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命の掟、十戒。「第一戒について(第一部)」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が1月11日(月)にしてくださった、「第一戒について」についてのお説教をご紹介いたします。

 第2回目の11日は、「第一戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月11日―大阪 お説教「第一戒について(第一部)」

親愛なる兄弟の皆さん、

 私たちが前回見たのは、天主の掟が天国への道であること、また、この掟は本質的に、私たちの主イエズス・キリストに倣うことにあり、その命を生きることにあり、あるいはむしろ主が私たちのうちに生きておられ、私たちの中で主の徳を継続させてくださることにあるということです。永遠の命に到達するためには、十戒を守ることが必要です。しかし、十戒自体が「命の掟」なのです。

天主は生きているお方であり、すべての命の源です。さて、天主の命は動物の命、感覚的な命ではなく、むしろ至高の霊的な命です。天主の命は本質的には何でしょうか? 天主は純粋な霊、至高の知性と意志です。天主の命は、天主ご自身である至高の真理を知る命であり、また、これも天主ご自身であるまことの無限の善を愛する命です。天主の命は観想的な命です。天主は非常に偉大であるため、非常に完全であるため、被造物の知性では天主が何者であるかを適切に表現することができません。最も偉大な科学者でも、最も偉大な神学者でも、最も高貴なセラフィムやケルビムでさえ、天におられる童貞聖マリアでさえできないのです。天主のみが、ご自分が何者であるかを適切に言うことがおできになります。ですから、天主は永遠のみ言葉によって、ご自分が何者であるかを言われます。「初めにみ言葉があった、み言葉は天主と共にあった、み言葉は天主であった」(ヨハネ1章1節)。この天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」であると聖トマス・アクィナスは言います。御父と御子は共に、愛の霊、すべてのものを超えた天主の愛、天主のためのすべてのものの愛である聖霊を「呼吸する」のです。永遠において御父からそのみ言葉である御子が生まれ、御父と御子は共に共通の愛の霊、聖霊を呼吸するのです。これが天主の永遠の命なのです! それを見ることを許された聖人たちは、この最も驚くべき黙想において永遠に、うっとりとして心を奪われているのです! 「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」(ヨハネ第一3章2節)。

このように、イエズスが私たちのうちに生き始められるとき、主がなさる最初のことは私たちをして、完全に御父のために生きるように、天主の神殿として完全に天主のために生きるようにさせることです。ですから、これが第一戒なのです。天主は「アルファでありオメガであり、最初の者であり最後の者であり、初めであり終わりである」(黙示録22章13節)。天主は私たちの生活において第一の場所に値するお方であり、私たちの最終的な目的です。天主は私たちの心において第一の場所に値するお方であり、第二の場所に置くべきではありません。私たちは、自分自身を含め、すべてのものと比べてさえも、天主を優先しなければなりません。天主は私たちのうちで統治なさらなければなりません。「み国の来らんことを! み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを!」(マテオ6章10節)。被造物に最終的な目的という価値を与えることは一種の偶像崇拝であり、第一戒で厳しく禁じられています。多くの人々が「私は殺さない、盗まない。だから私は良い人間だ…」と思っていますが、その最終的な目的は天主に置かれていません。彼らは富や楽しみ、その他造られたものである目標を追求しています。これはまさに第一戒に反する罪です。彼らは自分たちの生活において、天主に第一の場所を提供していないのです。彼らは「金の子牛を崇拝」しており、つまり唯一のまことの天主よりもむしろ、自分自身を崇拝しているのです。

さて、私たちに対する天主の統治は、第一に内的なものです。私たちの知性を統治すること、私たちの意志を統治することです。天主は私たちの知性を信仰の徳によって統治なさいます。つまり、私たちが、私たちの主イエズス・キリストにおいて自ら啓示なさった至高の真理として、天主に忠実を尽くすということです。天主は、私たちの意志を、希望と愛の徳によって統治なさいます。つまり私たちが、すべてに超えて天主を愛し、天主のために他のすべてのものを愛すということです。このように、これらは第一戒によって課された最初の二つの義務であるのです。まことの信仰、カトリック信仰に忠実をつくす義務、そしてすべてに超えて天主を愛する義務です。ここにおいて、霊的な命、まことの信仰と愛によって、いとも聖なる三位一体を愛する観想の命があるのです。

