イエズス・キリストは慰めをお与えになる。カトリック司祭を通して、カトリック聖伝のミサを通して私たちを慰め、悲しみを喜びに変える。
2023年4月30日 復活後第三主日説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2023年4月30日、御復活後第三主日です。
先週私たちは、主イエズス・キリストが良き牧者であるということについて一緒に黙想しました。
主は、この地上で、良き牧者として、羊である私たち人類に、(1)真理の御言葉を教え、(2)罪の赦しを与え、(3)慰めを与え、(4)ご自分を十字架のいけにえとしてお捧げになりました。
今日の福音を見ると、良き牧者である主が、どれほど偉大な慰め主であるかということが分かります。何故なら、主は使徒たちにこう言われたからです。引用します。「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。(…)あなたたちも今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」引用を終わります。
今日は、私たちに慰めを与える良き牧者イエズス・キリストについて黙想いたしましょう。
なぜ、私たちには慰めが必要なのでしょうか?どのような慰めが必要なのでしょうか?
イエズス・キリストは現代の私たちにどのようにしてご自分の慰めをお与えになろうとされるのでしょうか?
【1:私たちの苦しみ】
人間は元来、苦しむためには創られてはいませんでした。苦しみとは、永遠の愛である天主に、自由を乱用して背いた堕天使たちのためのもの、つまり天主に歯向かって謀反を起こして天主を永遠に憎しみ、悪魔となった天使たちのためのものでした。
ところで人間は、犬や猫のようなご飯を食べてそれで満足する動物ではありません。天主は、無限の愛で、ご自分の似姿と肖像によせて人間をお創りになりました。つまり人間は天主の最高の無限の喜びを天主とともに分かち合うことができる存在として創られたのです。
人間の体の完璧な構造や器官や感覚、これは喜びと幸せを敏感に感じ取るようにできていました。しかし罪を犯したがために、天主の愛の計画は破壊されてしまいました。罪のために人間は、疲労を感じ、病気を患い、痛みを感じるようになりました。
人間の心はいわば繊細なハープのように、天主のやさしい御手に触れて、美しい喜びのメロディーを奏でることができるようにできていました。しかし、天主よりも被造物を愛して罪を犯したがために、被造物の乱暴な手は人間の心をかき乱してしまいました。冷たい忘恩や裏切りによって人は傷つき、妬みや恨みに心を痛め、いじめや嫌がらせに涙し、悪意や憎しみに悩み、騙しや疎外に苦しみ、孤独に悲しみ、死別に泣き崩れるようになってしまいました。
人間の霊魂は、天主の愛を深く知り愛し、味わい、崇高な喜びを楽しむことができるように創られていました。人間の知性は永遠の天主の神秘を深く理解して、そして人間の意志は天主を強く愛する力が与えられていました。しかし罪を犯したために、霊魂は麻痺してしまい、悲しみに落ち込み、知性は暗み、記憶は衰え、意志は弱くなってしまいました。
人間は生まれた時から涙を流し、幼年期も青年期も、そして大人になっても、労苦と失意に取り囲まれています。失敗と幻想を味わいます。老年には、孤独と力の衰え、後悔と死の苦しみを受けなければなりません。これらの全ての苦しみの原因は罪です。罪のために人間は苦しみ悲しむ存在となってしまいました。
人間は悲しみと苦しみの重荷を一人で担ぐにはあまりにも弱く、友人や相談相手が必要です。手を差し伸べて引き起こしてくれる、励ましの声をかけてくれる、勇気づけてくれる、そして悩みを聞いてくれる友の心がなければなりません。私たちの悲しみを和らげてくれる方がいなければなりません。しかも、罪という根本から生じた苦しみを和らげてくださるような方は、一体どこにいるのでしょうか?
