イエズスの聖心は、無限の愛によって、私たちを養い天国に導くために、ご自分に代わって働く良き牧者たちを与えることを欲した。それがカトリック司祭たち。
2023年4月23日説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年4月23日復活後第二主日、良き牧者の主日です。
【1:良き牧者であるイエズス・キリストの特徴】
「良き牧者は羊のために命をあたえる。」
イエズス・キリストは、私たちのために十字架の上で命を与え、御自分の御体と御血を、秘跡を通して、贖われた羊である私たちに与えておられます。
ですから良き牧者は、狼が来ても、危険の時でも、逃げません。羊のことを心にかけているからです。「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命をあたえる。」
「私は良き牧者で、自分の羊を知っている。」
良き牧者は、羊が必要とするものが何か、羊にとって最も良いものは何かを知っています。主は、御自分の愛する者たちを一人ひとり知っておられ、主の羊たちもまたイエズス・キリストの声を知って聞き分けます。しかし、雇い人は羊のことを心にかけず、知りもしません。
【2:良き牧者は羊を牧する:】
主は、この地上で良き牧者として羊である私たちに、真理の御言葉を教え、罪の赦しを与え、慰めを与え、ご自分を十字架のいけにえとして捧げました。主は、世の終わりまで、羊である私たちを愛し、私たちを牧することを望まれます。
しかし「キリストは、苦難をうけて栄光にはいるはず」(ルカ24:)でした。そこで、イエズスの聖心は、無限の愛によって、私たちを養い天国に導くために、ご自分に代わって働く良き牧者たちを与えることを欲しました。そのために永遠の大司祭である主は、憐れみ深い愛によって、司祭というものを創り上げました。それがカトリック司祭です。
キリストの教会に、司祭たちが存在するのは、この地上で、私たち人間に対する主の愛の業をたゆまずに続けるためです。つまり、真理の御言葉を教え、罪の赦しを与え、慰めを与え、ご自分を十字架のいけにえとして捧げつづけるためです。
(1)イエズス・キリストは、この地上で真理の言葉を教えました。天国への道を指し示しました。何故ならば、私たち人間は、超自然のことにあまりにも無知であるからです。罪や情欲のために、知性が暗んでしまっているからです。洗礼を受けた後であってさえも、不確実なことや世俗の誘惑の闇に包まれています。
司祭は、霊魂たちにイエズス・キリストの輝く真理を教えます。天主への崇高な道を指し示します。司祭の使命は、変わらない普遍の真理を教えることです。まことの良き牧者であるキリストの声を響かせることです。罪の醜さを教えて、聖徳の美しさを知らせます。天主の御旨を伝えます。「私は良き牧者であり、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。」
(2)イエズス・キリストは、この地上で罪を赦しました。何故ならば人祖アダムとエワの罪によって、その子孫である私たちは悪と罪に対する悪い傾きをもって生まれて来たからです。人間は全て弱さをもっているからです。洗礼によって超自然の聖寵を受けた後でさえも、残念なことに、罪を犯して私たちは霊魂を汚してしまいます。
司祭は、イエズス・キリストのいとも尊き御血の功徳を委ねられたものとして、罪の傷を負う霊魂を癒します。秘跡という天主の薬をつかって、特に洗礼の秘跡、そして悔悛の秘跡という二つの秘跡によって、成聖の聖寵を回復させ天主の命を与えます。「私は、羊に命を、豊かな命をあたえるために来た。」
(3)イエズス・キリストは、この地上で慰めを与えました。何故なら、原罪の結果を身におびる私たちは、労苦と悲しみに取り囲まれているからです。昨日は恐れと疑いに悩み、今日は不安と涙に明け暮れ、そして明日は病と死に苦しむからです。主は、とくに御復活をもって悲しみを喜びに変えられました。
司祭は、超自然の慰めを霊魂たちに与えます。司祭は苦しみが持っている価値を人々に知らせます。今の悲しみの報いとして永遠の喜びがあるという希望を与えます。天主の憐れみ深い愛とは何か、を指し示します。孤独や苦痛に苦しむ霊魂たちに主の無限の愛の深みを見せます。「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。」
