聖なるミサのいくつかの儀式の意味についての説教(2)
ドモルネ神父 2023年12月17日
はじめに
二週間前、私はミサのいくつかの儀式の意味を説明しました。それは、2回の告白の祈り、ミサ典書の移動、ぶどう酒に一滴の水を混ぜること、そして奉献のときのホスチアとぶどう酒への撒香の方法です。他のいくつかの儀式の意味を説明しながら、今日も同じテーマを続けます。
1.ハンク・イジトゥル
ミサの第三部は、序誦からパーテル・ノステルまでです。それは「典文」と呼ばれます。これは、ミサの中で最も重要な部分であり、このとき、司祭がパンとぶどう酒を私たちの主イエズス・キリストの御体と御血に変えます。
司祭は、パンとぶどう酒の全実体変化を行う前に、カリスの上に両手で按手します。この時、ミサの侍者はベルを一回鳴らします。このしぐさにはどのような意味があるのでしょうか。この両手で按手する第一の意味は、私たちの主が御血で私たちの罪をすべて贖ってくださるよう、私たちの罪を主に移すことです。この儀式は、旧約のモーゼの典礼で、すでに天主によって確立されていました。「アロンは、その雄やぎの頭の上に両手を置き、イスラエルの子らのすべてのあやまちと、掟に背いた彼らの罪のすべてを告白して、その罪を雄やぎの頭の上に負わせるよう祈りながら、雄やぎを荒れ野に放つ」(レビ16章21節)。このカリスの上に両手で按手する儀式の第二の意味は、天主への愛のために進んで自らをいけにえにし、天主のお怒りを招くものすべてを進んで自らにおいて滅ぼし、天主に進んで完全に身を捧げるということを知らせることなのです。
司祭は、私たちの罪をいけにえであるキリストに移すと同時に、私たちの主によって行われた贖いの実を私たちに与えてくださるよう天主に祈ります。その実とは、地上の内的・社会的平和、地獄を免れること、天国への入場許可です。
2.2回の聖変化
さて、聖変化について話しましょう。司祭が2回の聖変化を行うのはなぜでしょうか。司祭がパンをイエズスの御体に、そしてぶどう酒をイエズスの御血に変えるのはなぜでしょうか。聖変化の後、私たちの主は、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、ホスチアの中に完全に現存されています。では、ホスチアだけを聖変化させ、そうすることでイエズスを天主に捧げるだけで、十分ではないでしょうか。いいえ、それだけでは十分ではありません。ミサは十字架のいけにえの更新であり、ミサの間に、イエズスは御父への愛のために、ご自身をいけにえとされ、すなわち、十字架上で行われたように、ご自身の命を捧げられます。従って、ミサの間に、このいけにえが実現されるものだと知らせなければなりません。しかし、それは2回の聖変化によって知らせるのです。司祭は、まずパンをイエズスの御体に変え、次にぶどう酒をイエズスの御血に変えることによって、イエズスの御体と御血を分離します。人の体の血をなくしてしまうことは、その人を死なせることです。ですから、2回の聖変化によって、司祭はイエズスの十字架上の死を神秘的に知らせ、それを実現させるのです。
12世紀、ベレンゲルという名前の異端者が、聖変化後のパンとぶどう酒の外観の下にキリストが現存されることを否定しました。この異端に対する反動として、ホスチアとカリスの奉挙の儀式が発展しました。この2回の奉挙の目的は、私たちの主をたたえ、キリストの真の現存に対する信仰行為を行う機会を信者に与えることです。この理由で、奉挙の際、信者はホスチアと尊き御血を、愛をもって見つめ、「わが主、わが天主」と唱えることによって、心の中で信仰行為を行うよう勧められています。使徒聖トマスが死者の中から復活されたイエズスへの信仰を告白したのは、この言葉によってでした。
3.小さい奉挙