【2:主は私たちの苦しみを慰める】
人間の苦しみを本当に慰めてくださる方は、イエズス・キリスト以外にはありえません。主こそ、上っ面ではなく心底からの慰めの与えぬしです。良き牧者である主は私たちの苦しみをまた悲しみを深くよーくご存じです。主は私たちを慰めようとしてこう言われます。主の言葉を引用します。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう。」(マテオ11:28)引用を終わります。
イエズス・キリストの来られる前は、人間にとって苦しみとは屈辱的なことでした。悲しみは恥ずかしいことでした。病気は苦痛でした。嘆きは虚しい叫びでした。しかし、主は苦しみとは何かを教えようとして、公生活の最初からこう言われました。引用します。「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。(…)悲しむ人はしあわせである、かれらは慰めをうけるであろうから。(…)正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。」(マテオ5:3, 5 & 12)引用を終わります。
私たちのこの世での苦しみはあまりにも多く、悲しみはあまりにも深く、癒されることができないかのようにさえ思われていました。しかし主はこう言われます。「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」主は悲しみを喜びに変えられます。主には不可能なことがありません。
イエズスとともにイエズスのために苦しむことには、計り知れない価値があります。主に捧げられた苦しみは罪を償い、聖寵を勝ち取り、功徳を積み、永遠の栄光の巨大な重さとなるからです。聖パウロはこう言います。引用します。「私たちが受ける短く軽い患難は、はかりがたいほど大きな永遠の光栄を準備する」(コリント後4:17)と。聖ペトロもこう言います。引用します。「キリストの苦しみに与れば与るほど喜べ。そうすれば、あなたたちは、光栄のあらわれのとき、喜びに喜ぶ。」(ペトロ前4:13)引用を終わります。苦しみの超自然的な意味を知るのは、私たちにとってはなんと大きな慰めでしょうか。
しかも、苦しみや悲しみは、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストのために捧げるのならば、栄光の原因にさえなるということを教えるために、言い換えれば、私たちの労苦の持つ価値がどれほど大きなものであるかを教えるためには、主は苦しみや屈辱を、十字架の死に至るまで、喜んで受け取られ、光栄ある復活に変えてくださいました。私たちにも同じことが起こると模範を示すためです。苦しむ私たちにとって、何という慰めでしょうか。
【3:主はご自分の弟子たちを特別に慰める】
いま申し上げたことは単なる理論ではありません。イエズスの愛の初穂です。イエズスがこの地上で生活を送っておられた時のことを福音に従って少し振り返ってみましょう。主は、特別の憐れみ深い愛で、弟子たちを慰めたことが分かります。特に病の人々に対する主の同情は深く、多くの病人を癒されました。たとえばカファルナウムの王官の病気の子供を、主は「あなたの子は生きている。行きなさい!」(ヨハネ4:50)と言われて癒しました。イエルザレムの羊門のそばのベザタという池で、三十八年来病気になやんでいる男を主は癒しました(ヨハネ5:6)。
主は、愛する人の死によって悲しみに沈む人々を慰めようと、ご自分の全能の力で死者を生き返らせもしました。ヤイロの一人娘の手をとり「子どもよ、目をさませ!」とお呼びになると、死んでいた娘はすぐにおきあがりました(8:50)。ナイムの寡婦の一人息子に「青年よ、私がいう。起きよ!」とおおせられると、死人は起きなおりました(ルカ7:11-17)。死んだラザロ(ヨハネ11:33-38)の時にも同情の涙を流された主イエズスは、目をあげて祈り「父よ、私のねがいをききいれてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたが常に私の願いをききいれてくださることを、よく知っています」と言って祈ったのちに、「ラザロ、外に出なさい」とおよびになってラザロをよみがえらせました。