現代世界の多くの人々は、天主は私たちが信じていることに無関心だと思っており、特に私たちが天主について信じていることにさえ無関心だと思っています。そのような「神」は、まことの神、天主ではありません。まことの天主は、すべての真理、とりわけ被造物の真理をご存じである至高の知性でなければならず、自分自身をご存じです。天主がご自分の秘密を人間に啓示され、ご自身のことを話されるとき、天主が話されたことを私たちが信じるか信じないかについて、天主は無関心ではいらっしゃいません。天主は私たちに、ご自分が話されたことを信じるよう望んでおられます。天主は、ご自分が話されたことをすべての人間が信じるよう望んでおられるのです。天主を信じようとしない人々がいるからといって、天主の善さが少なくなるというのではなく、私たちが天主を信じようとしないのは、私たちにとって悪いことなのです。なぜなら、そのとき私たちは闇の中に、真理について無知の中にいるからです。中には、すでに知られている真理を拒否する状態(これは聖霊に対する罪です)にさえいる人々もいます。天主は私たちを愛しておられるのですから、天主は私たちが無知のままでいることをお望みではなく、むしろ天主は「すべての人が救われて真理を深く知ることを望まれる」(ティモテオ前2章4節)のです。真理は天主が啓示されたもので、天主がご自分の教会に託されたものであり、天主は信仰というその「委ねられたよいもの」(ティモテオ後1章14節参照)を教会が保存するのを助けてくださるのです。天主の御子として私たちの主イエズス・キリストは、啓示を完成されました。主が啓示されたのち、聖ヨハネの黙示録を含めた主の啓示されたものには、誰も付け加えることはできません。「信仰の遺産(委ねられたもの)」は、最後の使徒である聖ヨハネの死によって閉じられました。すべての人は、それを信じる義務があるのです。

でもこれは、聖書の一言一句を誰もが暗記する必要があるという意味ではありません。そうではなく、「教会が教えること」を信じれば、また聖三位一体の神秘、ご托身の神秘、ご復活の神秘をはっきりと知れば、私たちは救いに必要な信仰を持っている、ということです。同様に旧約においては、民は「モーゼと預言者の信仰を持っている」ことで十分でした。さらにアブラハム以前においてさえ、人々は天主がアダムに啓示され、「女のすえ」としての救い主についての知識を含む「原始的啓示」として伝えられてきたことを信じれば十分でした。善意の人々に対しては、天主は、必要なら少なくとも天使たちの働きを通じて、啓示の本質的な部分について知るようにしてくださるでしょう。しかし通常これは、宣教師や、よきカトリック信者のあかしを通じて行われます。啓示された天主の権威のゆえに天主が啓示されたすべてのことを信じること、これが信仰の徳です。まことの信仰は救いに必要なのです。「信仰がなければ天主の嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)。

このように、信仰に反する罪は第一戒に反する罪です。信仰に反する第一の罪は異端です。すなわち、啓示の中で自らが望むものを選び取ることです。つまり、自分の判断を、私たちに教えるべくキリストによって指名された権威であるカトリック教会の権威の上に置くことです。ただ、無知は異端ではありませんから注意してください。教えを自分勝手に選ぶことはしないものの、説教者によって欺かれる人々がいます。そのような場合、まことの信仰についての知識が欠如しているだけであり、公式な異端の罪ではありません。このことは、カトリック教会の外の異端のセクトの中で生まれた人や、異教からそのようなセクトに改宗した人にしばしば起こっています。しかしながら、彼らが真剣に天主を探し求めているなら、真理を探し求めているなら、彼らは遅かれ早かれ、このセクトはキリストによって立てられた教会ではないという結論に到達するでしょう。ニューマン枢機卿のような人々にとっては、そのように真理を探し求めることに長い時間がかかるため、彼らに対して私たちは忍耐強くあるべきです。でも、その一方で、彼らが真理を見いだすよう助け、唯一のまことの教会へ移るよう彼らを励ますべきです。

