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ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

バチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」の声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを知る必要がある。

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Cardinal Müller tells Pope Francis: Blessing homosexual couples is ‘impossible’ and ‘blasphemy’

ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

「祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものである。この秩序は、一つの肉体となるよう呼ばれている男と女の性的差異に基づいている。創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある」。

アンドレアス・ヴァイルツァー

米東部標準時間2023年12月21日(木)

(LifeSiteNews)―ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、論争を呼んでいるバチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia Supplicans、FS)に反対して回答を発表し、同性愛カップルの「祝福」は「冒涜」に当たるとし、同文書は「自己矛盾」に陥っていると述べた。

今日、4カ国語で複数の報道機関に発表された長い反論の中で、ミュラーは、「結合やカップルを祝福することの難しさは、同性愛の場合に特に明白である」と説明した。
「聖書において祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものだからである。この秩序は、一つの肉体になるように呼ばれている男と女という性的差異に基づいている」。
「創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある」。
「これを踏まえて、忠実なカトリック信者はFSの教えを受け入れることができるか」とミュラーは自問した。
「キリスト教信仰における行いと言葉の一致を考えると、司牧的な方法であっても、そのような結合を祝福することは良いことだと受け入れることができるのは、そのような結合が客観的に天主の法に反していないと信じる場合にのみである」。
「教皇フランシスコが同性愛の結合は常に天主の法に反すると断言し続ける限り、彼はそのような祝福は与えられないと暗に断言していることになる。したがって、FSの教えは自己矛盾に陥っており、そのためさらに明確化する必要がある」。
「教会は、一つのことを祝福しつつ、別のことを教えることはできない。なぜなら、アンティオキアの聖イグナチオが書いているように、キリストは『仰せられるとその通りになった』教師であり、キリストの肉と言葉を切り離すことはできないからである」。

12月18日(月)、バチカンは、非常に論争を呼んでいる文書「フィドゥチア・スプリカンス」を発表することで、メディアの大炎上を引き起こした。この文書は、以前は禁じられていた同性カップルの「祝福」を一定の条件のもとで認めるように見える一方で、その祝福はカトリックの道徳的教えと矛盾しないと主張している。それ以来、カザフスタンのペタ大司教やシュナイダー司教マリアン・エレガンティ司教カルロ・マリア・ヴィガノ大司教ら複数のカトリック司教が、熱い論争を呼んでいる新しい宣言への批判を表明している。フェルナンデス大司教が署名し、教皇フランシスコが認可した、この教理省(DDF)の宣言は、ドイツ、オーストリア、スイスの異端的な司教たちに歓迎された。同時に、マラウイザンビアカザフスタンの司教は、「フィドゥチア・サプリカンス」に対応して、それぞれの教区で同性カップルの「祝福」を禁止した。

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マリアン・エレガンティ司教

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マラウイの司教たち

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ザンビア

以下は、バチカンの宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)に対するゲルハルト・ミュラー枢機卿の回答の全文である。

母なる教会の唯一の祝福は、私たちを自由にする真理である。宣言「フィドゥチア・スプリカンス」に関する注釈

ゲルハルト・ルートヴィヒ・ミュラー枢機卿

祝福の司牧的意義に関する宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans、FS)をもって、教理省(DDF)は、カトリック教会の教えにおいて前例のない断言を行った。実際、この文書は、同性カップルを含む婚姻外の性的関係で生きているカップルを司祭が祝福すること(典礼的ではなく私的に)は可能である、と断言している。これらの声明に対して司教、司祭、信徒から出された多くの質問は、明白でありかつ曖昧でない回答を得るに値する。

この声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを見てみよう。

この文書は、この省【教理省】の枢機卿・司教総会では審議も認可もされなかったが、この文書が提案している仮説(あるいは教えなのか)が新たなものであること、また、この文書が主に教皇フランシスコの司牧的教導権に基づいていることを認めている。