そればかりではありません。主はさらにご自分の弟子たちをやさしく励まします。ある日弟子たちが少数で貧しく力が無いのを悲しんでいるのを見て、主は彼らを励ましてこう言われました。「おそれるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国をくださろうというのは、あなたたちの父のおぼしめしである。」(ルカ12:32)と。
世の終わりにはおそろしいことが続いて起こるだろうと話された時には、弟子たちを励まして主はこう言われました。「こういうことが起りはじめたら、あなたたちは身を立てて頭をあげよ。あなたたちの救いは近づいたのだから。」(ルカ21:28)と。
主が、これから御受難に入り、御父のもとに行く時が来たと知ると、愛する弟子たちにこう言って慰めます。「心をさわがせることはない。天主を信じ、そして私をも信じよ。(…)私は帰ってくる。私がいる所に、あなたたちもいさせたいからである。(…)私は、あなたたちを孤児にしてはおかない、また帰って来る。」(ヨハネ14:1,4, 18)
主は、御聖体を制定して、御聖体において世の終わりまで私たちとともにとどまり、慰め主である聖霊を送ることを約束されます。主は、御受難の真っ最中であっても、ご自分のことを忘れて悲しむ人々を慰めます。重い十字架に押しつぶされながらもエルサレムの婦人たちを慰めます。十字架に付けられながら罪を痛悔する盗賊を励まし、主と共にいる喜びを告げます。主は右にいる痛悔する盗賊にこう言われました。「まことに私はいう。今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」(ルカ23:43)と。一人取り残される聖母には、ヨハネを息子として、またヨハネには聖母を母としてお与えになりました。全てをご存知の主は、私たちが天国の幸せに至るために最も必要なものをお与えになろうとしておられます。
【4:良き牧者であるイエズス・キリストの業を続けるカトリック司祭】
主はたとえ昇天されても、私たちを孤児にしようとはされませんでした。何故なら、御聖体においてとどまられ、聖霊を教会に送り、カトリック司祭を創ったからです。
イエズス・キリストの代理として苦しみを慰める司祭の使命とは、どれほど崇高で美しいことでしょうか。イエズスの聖心に倣って、司祭は愛する兄弟姉妹たちの苦しみをよく知らなければなりません。とりわけ罪の結果として苦しみと悲しみとが人類を飲み込み、深く潜んでいることをよく理解しなければなりません。それと同時に、イエズスと一致して捧げられた苦しみの本当の価値を司祭は深く知らなければなりません。
イエズスの聖心と同じ憐れみ深い心、イエズスのような親切と同情と忍耐に満ちた心、貞潔で純潔な心で、司祭は苦しむ霊魂たちに接しなければなりません。イエズスがなさったように、悲しむ心に超自然の喜びを与える必要があります。人間的な慰めではなく、天主から出る超自然の慰めです。イエズスの聖心からの超自然の慰めです。人間の与える慰めではなく、聖心から流れ出る喜びと希望を伝えるのです。イエズスの聖心と親密に一致しているからこそ伝えることができる慰めです。
カトリック司祭が教えるべき教えは、主の御教えの真理です。天主から教えられた真理です。司祭が与える罪の赦しは、イエズス・キリストの与える赦しです。司祭は、イエズス・キリストのペルソナにおいて聖変化を行い、罪の赦しを与えます。ですから司祭が与えるべき慰めも、イエズス・キリストの超自然の慰めでなければなりません。
ではどうしたら司祭はそんなことができるのでしょうか?その秘訣は、聖伝のミサです。
(1)聖伝のミサは、つまり、カトリック教会が二千年の間捧げ続けてきた使徒継承のミサ聖祭は、十字架のいけにえの再現です。もっと正確に言うと、十字架の犠牲を私たちの目の前に秘跡的に現存化させること、それがミサです。聖伝のミサには十字架の犠牲とまったく同じ無限の価値があります。私たちが日々犯す罪の赦しを受けさせ、罪の傷をいやす効果があります。聖伝のミサでは、私たちは罪人であることを認め、罪の結果苦しみを受けていることを受け入れます。