信仰に反する第二の罪は背教です。これは信仰のすべてを拒否することです。真の信仰を知ったのちには、それを拒否すべき良き理由はあり得ません。なぜなら、真理を拒否すべき良き理由などあり得るはずがないからです! 悪しき司祭たちのスキャンダルは彼らの極めて重い責任ですが、それでさえも、私たちの主イエズス・キリストを拒否すべき理由にはなり得ません。これらの悪しき司祭たちがいるにもかかわらず主に忠実にとどまる人々に、主は永遠の報いを与える主人でい続けられるのです。不道徳な生き方をする悪しき司祭たちに従ってはなりません。悪しき司祭たちが新奇なことなどを教えるとき、彼らに従ってはなりません。そうではなく、これら悪しき司祭たちや聖職者たちがいるにもかかわらず、私たちの主イエズス・キリストに忠実でなければなりません。背教は極めて重い罪です。天主を完全に拒否することなのですから。その原因は、地上のものへの愛着と傲慢です。聖トマス・アクィナスは言います。「不信仰という罪は傲慢から起こり、傲慢を通して人は自分の知性を、信仰の支配に服従させること、教父たちの正しい解釈に服従させることを拒むのである」。

さて、信仰は霊的な命における一番最初の徳であり、とにかく、ほかのあらゆる徳の根本ですから、信仰を持っていない人々はキリストの命のうちに生きることができません。ですから、異端と背教が非常に重い罪であるだけでなく、信仰について無知であること自体が人を大きく傷つけるものですから、私たちは、このように主から遠く離れている人々をあわれみ、彼らを信仰の光のもとにもたらすようにすべきです。それは、信仰を宣教する熱意、霊魂たちを主に回心させようとする宣教の熱意が、信仰というこの偉大なる天の宝をその人々と分かち合うことによってです。

信仰の偉大な模範は童貞聖マリア、「Virgo Fidelis-いとも忠実なる童貞(信実なる童貞)」です。聖エリザベトは聖母に声を上げて言いました。「ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は」(ルカ1章45節)。聖母は、良き天使を信じた忠実な童貞であり、「その実を食べると死ぬことになる」と言われた天主のみ言葉を信じず、反対に蛇の言葉を信じた忠実ならざる童貞エバがしでかしたことを償われたのです。聖母は信仰と黙想の美しい模範です。聖母が幼きイエズスをご覧になるときはいつでも、「彼はいと高き者の子と言われます」という天使の言葉を思い出され、イエズスの神性に対する信仰の祈りをされ、十字架の下に至るまで主に忠実であり、そこに至っても、主は「いと高き者の子」であると信じ続けておられたのです。

まことの信仰は、霊的な命の第一の徳です。これによって、天主のみ言葉であるイエズス・キリストは私たちのうちにとどまり、私たちを照らしてくださいます。しかし、それはまた天主が私たちのために用意された目標である永遠の至福に、私たちの目を開かせてくれます。そして、私たちがその目標へ到達できるよう、天主は私たちを非常に気にかけてくださるので、私たちを罪から救うため、私たちに天国へ行くための力を与えるため、この世に御独り子を送られた、ということを私たちに確信させてくれます。そのため、信仰は人を希望へと導きます。天主を望むこと、天主の至福直観を待ち望むこと、永遠の命を待ち望むこと、そして私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって私たちがそこへ到達することを確信することです。希望は、第二の対神徳です。希望はすべて天主へと方向づけられています。「サルヴェ・レジーナ」で歌うように、私たちはここ地上で、この「涙の谷」で「逐謫(ちくたく)の身」であるかのようです。私たちがここ地上に永遠にいるかのように、そこに落ち着いてしまうのは、いかに間違っていることでしょうか! 私たちは、ただほんの一時的にここ地上にいるだけなのですから。私たちの地上での全生涯は、天国への準備であるべきであり、すべてが天国へと方向づけられているべきです。希望の徳を通じて、私たちの主イエズス・キリストは、美しい方法で私たちの心を主へと引き寄せてくださいます。