カトリックの信仰によれば、教皇と司教たちは、キリスト教人間学の基本原則を尊重しつつ、一定の司牧的な強弱をつけることができ、啓示の真理を、例えば社会教理や生命倫理の分野のように、各時代の新たな課題について創造的に語ることができる。しかし、このような革新物は、使徒たちによって天主の言葉としてただ一度だけ教皇や司教たちに啓示されたことを、超えることはできない(啓示憲章[Dei verbum]8番)。事実、FSの結論を支持する聖書のテキスト、あるいは教父や教会博士のテキスト、あるいは教導権による過去の文書は存在しない。

さらに、私たちが見ているものは発展したものではなく、教理的に飛躍したものである。なぜなら、教理の発展とは、新しい説明が少なくとも暗黙のうちに啓示に含まれており、何よりも教義上の定義と矛盾しない場合にのみ言えることだからである。そして、さらに深い教理の意味に到達するという教理の発展は、長い成熟期間を経て、徐々に起こったに違いないことである。実のところ、この問題に関する最後の教導権の宣言は、教理省によって3年近く前の2021年3月に発表された「回答」(responsum)の中で出されたものであり、この「回答」はこれらの結合を祝福する可能性を断固として否定している。このことは、罪深い状況で生きている人々のための公的な祝福にも、私的な祝福にも当てはまる。

FSは、以前の2021年の文書と矛盾することなく、新しい教理を提案することをどのように正当化しているのだろうか。

まず第一に、FSは、"2021年の教理省の「回答」と祝福に関する伝統的で有効で義務である教えとの両方が、婚姻外の性的結合の場合のように、天主の法に反する状況での祝福を認めていない"ことを認識している。このことは、秘跡に対してだけでなく、FSが「典礼的」と呼ぶその他の祝福に対しても明らかである。これらの「典礼的」祝福は、ローマ儀式書(Rituale Romanum)に見られるように、教会が「準秘跡」と呼んでいるものに属する。この二つのタイプ【秘跡と準秘蹟】の祝福においては、祝福と教会の教えとの間に一致がなければならない(FS9-11番)。

したがって、福音に反する状況の祝福を受け入れるために、教理省はこれまでにない解決策を提案する。つまり、祝福の概念を広げるのである(FS7番、FS12番)。これは次のように正当化されている。「祝福の意味をこの観点だけに(すなわち、秘跡と準秘跡の『典礼的』祝福に)矮小化してしまう危険性も避けなければならない。なぜなら、秘跡を受ける際に求められるのと同じ道徳的条件を、単なる祝福にも期待することになるからである」(FS12番)。つまり、罪のうちに生きる人々の旅路に司牧的に同行するために、秘跡的な祝福を超えた祝福、新しい祝福の概念を必要とするのである。

さて、現実には、このように秘跡を超えて拡張することは、「ローマ儀式書」で認可されている他の祝福によって、すでに行われている。教会は、秘跡を受ける場合と同じ道徳的条件を祝福に要求はしない。例えば、罪深い状況を捨てたくない悔悛者が、福音の教えを理解してそれに従うための光と力を主が与えてくださるよう、個人的な祝福を謙虚に求めることができる場合である。この場合、新しい種類の「司牧的」祝福を必要とはしない。

では、ローマ儀式書で理解されている祝福が、すでに秘跡で与えられる祝福を超えているのであれば、なぜ「祝福」の意味を広げる必要があるのだろうか。その理由は、ローマ儀式書で考えられている祝福は、「法や福音の精神に反しない事物、場所、状況」(ローマ儀式書を引用したFS10番)に対してのみ可能だからである。そして、教理省が克服したいと思っているのはこの点である。なぜなら、教理省は、同性の関係のような、法や福音の精神に反する状況にあるカップルを祝福したいと考えているからである。教会が既存の準秘跡に「新しい準秘跡」を加えることができる(第二バチカン公会議「典礼憲章」[Sacrosanctum Concilium]79番)のは事実だが、罪を矮小化するような形で、特に信徒をも惑わすようなイデオロギー的色彩の強い文化状況の中では、その意味を変えることはできない。そして、この意味の変更が、まさにFSで起こっているのであり、FSは、教会が理解してきたような秘跡や祝福のいずれにも関連しない、新しい祝福のカテゴリーを発明している。FSが言うには、これらは典礼的ではない祝福で、民間信心に属するものである。そうすると、3種類の祝福が存在することになる。