(4)イエズス・キリストは、天と地とを結ぶ架け橋である十字架のいけにえとしてご自分を捧げました。何故なら、人間は天主なしには何もできないからです。天主を離れては、人間は苦しむだけだからです。それにもかかわらず、人間は、天主に近づこうともせず、人間の憐れさ・みじめさはあまりにもひどい状態であります。さらに、天主の聖性と真理と正義は、あまりにも偉大で清らかでそして高くそびえたっているので、人間が天主に近づくためには、天主と人間との間を橋渡しする仲介者が必要です。天と地を結ぶ方、それが大司祭イエズス・キリストです。しかも、キリストと人間との間でさえも、人間はあまりにも罪に深く陥っているので、キリストと人間とを結ぶ仲介が必要です。それがカトリック司祭です。
司祭は、聖別された手で御聖体に触れて、天主なるいけにえであるイエズス・キリストを天に捧げます。カトリック司祭職の最大の聖なる務めは、十字架の流血の犠牲を、無流血のやり方で秘跡的に再現することです。つまりミサ聖祭です。天主に嘉される唯一のいけにえが祭壇上に捧げられるとき、この地上に無限の憐みがあふれるばかりに注ぎ込まれます。「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命をあたえる。」
【3:現代世界はカトリック司祭を必要とする】
現代世界は、ますます天主の愛から離れて遠くに行こうとしています。その結果、人間はますます苦しんでいます。多くの羊たちは、狼の餌食になって滅ぼされています。真理の御言葉がこの世の精神と嘘によってかき消されているからです。罪が良いことであるかのように宣伝されているからです。この世のはかない虚ろな楽しみだけしか慰めとして与えられていないからです。自分のやりたいことだけをするのが良いことであるとして、苦しみが最大の悪であると教えられているからです。
現代の人々は天主の愛を知りません。人間を愛するがあまりに人間となった天主のことを知りません。現代人は、天主など存在しないと言い張ります。それどころか天主の地位を奪おうとさえしています。現代人は、自分こそが神だというからです。何が善で何が悪かを決定するのは私だ、と言います。
「私は、やりたいことをする。自由だ。男であるか女であるかも自分で決定するし、決めることができる!子供が生まれるか、生まれないかも、私が決める。避妊薬を飲む、堕胎薬を飲む、堕胎手術も自由にする権利がある。自由だ。」と言っています。
さらには、「快楽さえあれば子どもはいらない。結婚もいらない。自由だ。パートナーは男だろうが女だろうが何人だろうが自由に選ぶ。」
その結果、現代人は「天主によって愛された子供、天主の子供たち」という高貴な地位から、単なる消費者になりさがっています。さらには生産者になって、お金で買うことができる「労働力」となりました。つまり奴隷です。いえ、奴隷以下です。人間は「商品」「製品」に成り下がっているからです。つまりモノです。
たとえば、現代人はこう言います。子どもが必要なら、工場製品のように部品を買って生産すればいい、と。子供を人工的に「生産」すればいい、と考えているからです。子どもたちは受精卵の時に、「生産品」として凍結させられて、実験のために使われて、そして不要になれば廃棄されています。モノ以下です。
また子供たちは、モノであるかのように、お金で買われて、同性愛カップルによって育てられています。そうしてそのようにして生まれてきて買われてきた子供たちは、自分の本当の父親と母親について知る権利を奪われています。父親と母親と一緒に生活する権利を否定されています。
天主を知らない人間は、モノ以下で、必要がないとさえ考えられています。たとえば多くの子供たちは、生まれる前から、お母さんのおなかの中にいながらでさえも、自分の親から捨てられています。親は子供を邪魔だと考えて、殺害します。堕胎です。選択の自由だと言います。親に自分勝手に子供を殺す権利があると言っています。犠牲者となった子供たちの数は、過去の大戦争の犠牲者の数を遥かに超えています。生まれてきた子供たちも、親の離婚によって孤児となっています。
日本でも同じです。子供はモノ以下だと考えられています。一昨日、2023年の4月21日、人工妊娠中絶を薬で行う「経口中絶薬」について、厚生労働省の分科会は国内で承認することを了承しました。今後、厚生労働省が正式に承認の手続きを行うとのことです。
生まれてきた子供たちは、幼少のころから、幼稚園や小学校でポルノのような性教育を受けています。自分の性別を自分で決めることができると教えられて、ホルモン療法や外科手術を受けることが合法的にできるとされています。多くの子供たちは、幸せな純粋な幼少期を奪われています。
現代世界こそ、天主へと立ち戻って、主の愛を知らなければならない時代はありません。人間は、主から離れれば離れる程苦しみ、本当の天主の愛に近づけば近づくほど、幸せになるからです。