さて、ミサの第三部である典文を締めくくる小さい奉挙について考えてみましょう。司祭は、ホスチアの入ったカリスの上で十字架のしるしを3回行い、カリスの前でさらに十字架のしるしを2回行い、最後にカリスとホスチアを一緒に少し持ち上げます。ミサの侍者は、この時ベルを1回鳴らします。これらのしぐさにはどんな意味があるのでしょうか。これらのしぐさは、司祭が唱える祈りとともに行われます。私たちの主について、司祭はこう唱えます。「彼によって、彼とともに、彼において、全能の父なる天主よ、聖霊との一致において、御身はすべてのほまれと栄光を受け給う。世々に至るまで」。「彼によって、彼とともに、彼において」と唱えることによって、司祭は、「彼」が誰であるかを知らせ、その度にカリスに十字架のしるしをするのです。「彼」とは、パンとぶどう酒の形態の下に本当に現存される、十字架につけられたイエズス・キリストです。
次に、司祭は、父なる天主と聖霊なる天主の御名を唱えながら、カリスの上ではなくカリスの前で、ホスチアによって十字架のしるしを2回行います。司祭がこのようにするのは、司祭が、もはやパンとぶどう酒の外観の下にあるイエズス・キリストについて述べているのではなく、十字架のいけにえとミサが捧げられる天主について述べているからです。最後に、司祭は、私たちの主イエズス・キリストを賛美するしぐさとして、カリスとホスチアを一緒に持ち上げます。
次に信者は「アーメン」と唱えます。この信者によるアーメンは、いけにえと、典文で司祭が捧げる祈りとの一致を表すため、重要なものなのです。
4.パーテル・ノステル
ミサの第四部は「聖体拝領」と呼ばれます。これは、パーテル・ノステルからミサの終わりまで続きます。この部分はパーテル・ノステルを唱えることで始まります。ミサのこの時、典文の直後に、この祈りを唱えるのはなぜでしょうか。それはただ、ミサの典文で行われるイエズスのいけにえが、私たちを天主と和解させ、私たちを天主の子へと回復させるからです。ですから、ミサの典文の直接の効果は、私たちが天主を「われらの父よ」と呼ぶことができるようにしてくれることなのです。
私たちの美しい典礼にある興味深い細かな点に注目してください。司祭はパーテル・ノステルを唱えるとき、ホスチアにおられるイエズスを見つめなければなりません。なぜそうするのでしょうか。それは少し驚くことですが、ホスチアにおられるのは、父なる天主ではなくイエズスだからです…。つまり、司祭がパーテル・ノステルを唱えるときにホスチアを見つめるのは、イエズスが「私を見た人は父を見た」(ヨハネ14章9節)と言われたからなのです。
5.ホスチアを裂くこと
最後に、ホスチアを裂くことについて考えてみましょう。パーテル・ノステルの後、司祭はホスチアを裂き、その小さな一片をカリスの中の尊き御血に混ぜます。この儀式があるのはなぜでしょうか。司祭はホスチアを裂くことによって、最後の晩餐において、使徒たちにご聖体をお与えになる前に、ご聖体を裂かれた私たちの主イエズスをまねているのです。しかしそれだけではなく、司祭は私たちの主イエズスのご復活を知らせています。司祭は、典文の間にイエズスの御体と御血を別々に聖変化させることによって、イエズスの死を知らせます。司祭は、カリスの中でイエズスの御体と御血を再び一致させることによって、命へ戻ること、すなわちイエズスのご復活を知らせるのです。
ミサの間に私たちの主のご復活を思い起こし、知らせることは重要です。ミサは、過去の出来事の単なる記念、すなわちイエズスのカルワリオでの死の記念ではありません。ミサにおいて、活動し、天においても祭壇上でも十字架のいけにえを神秘的に更新されるのは、生きておられるイエズスなのです。ミサの間にイエズスのご復活を知らせることは重要です。なぜなら、それは、十字架のいけにえとミサのいけにえを通して私たちの罪の償いが天主に受け入れられたことのしるしだからです。
結論
親愛なる信者の皆さん、この説教を、聖なるミサを終えるときと同じように、デオ・グラチアス、天主に感謝申し上げます、と唱えて終えたいと思います。そうです、ご自分のいけにえを無限に更新するために聖なるミサを制定された、私たちの主イエズス・キリストに感謝申し上げます。聖なるミサを通してご自分にふさわしいいけにえを捧げる可能性を私たちに与えてくださった、父なる天主に感謝申し上げます。ローマ典礼を通して驚くべき神秘を人間の方法で表す特別な手段を私たちに与えてくださった、聖霊なる天主に感謝申し上げます。