a)秘跡に関連する祈りであり、その人が秘跡を受けるにふさわしい状態にあるよう願うか、あるいはその人が罪から立ち返る力を受けるよう願う。 b)ローマ儀式書に含まれているように、またカトリックの教理が常に理解してきたように、祝福は、たとえ罪のうちに生きている人であっても、その人に対して行うことができるが、「法や福音の精神に反する事物、場所、状況」(ローマ儀式書を引用したFS10番)に対しては行うことができない。したがって、例えば、中絶した女性を祝福することはできるが、中絶クリニックを祝福することはできない。 c)FSが提案する新しい祝福は司牧的祝福であり、典礼的あるいは儀式的祝福ではない。したがって、「儀式的」祝福やタイプ「b」祝福の制限はない。「儀式的」祝福のように、罪のうちにある人に適用されるだけでなく、福音に反する事物、場所、状況にも適用され得る。

この「c」タイプの祝福、すなわち「司牧的」祝福は新奇なものである。典礼的なものではなく、むしろ「民間信心」に基づくものであるため、福音的な教理を損なうことはないとされ、道徳的規範やカトリックの教理と一致する必要もない。この新しい分野の祝福についてどんなことが言えるだろうか。

第一の観察は、FSが引用した聖書のテキストにも、過去の教導権の声明にも、この新しい用法の根拠がないということである。教皇フランシスコが提示したテキストも、この新しいタイプの祝福の根拠を与えていない。すでにローマ儀式書による祝福(タイプ「b」)は、司祭が罪のうちに生きる人を祝福することを認めているからである。そして、フランシスコが言うように、このタイプの「祝福」は、刑務所や更生保護グループにいる人にも簡単に適用できる(FS27番に引用されている)。これに対して、革新的な「司牧的」祝福(タイプ「c」)は、フランシスコが言うことを超えている。なぜなら、婚外関係のような天主の法に反する現実にこのような祝福を与えることができるからである。実際、このタイプの祝福の基準によれば、中絶クリニックやマフィアグループを祝福することさえできる。

このことは、第二の観察へとつながる。つまり、伝統的な言葉の使い方に反するような新しい用語を発明するのは危険だ、ということである。そのような手続きは、権力の恣意的な行使を生む可能性がある。この場合、祝福には独自の客観的な現実があり、そのため祝福の本質に反する主観的な意向に合わせて勝手に再定義することはできないというのが事実である。ここで、「不思議の国のアリス」のハンプティ・ダンプティの有名なセリフが思い浮かぶ。「ぼくが言葉を使うとき、その言葉はぼくが選ぶとおりの意味になるんだ。それ以上でもそれ以下でもないよ」。アリスはこう答える。「問題は、あなたが言葉にそんなにいろいろな意味を持たせることができるかどうかよ」。するとハンプティ・ダンプティは言う。「問題は、言葉と自分のどちらが主人かっていうことだよ。それだけだ」。

第三の観察は、「典礼的でない祝福」(FS34番)、すなわち何者をも制裁することを意図しない「司牧的」祝福(タイプ「c」)の概念そのものに関するものである。
この祝福は、ローマ儀式書が考えている祝福(タイプ「b」)とどのように違うのだろうか。その違いは、祝福の自発的な性質にあるのではない。自発的な性質の祝福は、タイプ「b」の祝福ですでに可能である。なぜなら、「司牧的」祝福はローマ儀式書で規定されたり認可されたりする必要がないためである。民間信心における違いでもない。なぜなら、ローマ儀式書による祝福は、対象、場所、人への祝福を求める民間信心にすでに適合しているからである。革新的な「司牧的」祝福は、法や福音の精神に反する状況を祝福するために、「特別にこのために」(ad hoc)作られたように思われる。