希望に反する第一の罪は失望です。これがしばしば起こるのは、私たちが善を行う自分の力に依り頼むからです。そして、うまくいかず、あきらめるのです。また、これやそれやの誘惑を克服できるよう、熱心に祈って天主の恩寵を願い求めるのですが、代価を払ったり、自分を捨てたり、これやそれやの地上の人間や物に対する愛着を捨てたりすることに気乗りしません。ですから、この気乗りしないがために誘惑を克服するのがうまくいかないのです。実際、私たちの主は言われました。「あなたたちも自分の一切の持ち物を放棄する者にならなくては、私の弟子にはなれぬ」(ルカ14章33節)。天主は私たちに、永遠の命を、天の至福を、天主の至福直観という幸福をくださろうとします。しかし天主は、私たちにその代価を払うよう、十字架を担うよう、自分を捨てるよう強く求められます。私たちが天主に対して「はい」と言うとき、制限があったり条件があったりしてはなりません。天主の恩寵に対して、すべてをお委ねしなければなりません。そうすれば私たちは、天国へと私たちを導く天主の恩寵の効力を、天主の助けの効力を実感できるのです。しかし、天主に完全に自分をお委ねするのが気乗りしないなら、そういう人は自分が誘惑に弱いことを感じ、簡単に罪を犯し、そのため失望に襲われるのです。聖アウグスティヌスは、私たちの主を優れた医者にたとえています。しかし病気の人は、この医者の処方箋に対して素直でなければならず、そうでなければ癒やされません。さて、失望はそれ自体で大変重い罪です。さらに、それが危険なのは、霊魂をあらゆる種類の誘惑に任せてしまうように導き、そしてあらゆる悪徳に、しばしば品位のない悪徳にその身を投じてしまうからです。そのための薬は、心を挙げて私たちの主イエズス・キリストに立ち戻ること、天主に立ち戻ることです。そうすれば天主は、その霊魂を清め、癒やしてくださいます。

希望に対する第二の罪は僭越(思い上がり)です。これは、希望の行き過ぎではなく(私たちは天主を信頼し過ぎということはなく、天主の助けに依頼し過ぎということもありません)、希望を歪めているのです。私たちを導いて罪から遠ざけてくださる私たちの主イエズス・キリストの恩寵に素直である代わりに、僭越は、罪から離れる必要なしに、そのままでも天国へ行くことができる、と言い張るのです! この僭越の罪はプロテスタントに典型的です。彼らは自分たちが「すでに救われている」と考えています。ほかにすべきことは何もなく、掟を守る必要もなく、何をしようとも天国へ行くことを確信しているかのようです。この僭越の近代主義的な変種は、「天主の愛は無条件である」ため、天主は人が行うことが何であれ常にお赦しになると主張します。これは希望を歪めることであり、天主の聖性をまったく尊重していません。天主は、ご自分が聖であるがゆえに私たちも聖であるようお望みだからです。このように、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に依り頼む代わりに、霊魂における恩寵の働きに反対したり、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に抵抗したりするなど、僭越は希望の行き過ぎというより、むしろまことの希望から離れてしまうことです。これもまた、大変重い罪であり、さらにまた、ほかの多くの罪に導いてしまうのです。

希望の偉大な模範は、再び童貞聖マリアです。特に十字架の下において、使徒たちが主を捨てて逃げてしまったとき、聖母は常に忠実で、主の復活を希望し続けておられました。これが、聖母が十字架の下に最初におられたにもかかわらず、主に塗るための油を買いに行く女たちの中におられなかった理由なのです。聖母は主が復活されることをご存じであり、確信しておられたのです!

