「愛される子らとして、天主に倣うものであれ!キリストが私たちを愛されたように、愛のうちに歩め。聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行すべての穢れ・強欲を口にさえするな。人の空しい言葉に騙されるな。光の子として歩め。」
2023年3月12日(主日)東京での11時半のミサ 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は、四旬節第三主日のミサを捧げています。
四旬節は、償い、悔い改めの聖なる時期です。また特に洗礼志願者の洗礼を準備する時期でもあります。
今日の聖パウロの書簡は、私たちがよい悔い改めをすることができるように、また求道者の方々がよきキリスト者となることができるために、四つのアドバイスをしています。聖パウロは最後に結論としてこう言います。「あなたたちは闇であったが、今は主において光である。光の子として歩め」。この聖パウロの書簡を是非一緒に黙想いたしましょう。
聖パウロは四つのアドバイスをしています。
一つは「愛される子どもとして、天主に倣う者であれ。」
もう一つは「キリストが私たちを愛したように、愛のうちに歩め。」
三番目は、「聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行や全ての穢れ、強欲を口にさえするな。」
第四は、「人の空しい言葉にだまされるな。」です。
このアドバイスはいったいどういう意味なのでしょうか。少し黙想してみましょう。
(1)聖パウロは言います、「天主に倣え」。大自然を見ると、天主の偉大さや完璧さ、その知恵や力の偉大さを私たちに示しています。大海原の果てしない巨大な海、夜空に輝く星々、散らばれた大宇宙の神秘、その果てしなさ、太陽の光の力強さ、熱、あるいは高くそびえたつ山々、何千何万という野生の動物や植物たち。しかしこれらは知性の無い理性の無い動物や植物や鉱物にすぎません。天主は人間を特にご自分の似姿、肖像に象って作られました。真理を認識する知性と、善を自由に選ぶ意志とを、私たちに備えてくださいました。これによって私たちは天主に倣うことができるようになります。天主の偉大さやその力強さのみならず、もっと崇高なところで、天主に倣うことができるようになります。真理を知り、善を求める、それだけではありません、聖パウロが言うのは「愛される子どもたちとして、天主に倣え」。
何故かというと、これは私たちが天主から、特別にとても大切なものとして愛されている(caríssimi)子どもたちだからです。特に洗礼を受けることによって私たちは、超自然のお恵みに与る者になりました。天主の養子となりました。言葉だけでなくて、本当の子どもになりました。ですから私たちの行動は、天主の子どもとしての行動ですから、天主御父に非常にこころよい嘉する天主と親和性のあるものなのです。イエズス様はおっしゃいました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全であれ」。わたしたちはそれができるようになったのです。
(2)聖パウロはもっと言います。「キリストが私たちを愛したように、愛のうちに歩め」。なぜかというと、目に見えない天主を私たちはどうして真似したらよいか、と戸惑うことがあるからです。しかし、イエズスさまはおっしゃいます。「私を見た人は父を見た」と。ですから主はご自分の聖徳の完成、極み高い聖なるすべての徳を私たちに見せることによって、私たちがそれを真似ることができるようにしてくださいました。と言っても主の高みは、あまりにも高くて、エベレストよりも高くて、いったいどうしてあんなに高い山に登ることができるだろうか、と思われるかもしれません。しかし、エベレストの山頂まで行くエレベーターを、近道を、キーポイントを、聖パウロは今日教えてくれます。
聖パウロが言う近道はこれです。「キリストが私たちを愛してくださったように歩め」。愛の模範を、真似しようということです。これはどういうことでしょうか。キリストの愛を真似するとはどういうことなんでしょうか。
ここで聖パウロは、聖徒たちにふさわしいように、聖なる人々にふさわしいように、私たちは愛において歩まねばならない、と教えています。
(3)ところで聖パウロがこう語った時には、ギリシャ・ローマの腐敗した肉欲に溺れた時代の事でした。ですから、人々が誤解してしまうことがないように、言います。
