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もしもキリストが私たちのうちに留まることを欲するなら、私たちの五感を罪の機会に対して閉ざしている必要がある

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もしもキリストが私たちのうちに留まることを欲するなら、私たちの五感を罪の機会に対して閉ざしている必要がある

2023年4月16日(白衣の主日)の説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2023年4月16日、白衣の主日です。

今日の福音には「弟子たちが集まっていたところの戸は、ユダヤ人たちを恐れて閉じられていたが、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」と仰せられた」とあります。

聖トマス・アクィナスは、神秘的な意味で、このことを通して次のことが理解されると言っています。外のこと、つまり外的な感覚が閉じられているとき、キリストは私たちに現れる、と。

祈りにおいて「あなたたちが祈る時には、自分の部屋にはいり、戸を閉めよ」(マテオ6:6)、また世の終わりに「用意していた乙女たちはいっしょに宴席にはいり、そして戸は閉ざされた(マテオ25:10)。

そこで、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、もしもキリストが私たちのうちに留まることを欲するなら、私たちの五感を罪の機会に対して閉ざしている必要がある、と訴えています。そこで、今日は、罪の機会について黙想いたしましょう。

【1:罪の機会を避けないという危険性】
聖アルフォンソ・デ・リグオリは、キリストとラザロの二つの復活を比べてこう言います。

キリストは、死者のうちからよみがえり、もはや死ぬことはありません。しかしラザロはよみがえり、再び死にました。

キリストは埋葬の布を残して墓からよみがえりました。しかしラザロは「手と足とを布でまかれ、顔を汗拭きで包まれたまま出てきた」(ヨハネ11:44)のです。

罪を許されて聖寵の命によみがえっても、ラザロが布で巻かれたままであったように罪の機会に取り囲まれたままであるなら、また罪を犯して聖寵を失ってしまうでしょう。ですから、永遠の命へとたどり着くためには、罪だけではなく、罪の機会、つまり私たちをして罪を犯す危険となる状況さえも捨てなければなりません。

使徒聖ペトロはこう書いています。引用します。「節制し警戒せよ。敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食いあらすものをさがしながら、あなたたちのまわりを回っている。」(ペトロ前5:8)と。引用を終わります。悪魔は特に、私たちよりも前に、私たちにとっての罪の機会の周りにいて、私たちを狙っているのです。

シエナの聖ベルナルディーノは、キリストの全ての助言のうちで最善の助言、宗教の基礎とも言えるものは、罪の機会を避けよということだ、と言っています。

人祖の罪は、罪の機会を避けることを怠ったことから始まりました。天主は禁断の木の実を食べてはならないと命じたのみならず、触れてもならないとされていました。何故ならエワは「天主は私たちにそれを食べてもならず、触れてもならないと命じられました」(創世記3:3)と答えているからです。しかし、エワはそれを見て、触れて、ついに食べてしまったのです。

聖チプリアノはこう言います。「泥棒が近くにいるなら、財産は決して安全ではない。同じ小屋に狼がいるのなら羊は安全ではない」と。つまり、罪の危険に近づき続けるならば、聖寵の命という貴重な宝は安全ではない、ということです。

つい最近、徳之島の出身の方が私にこう教えてくれました。徳之島ではハブが出るので草地には入らないようにしているとのことです。

私たちの主は、罪の危険となって永遠の破滅を起こしうるものであるならば、霊魂を失うよりは罪の機会を捨て去ることを勧めています。引用します。「右の目がつまずきになるなら、抜き出してすてよ。あなたにとって、全身がゲヘンナに投げこまれるより、体の一部をうしなう方が、ましである。右の手がつまずきになるなら、切りすてよ。全身がゲヘンナにいくよりは、体の一部をうしなう方が、ましである。」(マテオ5:29)目や手という大切なものであっても、永遠の命を失ってしまうよりは、それを捨てるほうがまだましであると言う言葉は、永遠の命を得るためであるなら、私たちは罪の機会を捨てる覚悟ができていなければならないということを教えています。

【2:貞潔に反する罪、信仰に反する罪】
私たちが避けなければならない罪の機会のうち、特に重要なのは貞潔に反する罪と信仰に反する罪に関する機会です。

聖アウグスチヌスは、不潔の罪は全ての人々に対して戦いを挑むが、それに対して勝利を収める人は少ない、戦いはよくあるが、勝利は稀だ、と言っています。だからこそ、私たちはこの罪の機会を避ける必要があるのです。聖イエロニモは、この戦いに勝つための聖寵を得るには、罪の機会を避けることによって、貞潔の徳を実践することによって、与えられると言います。

イザヤの預言によると「全ての肉は草だ」(40:6)とあります。聖ヨハネ・クリゾストモは、純潔の徳を保つことができると期待して罪の機会に身をさらすことは、火が付いたたいまつを藁につけても燃えないでいると期待するかのようだ、と言っています。

聖ベルナルドは、罪の機会に身をさらしながら貞潔を守るとしたら、死者をよみがえらせるよりも大きな奇跡だと言っています。

信仰に反する罪の機会も同様です。

聖アルフォンソはマウリタニアにいる熊がどうやってサルを捕まえるかという例を出しています。そこのサルは熊を見るとすぐ木に登って逃げます。すると熊はあたかも死んだかのように地面に寝転ぶのです。サルが木から降りるのを待って、近づいてきたところを飛び起きて捕まえてサルを食いつくしてしまうのです。聖アルフォンソは、悪魔も同じことをすると言います。時には誘惑は死んだかのようにおもわれますが、霊魂が安心して罪の機会に近づいてくると、誘惑は霊魂に飛びついてとらえるのです。

主は祈る時に「我らをこころみにひきたまわざれ」と祈れと教えてくださいました。

【3:遷善の決心】
罪の機会を避ける霊魂に、天主はその現存をもって留まられます。では私たちにとって罪の機会はなんでしょうか。避けるべき罪の機会とは何でしょうか。

捨てなければならないテレビ、映画、インターネット、悪しき友人、悪しき場所、悪しき交際は私たちにとって何でしょうか?
また私たちにとってカトリック信仰を危険にさらすような機会とはいったい何でしょうか?

マリア様にお祈りいたしましょう。聖母の御取り次ぎによって、私たちが罪の機会を避け、主の現存をいつも保つことができますように。

「弟子たちが集まっていたところの戸は、ユダヤ人たちを恐れて閉じられていたが、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」と仰せられた」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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