永遠の至福の希望は、霊魂を愛の徳へと導きます。愛の徳は、霊的な命の最高の徳であり、天主と一致する徳です。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。愛によって私たちは、天主のために天主を愛し、詩篇作者が言うように、天主を喜びとします。「私は主において喜ぶ」(詩編103章34節)。「主を喜びとすれば、主はあなたの望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。

愛は、第一の最大の掟の対象です。ある日、一人の律法学士がイエズスのところに来て、彼に尋ねました。「『先生、律法のうちどの掟が一番大切ですか』。イエズスは、『〈すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての律法と預言者はこの二つの掟による』と答えられた」(マテオ22章36-40節)。

信仰は希望へと導きます。希望は愛へと導きます。信仰、希望、愛は三つの対神徳です。これらの徳によって、私たちは、ここ地上において、いとも聖なる三位一体を黙想し、天主の真理を愛し、天主の光において喜び始めることができるのです。聖パウロは私たちに言います。「今あるものは信仰と希望と愛の三つである。そのうちで最も偉大なものは愛である」(コリント前13章13節)。実際、愛がなければ、信仰と希望だけでは天国へ行くのに十分ではありません。同じ聖パウロが私たちに言います。「たとい私が山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前13章2節)。自然的な善業でさえ、愛がなければ救いに役立ちません。「たとい私がすべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、愛がなければ益するところはない」(コリント前13章3節)。

愛の徳は、驚くべき徳です。この徳は、天主のために、私たちにすべてに超えて天主のために天主を愛させるのです。これは、私たちのうちにある聖霊の偉大な賜物です。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。聖霊は霊魂を変えてしまうのです。聖霊は「聖化する方」であり、(天主の)愛によって、すべてが愛に変えられ、毎日の業が、芳しい香りの中で天主に捧げられるのです。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自身を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。このように、愛は功徳の源であり、最終的に愛は永遠の報いに値するのです。なぜなら、愛から行われたことは、天主を大変お喜ばせするからです。

愛の徳は霊魂を導いて祈らせ、黙想させます。これは霊的な命の中心です。これによって、まことにイエズスは私たちのうちに生きられるのです。私たちは「聖霊によって動かされ」、そのため、まことに「天主の子」(ローマ8章14節)であるのです。愛の徳は、すべての掟を守るように導きます。「あなたたちは私を愛するなら、私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)。掟を守ることは愛のために必要なことです。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す」(ヨハネ14章21節)。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところに行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。

天主に対する愛は、天主のために、隣人への愛を要求されます。「天主を愛する者は自分の兄弟も愛せよ。これは私たちが天主から受けた掟である」(ヨハネ第一4章21節)。愛によって、私たちは隣人のために天主を望み、私たちの主イエズス・キリストがその隣人を統治するよう望み、隣人のために永遠の至福を望むのです。聖トマス・アクィナスは、次のように要約します。私たちは「ut in Deo sint - 彼らが天主のうちにいる」ように望む、と。実際、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。ですから、隣人が私たちの主イエズス・キリストを持っていないならば、彼らが自分の霊魂に天主を所有していないならば、もし私たちが彼らに全世界を与えたとしても、それは彼らに何の利益ももたらさないでしょう。

それゆえに、隣人への愛は、まったく自己中心ではありません。それどころか、私たちの主イエズス・キリストの偉大な模範に従って、隣人の救いのために喜んで自分を犠牲として捧げるのです。それゆえに、「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ」(コリント前13章4-7節)のです。

大罪ならどんなものであれ、愛に反し、愛とは相いれません。しかし、この偉大な徳に直接反する罪があります。天主を憎むことは最悪です。しかし、隣人を憎むことはずっと普通に見られることです。でも、明らかに愛とは相いれません。

第一戒が要求する心の中の義務があります。それは、まさに命の掟、私たちの主イエズスが私たちのうちに生きる、その命の掟です。永遠の命の始まりである霊的な命の掟です。地上においては信仰、希望、愛の命が、天国においては永遠の命へと花を咲かせるのです。その霊的な命の食べ物は、ご聖体です。この最も優れた秘跡を通して、私たちの主イエズス・キリストは、ご自身の御体、御血、ご霊魂、ご神性を私たちに与えてくださるのです。主は私たちのうちに、もっともっと生きるため来られます。そうすれば、私たちは主のうちに、もっともっと生きるのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。

童貞聖マリアがそうなさったように、天主がどれほど私たちを気にかけ、私たちを愛し、私たちが完全に天主のために生きることを望まれているかを私たちが実感できるよう、マリア様が私たちをお助けくださいますように。そして、私たちが天国にいくことができますように。アーメン。

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