「私たちのために捧げ物・香ばしい香りの天主の生贄としてご自分を渡されたキリストのように、倣え。だから、キリストの愛というのは、非常に貞潔なものであって、清いものであって、慎み深いものである。だから、私たちはキリストの愛に反するような不潔なことや慎みに欠くことは口にさえもしてはいけない」といいます。聖なる者にふさわしいように…。
何故かというと、イエズス様はこうもおっしゃったからです。「あなたたちが知っているように、"姦通するな"と教えられている。しかし、私はいう。色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通したのだ。」
「心でさえも思ってはいけない」と主は言われます。「口にするなど、とんでもないことだ」ということです。
また貞潔に反することを口にするということは、他の人々を罪へと誘惑する危険があります。ですから、口にするさえも、避けられるべきなのです。特に若い子どもや青少年たちにとっては、大きな躓きとなる危険があります。子どもたちを躓かせることについては、主は厳しい言葉で臨まれています。「私を信じるこの小さなものを一人でも躓かせるなら、その人は、ろばのひき臼を首にかけて、海の深みに沈められるほうがましである。」憐れみの主がおっしゃるには あまりにも厳しい言葉です。
いったいなぜでしょうか。なぜかというと、主は深い全能の愛によって、一人の男と一人の女性が、一つの決して壊れることのない決して解消することができない家庭を作って、そして互いに助け合い愛し合って、そこから健全な子供たちが生まれることを、お望みになりました。
これはイエズス・キリストと聖なるカトリック教会が一つの神秘体を作る、という影となるからです。それを現すしるしとなるように、お望みになりました。
このような家庭は非常に幸せで、そして愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちもどの人間でも子供は自分の肉体の私たちを生んでくださったお父さんとお母さんがいつも仲良く一緒に平和に生活することを望んで、それを見ると幸せです。このような家庭は国家が存在する前から存在しています。そして国というのは、そのようなしっかりとした家庭に基づいています。
ですから主がお望みのように、私たちもまた社会全体も国も、女性を、お母さんとしてあるいは母親となる方として尊重し大切にしなければなりません。もしもキリスト教文明で、女性が大切にされて―レディファースト―あるいは女性に対する特別の保護が為されて優しさがなされて尊敬が払われて最も大切にされたとしたら、それは母親であり母親となる方であるからです。もしも女性が母親となるべく方であれば、男性は父親として、また父親となるべく者として、尊重されなければなりません。なぜかというと子供には良き母親と良き父親の両方が必要であるからです。そしてそのような社会は、子どもたちをも尊重します。もしもそうでなければ、一番の犠牲者は子どもたちです。子どもたちが傷つき、そして不幸になり、悲しみ、そして一生癒されることのない不幸な生活を送らなければならなくなります。またその次の犠牲者が女性です。そして男性です。そして社会全体が不幸に苦しみに陥ってしまいます。
ですからそのような家庭を守るために、聖パウロは、私たちに口を慎めと言います。なぜかというと、天主の御摂理により、私たちが命を維持してご飯を食べたりあるいは結婚したりするために、特別の欲望を私たちに作りました。これはスポーツカーの最高のエンジンよりも、あるいは核融合の原子炉よりもさらに強い力を持っているものです。ですから私たちはコントロールしなければ、爆発してしまったり、核爆発をしてしまったり、あるいは大事故を起こしてしまったり、そして多くの人々がそれによって苦しむようになってしまいます。そのコントロール・制御するためにこそ、特別の注意と慎みとそして賢明さが必要です。「淫行やすべての穢らわしいことは口にさえ言ってはならない」と聖パウロは言っているのです。