では私たちはそのためにどうすればよいでしょうか?イエズス・キリストは、主に近づくために必要な全てを与えてくださっています。主の御聖体と主の司祭職です。イエズスの聖心がお望みの通りの、聖伝のミサと聖伝の司祭たちです。人間が天主に戻ることによって、本当の命と本当の完成を得ることができます。それと同じように、司祭も、イエズスの聖心に近づくことによってのみ、本当の司祭生活の本当の命と完成にたどり着くことができるのです。
良き牧者としてのイエズスの愛を続けるために、主の聖心を愛する司祭たちを、主は求めています。イエズス・キリストがこの世に来た目的、つまり霊魂の永遠の救いのために、主に協力する司祭たちをカトリック教会は必要としています。そのような司祭たちを全世界は探し求めています。
もしも主への愛のためではなくて、この地上の利益のために、あるいは地上のイデオロギーのために、主の羊の世話をするならば、これは牧者ではなく、雇い人です。なぜかというと、雇い人は、天主ではなくて、地上のことを求めているからです。天主以外のことを愛しています。
もしもイエズス・キリストが蔑(ないがし)ろにされるならば、御聖体が敬われないならば、ミサ聖祭が世俗化してしまうならば、ミサが人間中心のただの食事会になってしまうならば、司祭が社会活動家になりさがってしまうならば、その時司祭はこの地上のために働くことになってしまいます。つまり、その時、司祭は良き牧者ではなく、雇い人です。ですからもしもイエズス様をないがしろにして、「洗礼を受けることは大切だが、教会の他にも救いはあるし、神は神だけが知っている方法で、他の宗教の人たちも救うに違いない」というようなひとがいたら、そのような声は主の声ではありません。主はこう言われているからです。「まことにまことに私はいう。私は羊の門である。(…)私を通って入ってくる人は救われる、出入りして牧草を見いだすだろう。しかし、盗人は、盗み、殺し、ほろぼすためだけくる。」これが主の御言葉です。
【4:良き牧者に従う21世紀の司祭たち】
イエズスの聖心は、憐れみ深い愛に満ちておられ、司祭を通して羊たちに豊かな命を与えることをお望みです。今日、良き牧者の主日に、主に祈りましょう。私たちに多くの聖なる司祭を与えてくださるように祈りましょう。イエズス・キリストを愛し、霊魂たちに、つまり主の羊たちに、イエズス・キリストを、全てを与える司祭が与えられますよう祈りましょう。御聖体、ミサ聖祭、秘跡、悔悛の秘跡を聖なるものとして、大切にする司祭たちが多く与えられますように、祈りましょう。
このお説教を聴いてくれている青少年たちに言います。最も気高いこと、最も崇高なことのために人生を使ってください。主が、私に何をすることをお望みなのか、よく祈ってください。
将来、宇宙の秘密を探って多くの人々に素晴らしいことを教える先生や教授や博士になりたいと思いますか? 最高の真理は永遠の真理の御言葉です、イエズス・キリストです。世界中の多くの人々に、イエズス・キリストを教えてください。
将来、医者となって病気に苦しむ人々を助けたいと思いますか? 最高の健康は霊魂の命の救いです。最高の薬はイエズス・キリストがくださる秘跡です。世界中の多くの人々が永遠の命を得ることができるように助けてください。
将来、食べ物を生産し、よい製品を作って、建築し、人々の役に立ちたいと思いますか? 肉体の必要を満たすことも大切ですが、霊魂の必要を満たすことはもっと大切です。肉体のことがうまくいくためには、霊魂のことがうまくいかなければならないからです。霊魂の良き牧者となってください。
将来、音楽や文学、芸術やスポーツを究めることで人々に喜びや慰めを分かち合いたいと思いますか? 限りある喜びではなく、無限の歓び、地上の物が与えることができない慰めがあります。イエズス・キリストは司祭を通してそれを私たちに与えようとしています。
将来、警察や消防あるいは自衛隊に入って、あるいは政治家となって、自分の命を捧げて、地域や国の安寧や福祉のために働きたいと思いますか? 自分の命と一生を捧げる最高の価値があるのは、天主です。なぜなら、天主こそが究極の幸福と平和の源だからです。
最後に聖母に祈りましょう。良き牧者イエズス・キリスト、最高の司祭イエズス・キリストは、聖母によって私たちに与えられました。イエズス・キリストに続く聖なる司祭たちが、良き牧者たちが、私たちに与えられますように、聖母が主に取り次いでくださりますようにお祈りいたしましょう。
「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命を与える。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。