十字架の道行は、最も重要な信心、キリスト教の初代から行われてきた信心、多くの霊魂たちを聖化してきた信心
2023年3月26日(主日)東京での9時のミサ
サマーズ管区長様の説教
親愛なる兄弟の皆様、
私たちは今日から最も神聖な御受難の季節に入ります。
ですから御受難について、十字架の道行について、話をすることがとてもふさわしいと思います。
特に十字架の道行の信心と、それの実践についてお話します。
【十字架の道行は、最も重要な信心】
十字架の道行は、私たちの信仰の中で最も高い最も重要な信心と言えます。
なぜかというと、イエズス様御自身がそれをなさることによって、この十字架の道行をなさることによって、私たちに与えられたからです。
私たちは、この信心をすることによって、頭の中に主の御死去を思い出させます。
私たちの罪のためにお受けになった御受難をも考えさせます。
私の弟子になりたいならば、自分を捨てて十字架を取って私に従え、と言ったお言葉をも思いださせます。
【十字架の道行は、キリスト教の初代から行われてきた信心】
マリア様、聖ヨハネ、マグダラのマリア、その他の聖なる婦人たちが、主の御跡を慕って、十字架の後につき従ったということを思い出させます。
イエズス様が昇天なさったのちにさえも、マリア様あるいは聖ヨハネなど、ほかの信者たちは、主の十字架の道行を何度も行って、そこを黙想して通った、ということを思い出させます。
この信心は、カトリック信者によって、マリア様の後何世紀も続けられてきました。特に世界中からエルサレムに行って旅行・旅をして、そして主の本当にお歩きになった道行きをして来ました。
しかしイスラム教徒が聖地を占拠してしまい、聖地に行くことができなくなってしまった時に初めて、カトリック信者は、この信心をそれぞれの教会に持ち込んで、そして教会で十字架の道行をするようになりました。
多くの偉大な教皇様たちは、この十字架の道行の信心に、贖宥や特別の祝福を与えたので、これこそが教会の中で最も祝別された信心となりました。
最も重要であり、また私たちにとって最も有用な役に立つ信心です。
【十字架の道行は、多くの霊魂たちが聖化された信心】
私たちの主が、十字架の道行をやりながら、その信心を作り出しているその最中でさえも、多くの霊魂たちはこれによって聖化されました。
キレネのシモンは、全く関心がなかった男でしたけども、しかし、主の十字架を担うようにと強制させられて変わりました。
キレネのシモンが回心したのみならず、彼の二人の子どもたちもキリスト教信者となって、司祭・司教となって、最後には殉教の恵みをも得ました。
主の十字架の道行をやりながらそれに従いながら、キレネのシモンは、回心の恵み・聖化の恵みまた召命のお恵みをも、殉教のお恵みをも、得ました。
また主が十字架の道行を続けると、ある婦人は主の姿を見て、その姿に、慰めを与えようとして、御顔を拭くためのタオルを出します。
これは私たちに、もしも誰かが苦しんでいるのを見てそれを助けようとすると、特に私たちの主に対する愛をこめてそれを助けようとすると、回心の恵み、聖化の恵みを受けることができるということを教えています。
十字架につけられて高く挙げられた時に、主はまた回心の恵みを与えました。
右につけられた良き盗賊ディスマスは、主にこう言います、「主よ、あなたが御国にいたるときに私を思い出してください」と。
生涯犯罪とそして邪悪を犯して来たこの罪の男ですが、しかし十字架の道行のお恵みによって、彼は改心の恵みを受けて、その夜天国に行きました。
百部長は私たちの主に苦しみを与えていた兵士たちの責任者でしたが、その責任がある男だったにもかかわらず、主の十字架のご様子を見て、そしてそののちにおこった奇跡を見て、回心のお恵みを受けました。そこで信仰告白をしました。
福音書には「多く人たちが群集が十字架で起こったことを見て、みな胸を叩きながら、打ちながら、家に帰って行った」とあります。回心のお恵みです。
この同じ人たちが、聖ペトロが聖霊降臨の時に説教をすると、回心したのです。
これは、最初の十字架の道行で行われた多くのお恵みのほんのちょっとした例にすぎません。
まったく同じお恵みが、私たちが十字架の道行をするたびごとに、特に信心と愛をこめて、罪の痛悔の念をもって行うごとに、与えられます。
天主は場所や時間に制限されていません。ですから、同じお恵みを、どのような国であっても どのような時代であっても どのようなところであっても、聖化のために、私たちが十字架の道行をするために、これを与えることができます。
【十字架の道行は、罪人のためにとっても聖人にとっても有用である】
十字架の道行は、罪人であっても罪のなかに生きる人であっても、また、聖人のためであっても、聖性の状態にいる人のためであっても、両方とも有用な真理です。
罪のなかに生きている人々、あるいは罪に愛着を持っている人々は、十字架の道行から私たちは多くを学ぶことができます。
彼らは、主が苦しみご死去されるのをみますが、それは自分たちの罪の負債を支払うためであるということを、知ることができます。
ここで 天主の恐ろしい正義と 罪の恐ろしい代価を、知ることができます。
また自分たちの霊魂に対する主の偉大な愛をも、知ることができます。
私たちの主が罪を償うために何度も何度も苦しみを受けることの準備ができている、よろこんで苦しむことができるということを、その愛を、彼らは否定することができなくなります。
この考えは、罪人たちが罪を悔い改めるための大きな助けとなって、天主に立ち戻ることができるようにしてくれます。
聖ボナヴェントゥラは、「主の苦しみは、最も冷たい凍り付いた心でさえも、暖かく燃え立たせてくれる」と言っています。
たとえ自分の意見に凝り固まった人でさえも、あるいは自分の肉欲あるいは誘惑に襲われている人であったとしても、主の御受難とご死去を黙想すればするほど、ついには回心せざるを得なくなります。
罪人のみならず、成聖の恩寵に生きる人々のためであっても、十字架の道行はとても役にたちます。
これは私たちに、罪の邪悪さをわからせ、罪を忌み憎む恵みを与えてくれます。
キリストが私たちのために苦しまれたということをみると、私たちも愛へと動かされます。
主の聖なる徳を十字架の道行のなかで私たちはみることができます。ですから これに倣って、私たちも同じような徳を実践したいと思わせます。
またこれを通して、この地上における私たちの生活がいったい何かということを、ますますはっきりと見ることができるようになります。
主の苦しみ・御受難・死を黙想すればするほど、私たちにとってこの世で何が大切なのか、私たちの優先順位が何か、ということを、よく理解することができます。ですから、主が私たちのために苦しまれたということを周知すると、この地上におけるすべてのことがより簡単になります。
ハイ、十字架の道行は罪人のためにとっても、また成聖の恩寵に生きる人々にとっても、もっとも役に立つものです。
この十字架の道行の信心を四旬節だけに限ってはなりません。私たちはたとえ家の中にこの十字架の道行の絵がなかったとしても、主の御受難を黙想するようにしましょう。
この信心は主によって与えられて、そしてマリア様がこの信心を行いました。
これによって、私たちは主の祝別、そして回心、罪の痛悔を私たちが受けることができます。
私たちの前に生きていた多くの聖人たちが受けたものと同じお恵みを受けることができます。
主の御受難よ、我らを清めたまえ。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。