(4)最後の第四に、聖パウロは、私たちに、「あまりにもほかの社会が乱れているので私たちは騙されてはいけない」と警告します。その当時は、異教のローマ・ギリシアの文明と呼ばれるものに対する警告でした。そのような人たちは快楽至上主義というのでしょうか、面白おかしくすればそれでよいのだ、一番悪いのは苦しむことだ、そして誰でも自由に快楽を求める権利がある、そして快楽こそが本当の幸せだ、と言って、家庭も顧みず食べたいまま、あるいは自分がやりたいまま、快楽を肉体の欲望を満たそう満たそうとしていました。しかしその代わりに起こったことは、不幸でした。もとめても求めても満たされない虚ろな心でした。社会は、家庭は、壊れて行きました。子どもたちは犠牲者になりました。女性も搾取されました。商品となりました。
カトリック教会は二千年間、それらの快楽主義に対して、「違う!騙されるな!一人の男性と一人の女性が一体となって結婚するのだ、それ以外の何ものでもない。天主の御摂理による本当の幸せの秘密はここにある」と教え続けました。そして、カトリック教会は人類にものすごい貢献をしました。それはキリスト教文化というとてつもない偉大なものを、私たちに残してくれました。大きな大聖堂あるいは音楽・文学・芸術・美術・法律その他すべては、この社会の最も大切なここから、生れて来ました。カトリックの道徳から、生れて来ました。そこから、ものすごい立派な聖人たちが、天主への愛に燃えて、キリスト教文明を築いてきました。
現代社会では、この二千年前の古い異教の考えが頭をもたらしています。日本にもいまそれが襲っています。自分が思うままにやりたい放題すれば、それこそが幸せだ、どんな子供でも誰でも快楽を追求する自由がある権利がある。そこでいま文学や小説や雑誌や写真や動画多くのものが不潔と口で言うことができない低俗なもので満ち溢れています、汚物で溢れかえっています。多くの子どもたちは、お母さんのおなかの中で殺害されています。大人が子供を邪魔だというからです。多くの女性が商品化されています。口にするのも恥ずかしいほどです。
教育という名前で、子どもたちに、ポルノあるいは子どもたちにふさわしくないものが当然である、罪でない、それが自由だ、自然なことだ、と教えるようにしています。たとえばユネスコ(UNESCO)が中心になって国際セクシュアリティ教育ガイダンス(ITSE, International technical guidance on sexuality education)というものがあります。幼稚園児から五歳から八歳から、教える内容は「どのような家庭も全く価値が同じだ、壊れた家庭も、私達が天主のみ旨に反して罪だというようなことも、これは等しく価値がある、全く同じだ、権利がある、そしてカトリック教会が罪であると教えてきたことも自然な行為だ」私は言葉にすることもできません。あるいは「本人たちの同意があれば何をしてもよい、何でもしてもよい、ただ唯一の制限が本人たちの同意があることだけだ、それ以外のことは何でもやってよい」。
しかし、核融合しているような 燃え盛るような原子炉で、情念に燃えてしまって理性を失ってしまっているような若い子どもたちが、同意する・しないという問題ではなくなる時があります。天主の私たちに与えた最も幸せな道を盲目にさせてしまう時があります。
聖パウロは私たちに言います「人の空しい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのはそれらのことがらである」と。聖パウロは、現代どれほど大きな声で、くり返しくり返し私たちに警告していることでしょうか。「主の道に立ち戻らなければならない。主のみ旨に戻らなければ本当の幸せがやってこない。私たちは不幸になってしまう、滅びてしまう。傷ついてしまう」。
【遷善の決心】
では最後に、四旬節の決心を、また新たにいたしましょう。この機会に私たちが悔改めをすることができますように。ヨナの言葉を聴いて、ニネベの人たちは悔い改めました。現代人の私たちも、悔い改めなければなりません。主に、たちもどらなければなりません。特に貞潔に対する遷善の決心を立ててください。それを目にも耳にも口にもしないように、よい決心を立てましょう。子どもたちを守らなければなりません。
愛される子らとして、天主に倣うものであれ!キリストが私たちを愛されたように、愛のうちに歩め。聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行すべての穢れ・強欲を口にさえするな。それらの者は、キリストと天主との国において、遺産を継がない。人の空しい言葉に騙されるな。あなたたちは闇であったが、今は主において光りである。光の子として歩め。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。