(2)また聖伝のミサでは、司祭は叙階の秘跡を受けたイエズス・キリストの代理です。イエズス・キリストのペルソナにおいてミサ聖祭を執行する者です。司祭は集会の座長ではありません。ミサ聖祭のとき、司祭は信徒に対面しません。キリストのほうを向きます。司祭も信徒も、同じく十字架上のイエズス・キリストを向きます。司祭も信徒も、天国に向かって巡礼を行う旅人だからです。私たちは地上のことではなく天国を目指しているからです。司祭は、イエズス・キリストと信徒との仲介者として、その中間に立ちます。聖伝のミサではイエズス・キリストが中心だからです。イエズス・キリストを目指しているからです。
(3)また聖伝のミサでは、御聖体がイエズス・キリストのまことの御体であるとして礼拝されています。跪いて礼拝し、イエズス・キリストを唯一のまことの天主、私たちの王であると認めて、主にあわれみをこい願います。つまり、イエズス・キリストからの超自然の恵みを懇願します。
しかし1970年にミサが新しくなって、(1)ミサは十字架のいけにえの再現つまり秘跡的な現存化ということから、主の晩餐の記念、あるいはその再現つまり上演あるいは叙述になってしまいました。(2)また新しいミサとは、主の晩餐を記念するために集う、司祭を座長とする神の民の集会とされました。つまり人間が中心になってしまいました。(3)新しいミサでは御聖体がイエズス・キリストのまことの体であるというよりはシンボルであるかのようになってしまいました。そこでミサをこのように説明する人がいます。「パンとぶどう酒を共に食し、共に飲むことによって信者のひとりひとりがキリストの体につらなり、ひとつの共同体として交わりの中に入れられていることを確認する儀式」と。つまり別の言い方をすると、プロテスタントの聖餐式の概念と置き換わってしまったのです。これはあるカトリック教会のウエブサイトからの説明を引用しました。
その結果、新しいミサに与っているうちに、残念ながら多くの方々は、私たちが罪人であるということの意味、主の十字架と私たちの苦しみの価値、御聖体が何であるか、司祭とは何であるか、などがますます分からなくなってしまいました。
私自身、昔、何十年も前のことですが、こんな愚痴を聞いたことがあります。贈り物として大きな十字架像を受けるのは縁起が悪い、とか、あるいは病気の自分に「苦しみをお捧げしてくださいね」という人がいたが、なぜキリストは私の病の苦しみを直してくれないのか。などと言う愚痴です。そのようなことを聞くと、主の十字架の左につけられた盗賊の言葉を思い出します。「『あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救ってくれ』といって悪口をあびせた」と、聖ルカにはあります。
ですから、カトリック司祭が、私たちにイエズスの聖心からの慰めを与えることができるようになるためには、どうしても聖伝のミサ聖祭が必要です。
【5:遷善の決心】
愛する兄弟姉妹の皆様、罪のゆえに私たちは苦しみ悲しんでいます。罪人である私たち人間には超自然の慰めが必要です。まことの天主だけが私たちに与えることができる、喜びと希望と平和の慰めが必要です。
主の御復活によって、主の死を悲しむ弟子たちの悲しみは、喜びに変わりました。また、涙の谷にいる私たちの苦しみも、あっという間に終わりを告げ、義人の苦しみは永遠の無限の喜びに変わります。この喜びは、イエズス・キリストだけが私たちに与えることができます。主は、これを司祭を通して与えることをお望みです。
教会は、聖伝のミサを通して、使徒継承のミサを捧げる司祭たちを通して、この超自然の慰めを与え続けてきました。霊魂たちがこの地上での苦悩の末に、ついに永遠の幸せの命に生まれる時、母なるカトリック教会は喜びに満たされます。その時、私たちの心は喜び、その喜びはもはやうばわれることはありえません。
良き牧者イエズス・キリストの聖心の憐れみ深い愛を感謝いたしましょう。主に祈りましょう。主の聖心に倣う多くの聖なるカトリック司祭たちを私たちにお与えてくださいますように祈りましょう。日本から多くの聖伝の司祭たちが生まれ出ることをこい求めましょう。
最後に聖母に祈りましょう。5月は聖母の月です。司祭たちが十字架のもとに聖母とともに立ち留まりますように、また司祭たちが聖伝のミサを忠実に守りますように聖母の御取り次ぎを求めましょう。
「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。(…)あなたたちも今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。