの中に於いて形成しようとしている、私たちによって実現を求めている事なのです。ますます私たちが、「イエズス様のようになる」という事です。
1月13日は、一昨日は、ファチマの日でした。ですから特に、ファチマのマリア様にお祈りして、イエズス様の心を私たちが頂いて、マリア様をお愛しする事ができるように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。