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二組の兄弟:エザウとヤコブ、放蕩息子とその兄

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二組の兄弟:エザウとヤコブ、放蕩息子とその兄

2023年3月11日(土曜日) 修道院での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日ミサでは二組の兄弟の話が出ました。
イザクの二人の子どもたち、エザウとヤコブ。
それから、福音では放蕩息子とそのお兄さんの話です。

(1)イザクの二人の兄弟、長男エザウは、モーゼの記録によると、この世的で肉欲に自分を制御することができない男でした。長男であったにもかかわらず、お腹が減って帰って来たときに、自分の弟ヤコブが作っていた豆のスープを食べたいと言って、いまこのお腹が減っている時に長子権がいったいなんだ、いまこの世の楽しみのためにあたかも天国とはいったい何だ、と言っているかのようです。この目先の事だけの楽しみのために、将来の最も大切な長子権を売ってしまいました。

今日の書簡で、お母さんレベッカの話のとおりに、お父さんの一番望んでいることは何か?ということを聞いて、お母さんの言うとおりにヤコブはします。そして、お父さんのイザクから、本当ならエザウにやるべき祝福を自分が受けるようにしてしまいました。確かに長子権をエザウは売ってしまったのですから、エザウからヤコブにその祝福が行って当然だと言えるかもしれません。天主の神秘はそれを許しました。教父たちによると、エザウはユダヤ人たちを意味していて、そしてヤコブは新約の私たち異邦人を意味していると言います。

私たちにとってその聞くべき母とは、聖なる公教会でありそしてマリア様です。なぜなら公教会とマリア様こそが、天主の御旨を一番よく知っているからです。祝福を受けるべきためにいったい何をすればよいかということを、私たちに教えてくれるからです。

(2)今日の福音は、この二人の兄弟をもっと説明します。実は、異邦人たちは、私たちは、天主の国から非常に遠く離れたところに住んでいた者でした。天主からの遺産を実は受けていたにもかかわらず、それから離れて好き放題に闇に住んでいた、ということです。主のみ旨を果たさないばかりか、それに反することを行っていた。やりたい放題にやっていた。

その父の家から離れていると、自分があまりにも惨めだ、動物よりも惨めだ、豚よりも惨めだ、豚の食べているものさえ自分は食べることができない、それに気がついたのです。ちょうど現代人のようです。

天主のみ旨は、聖なる家庭をつくることだ、男が父親となることだ、女性が素晴らしい母親となることだ、そして愛の家庭をつくることだ、一人の男と一人の女性が決して壊れることがない家庭をつくり、そしてその家庭のなかによって互いに愛し合うことだ、そしてその愛し合った二人はその家庭をすべて主に捧げることだ。 そこから、その愛の円居(まどい)において、主が宝物として、贈り物として、プレゼントとして、子どもたちを新しい命を与えてくださる、そのプレゼントを受け取ることだ。そこにこそ主のみ旨がある。

けれども、そうではなくて、遠く離れてしまって、「自分の思い通りに愛すればよい、自分のとおりにすればよい、自由だ、男も女もあるか」と言っている現代人たちです。しかしそうすることによって、男性は傷つき、女性は更に傷つき、子どもたちはもっと、もっともっとひどく傷ついています。苦しんでいます。ですから、その苦しみの中で、今日の放蕩息子は「ハッ、お父さんのもとに帰ろう」と思いました。

これは、今年の復活祭の時に洗礼を受けようとする求道者たちの願いと、心の中と、一致しています。「お父さんのもとに帰ろう、お父さんのもとだったらもっとも下っ端の召使いの奴隷であっても、私よりももっと良い生活をしている、幸福を味わっている。お父さんのもとに帰ろう。」

父親は遠くから子供が帰るのを待っていました。いまかいまかと待っていて、そしてすでに小さな姿を見つけると走り寄って行って、子供を向かえ入れます。「よく帰って来た。待っていた。よく来た。」

子どもは跪いて「お父さん、私はあなたと天に対して罪を犯しました。ごめんなさい。もうあなたの子どもなどと呼ばれる資格はありません。召使いのもっとも奴隷の、もっとも下っ端の、一番下においてください。それも、そんな価値もありませんけれど、どうぞ家の中に入れさせてください。」と言います。

父親は、その子どもを立ちあがらせて、召使いに言って、「さあ、この子に一番良い服を着せるように。この子は裸足だ、靴を履かせるように。この子には私の子どもとしての指輪をはめさせるように。」そして、子供としてのすべての特権を与えてくれたのです。

そればかりではありません。この子供のためには、父親を離れたことがなかったお兄さんにもすることがなかった大宴会を開きました。一番超えた動物を屠って、一番おいしいワインを飲んで、一番おいしい料理を大御馳走を並べた大宴会を開いて、音楽を奏でました。オーケストラが美しい音楽を奏でて、子供が帰って来たのを喜びました。

これは、天主御父が、私たち異邦人がその御もとに帰ってくるのをお待ちになっているということです。たとえ私たちがどれほど罪を犯していたとしても、どれほどの主から遠い生活をしていたとしても、惨めな生活をしていたとしても、動物のような生活をしていたとしても、主のもとに立ち返るならば、子供として最も良いものを与えてくださる、成聖の聖寵の恩寵を下さる、新しいキリストの衣服を着せてくださる、天国の遺産を受けることができる指輪を与えてくれる、本当の自由人としての靴を与えてくださる、そればかりではなく御子を屠って御聖体として私たちに与えて養ってくださる、と私たちに教えています。

私たちも、今年の洗礼志願者のために、また私たちが主の御もとに帰ることができるように、そして主のみ旨を果たすことができるように、教会の二千年間の聖伝の声とそしてマリア様の声を、聴くことにいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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