典礼用具の花、ろうそく、香の意味についての説教
ドモルネ神父 2023年11月26日
はじめに
先週の主日、私は祭壇とその典礼的意味についてお話ししました。祭壇は、私たちの主イエズス・キリストを表しています。天主にいけにえが捧げられるのが祭壇の上であるように、子なる天主は、イエズス・キリストの人間の肉体と霊魂を祭壇として用い、父なる天主に御自身をいけにえとして捧げられます。祭壇が、人間が天主と出会う神聖な場所であるように、イエズス・キリストは、天主と人間を一致させる唯一の仲介者です。祭壇が、人間が天主にそのいけにえを捧げる場所であるように、私たちが天主にすべてのものを捧げるのは、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストにおいてです。祭壇が、石で作られねばらず、また3枚の祭壇布で覆われ、装飾を施され、ミサの間に司祭が接吻し、香を捧げ、触れるのは、それがイエズス・キリストを表しているからです。
私たちの主イエズス・キリストは、すべての被造物の中心です。この世と教会にあるすべてのものは、イエズス・キリストへと向かいます。典礼のすべては、イエズス・キリストを表すか、あるいはイエズス・キリストへと至るものです。今日は、花、明かり、香の象徴的な意味についてお話しすることで、皆さんに、引き続きこの現実をお示ししたいと思います。
1. 花
まず、花について少し触れます。私たちは、償いをするときや喪に服するときを除いて、祭壇に花を飾ります。第一の理由は、単に祭壇を飾るためです。祭壇はイエズス・キリストを表しています。祭壇を美しくするものはすべて、イエズスの美しさと栄光を象徴するという目的のためです。花は、この役割を見事に果たしています。私たちの主イエズスが、ゆりの美しさについて言われたことを思い出してください。「ゆりの花を見よ。…私は言う、ソロモンさえ、その栄華のきわみにも、ゆりの一つほどにも装わなかった」(ルカ12章27節)。
祭壇に花を置く第二の理由があります。それは天国を象徴するためです。実際、天主がアダムとエワを創造されたとき、彼らを「楽園」と呼ばれる幸福の園に置かれました。それになぞらえて、私たちは、永遠の幸福の場所である天国を、「楽園」または「天国の園」と呼んでいます。しかし、園を特別なものにするのはそこにある花です。したがって、祭壇の花は楽園、すなわち、イエズスがおられ、イエズスが私たちを連れて行ってくださる天国を象徴しています。ところで、カトリック信者が墓地に花を供えるのを好むのも同じ理由からであり、そうすることで、天国での永遠の命への希望を表わしているのです。
2. 光
さて、祭壇の光、すなわち、ろうそくと聖体ランプについて考えてみましょう。聖体ランプは、ご聖櫃にご聖体が現存していることを示す小さな灯りです。
ミサにろうそくがあることは、カタコンベの時代を思い起こさせます。キリスト信者がローマの地下墓地に隠れなければならなかったとき、彼らは、聖なるミサを捧げるために、松明とろうそくを灯していました。
しかしもちろん、ろうそくは、過去を思い起こさせるだけではありません。ろうそくは、象徴的な意味も持っています。光は、祭壇と同様、私たちの主イエズス・キリストを表しています。実際、イエズスは、「私は世の光である」(ヨハネ9章5節)と言われました。また、「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)とも言われました。光と温かさを生み出す炎は、イエズスの神性を象徴しています。旧約では、天主は、火の形で、何度も御自身を現されました。例えば、モーゼに対しては燃える柴で、あるいは、出エジプトのときのヘブライ人に対しては、彼らを導いた火の柱でです。火が物質ではなく、照らし、温めるものであるように、天主は純粋な霊であり、真理で私たちの心を照らされ、愛徳で私たちの心を温められます。ろうそくの火はイエズスの神性を象徴し、白いろうのろうそくは、私たちの主の清く繊細な人性を象徴しています。中世において、童貞聖マリアに神秘の蜂という愛らしい名前が与えられていたことは、興味深いことです。ミツバチが花の間に住み、花の蜜で養われるように、童貞聖マリアは、「花」という意味を持つナザレトに住まわれ、天主のみ言葉で養われました。ミツバチがろうを作り出すように、童貞聖マリアは、私たちの主イエズスのいと清き御体を受胎されました。ミツバチが蜜を作り出すように、童貞聖マリアは、柔和であわれみ深いイエズスを私たちに与えてくださいました。