このことにより、私たちは、この「司牧的」祝福の対象について、ローマ儀式書の「儀式的」祝福とは区別されるという第四の観察に移る。「司牧的」祝福には、福音に反する状況も含まれ得る。ここでは罪深い人が祝福されるだけでなく、カップルを祝福することによって、祝福されるのは罪深い関係そのものであることに注目されたい。ところで、天主は、ご自分に真っ向から反対している関係、ご自分に向かって秩序づけられていない関係に恩寵を送られることはあり得ない。婚姻外の性交渉は、性交渉として、人々を天主に近づけることはできず、したがって、天主の祝福を受けるために開かれることはあり得ない。したがって、もしこの祝福が与えられたとすれば、その唯一の効果は、それを受ける人々やそれにあずかる人々を混乱させることであろう。彼らは、天主が祝福できないものを祝福したと思うだろう。この「司牧的」祝福は、司牧的でも祝福でもない。フェルナンデス枢機卿が、後にInfovaticanaに寄せた声明の中で、祝福されるのは結合ではなく、カップルであると述べたのは事実である。しかし、これは言葉の意味を空しいものにすることである。なぜなら、カップルをカップルとして定義するものは、まさにそのカップルが結合していることだからである。

結合やカップルを祝福することが困難であるのは、同性愛の場合に特に明白である。なぜなら、聖書において祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものだからである。この秩序は、一つの肉となるよう呼ばれている男女の性的差異に基づいている。創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある。もう一度言うが、「結婚とは決して比べることのできない結合のうちに生きる」(FS30番)人々を祝福することが問題なのではなく、結婚とは比べることのできない結合そのものを祝福することが問題なのである。新しい種類の祝福がつくり出されたのは、まさにこの目的のためである(FS7番、12番)。

テキストの中には、これらの祝福を正当化しようとする議論がいくつか登場する。第一に、罪人に責任を負わせるのを軽減する条件があり得るかである。しかし、これらの条件は、関係そのものではなく、人のことを言っている。また、祝福を願うことは、その人たちが現在の条件で実現できる可能な善いことであるとも言われている。これはあたかも、祝福を求めることがすでに天主と回心への扉を開くことであるかのようである。これは、自分自身のために祝福を求める人には当てはまるかもしれないが、夫婦として祝福を求める人には当てはまらない。後者は、祝福を求める際に、暗黙的にせよ明示的にせよ、自分たちの関係そのものを天主の前で正当化しようとするが、その関係こそが、彼らを天主から遠ざけていることに気づいていない。最後に、関係には肯定的な要素があり、それらは祝福され得ると主張されるが、これらの肯定的な要素(例えば、一方が他方を病気で助けるなど)は、性行為の共有が決定的な特徴である関係そのものにとっては二次的なものであり、これらの要素はこの関係の本質を変えることはない。それはいかなる場合にも天主に向けられるものではあり得ないことは、すでに教理省の2021年の「回答」で述べたとおりである。中絶クリニックでさえ、肉体的苦痛を防ぐ麻酔科医や、中絶しようとする女性の生命計画を守ろうとする医師の願いなど、肯定的な要素が存在する。

第五の観察は、この革新的な「司牧的」祝福の内的矛盾に関するものである。典礼的でない祝福、つまり、キリストと教会の教えを公式に代表していない祝福を与えることは可能なのだろうか。この質問に答える鍵は、その儀式が公式に認可されたものなのか、それとも自発的に即興で作られたものなのかということではない。問題は、祝福を与える者がキリストと教会の代表である司祭であるかどうかである。FSは、福音に反する状況に置かれている人々の祈りに司祭が加わることは問題ないと断言している(FS30番)が、この祝福において司祭は単に彼らの祈りに加わるのではなく、むしろ関係そのものに天主の賜物が降ることを呼び求めるのである。司祭が司祭として行動する限り、司祭はキリストと教会の名において行動する。さて、この祝福の意味をキリストの教えから切り離すことができると主張することは、教会が行うことと教会が言うことの間に二元論を仮定することである。しかし、第二バチカン公会議が教えているように、啓示は切り離すことのできない行いと言葉によって私たちに与えられ(「啓示憲章」[Dei Verbum]2番)、教会の告げ知らせは行いと言葉を切り離すことはできない。この文書が民間信心を助長することで好意を示したいと思い、教理に反する象徴的な行いに最も影響を受けて騙されやすいのは、まさに素朴な人々である。なぜなら、彼らは行いの教理的内容を直感的に把握するからである。