さて、聖体ランプについてお話ししましょう。伝統的に、このランプの燃料はオリーブ油です。この油もまた、私たちの主イエズスを表しています。聖ベルナルドは、これを次のように説明しています。「油は照らし、養い、強める。イエズスは、福音においては私たちの心の光であり、ご聖体においては私たちの霊魂の糧であり、その恩寵によって私たちの心の薬ではないか?」。一方、照らし、養い、強める油が、砕かれ、搾られたオリーブからできているように、私たちの主イエズスは、ご受難で砕かれることによって、私たちの光、栄養、力となられたのです。
では、光の数を考えてみましょう。それは最大で七つです。つまり、六つのろうそくと聖体ランプです。このことは何を意味するのでしょうか。聖ヨハネは黙示録の幻視の中で、七つの金の燭台を見て、このような説明を受けました。「七つの燭台は七つの教会である」(黙示録1章20節)。ですから、教会は、祭壇の七つの光を通して、私たちの主イエズスを信じるすべての民族を象徴しているのです。
最後に、読誦ミサで灯される2本のろうそくの意味を考えてみましょう。教皇インノケンティウス三世は、この2本のろうそくはユダヤ民族と異邦人、旧約と新約を意味すると説明しました。ろうそくの間には磔刑像のついた十字架があります。これは、イエズスを信じるユダヤ人と異邦人を、イエズスが一致させられること、また、イエズスとその贖いのみわざが、旧約と新約の中心であることを意味しています。
3. 香
最後に、香の意味を考えてみましょう。天に向かって立ち上るかぐわしい香の煙は、人間の天主への祈り、礼拝と感謝と赦しと祈願の祈りを象徴しています。すべての祈りは、最終的にすべての善の源である天主に向けられるものですから、香は天主のみに捧げられます。ミサの間、私たちは、天主である私たちの主イエズスに香を捧げます。祭壇に香が捧げられるのは、祭壇が私たちの主イエズスを表しているからです。福音書に香が捧げられるのは、福音書がイエズス・キリストのみ言葉であるからです。司祭に香が捧げられるのは、司祭がイエズス・キリストの役務者であるからです。ミサの侍者と信者に香が捧げられるのは、彼らが洗礼とご聖体を通してキリストの神秘体の一員であるからです。
教父たちによると、香炉そのものが私たちの主イエズスを表しています。穴の開いた香炉は、ご受難の間、釘で貫かれ、殴られ引き裂かれたイエズスを表しており、香炉の火は、すでに説明したように、イエズスの神性を表しており、香の煙は、特にご受難のときの、イエズスの御父への祈りを表しています。
香炉から立ち上る香の煙は、小さな雲のような形になります。この小さな雲は、預言者エリアの生涯に起こったことを思い起こさせます。当時、イスラエルの地は、民の罪の罰として、長い干ばつに見舞われていました。エリアは、偶像バアルの司祭たちをカルメル山に呼び寄せ、民の前で彼らの宗教の虚偽と邪悪さを証明しました。偶像崇拝と嘘の罰として、これらの司祭たちは全員殺されました。その後エリアは、雨を降らせてくださるよう、天主に祈りました。すると、手のひらほどの小さな雲が、海から立ち上ってきました。この小さな雲は、あっという間に大きくなって空を覆い尽くし、豊かな雨が国中に降り注ぎました。これは、ミサで起こることのかたどりです。小さな香の雲、すなわち、キリストの祈りが、祭壇から天主に向かって立ち上り、それに答えて、天主は世界中に豊かな恩寵を降り注がれるのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、最後に、私たちが聖伝のミサの典礼を保存し、守るのは、過去への郷愁からではなく、この聖伝の典礼が私たちのカトリック信仰を驚くほどよく表現し、私たちの信仰を効率的に養ってくれるからだということを、ただ皆さんに思い出していただきたいのです。これらすべては、新しいミサの典礼にはないものですから。