このことを踏まえて、忠実なカトリック信者はFSの教えを受け入れることができるだろうか。キリスト教信仰における行いと言葉の一致を考えると、司牧的な方法であっても、そのような結合を祝福することは良いことだと受け入れることができるのは、そのような結合が客観的に天主の法に反していないと信じる場合にのみである。教皇フランシスコが同性愛者の結合は常に天主の法に反すると断言し続ける限り、そのような祝福は与えられないと暗に断言していることになる。したがって、FSの教えは自己矛盾であり、さらなる明確化が必要である。教会は一つのことを祝福し、別の違うことを教えることはできない。なぜなら、アンティオキアの聖イグナチオが書いたように、キリストは「仰せられればそのとおりになった」教師であり、誰もキリストの肉と言葉を切り離すことはできないからである。

私たちが問うたもう一つの質問は、合法的な結婚と共存しているものがあったり、パートナーが変わることが珍しくなかったりするこうした結合を、司祭が祝福することに同意できるかということだった。FSによれば、司祭は、典礼的でなくかつ公式な「司牧的」祝福でこれを行うことができるという。これは、司祭がキリストと教会の名において行動せずに、これらの祝福を与えなければならないことを意味することになる。しかし、これでは司祭が司祭として行動していないことを意味することになる。実際、司祭は、キリストの司祭としてではなく、キリストを拒否した者としてこれらの祝福を与えなければならなくなる。実際、その行為によって、これらの結合を祝福する司祭は、その結合を創造主へ至る道として提示する。したがって、司祭は、創造主の計画に反して、また、キリストの私たちのための死――この死は創造主の計画を成就することを意味する――に反して、汚聖的で冒涜的な行為を犯すことになる。教区司教もこれにかかわっている。地方教会の牧者として、教区司教にはこれらの汚聖的な行為を防ぐ義務がある。そうしなければ、司教はこれらの汚聖的な行為の共犯者となり、兄弟たちを信仰において固めるというキリストから与えられた使命を否定することになるからである。

司祭はすべての人に天主の愛と善意を告げ知らせ、また罪人や弱くて回心が困難な人を助言と祈りで助けるべきである。このことは、天主が罪に対してそれほど多くを要求なさってはいないと、人を惑わすような自らが発明したしるしや言葉で彼らに提示することとは、まったく異なるのである。何故なら、そうすることで、思い、言葉、行いの罪が私たちを天主から遠ざけるという事実を隠しているからである。

天主の聖なるみ旨に客観的に反する罪深い生活状況には、公的にだけでなく私的にも、祝福はない。そして、キリスト教の教理を勇敢に擁護する者たちが、"具体的な人物の救いよりも、律法主義的に自分たちの道徳的規範を満たすことに関心がある硬直した者"という烙印を押されるのは、健全な解釈の証拠ではない。なぜなら、イエズスは普通の人々にこう言っているからである。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。私は心の柔和なへりくだった者であるから、くびきを取って私に習え。そうすれば霊魂は休む。私のくびきは快く、私の荷は軽い」(マテオ11章28-30節)。かの使徒はそれをこう説明している。「その掟は難しいものではない。天主から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者のほかに、(いったい)誰が世に勝てるだろうか」(ヨハネ第一書5章3-5節)。偽りの人間学が、男と女の結婚および家庭と子どもたちという天主の制度を弱体化させている今、教会は、教会の主にしてかしらであるお方の言葉を思い出すべきである。「狭い門から入れ。滅びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。


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