2024年 新年 小黙想会
黙想1 人間の目的
"Notum fac mihi, Domine, finem meum, et numerum dierum meorum quis est, ut sciam quid desit mihi." (Ps 38:5)
「主よ、私の終わりを知らせ給え。私の人生の日数を知らせ給え。私に何が足りないかを知るために。」(詩篇38:5)。
人生に何の目標もない人は、汽車に乗っていても、切符をもたずに、どこへ行くかという考えもなく乗車する人のようなものです。人生に何の目標もない人は、目的地を知らないで船を運行させる船長のようです。遭難するか、座礁するか、難船するか、です。船長がたとえ船の操縦の仕方を最高度に知っていたとしても、どのような豪華船であっても、どれほど大きなスピードで移動することができても、どこのどの港に、どうやって行くのかを知らなければ、それが何の役に立つでしょうか?
この黙想の第一は、私たちがどこに向かっているのか、私たちの人生の目的は何なのかをもう一度確認するためにささげられます。私たちの一切の道徳的な組立の基礎です。この土台を深くすえることができれば、私たちの霊的な建築の全体が、それだけ堅固なものになります。私たちの霊的な生活には、知的な基礎が必要です。熱情や情緒はあてにならないからです。それは通り過ぎていくものです。決してそういうものにたよることはできません。私たちは「岩の上に家を建てた」賢い人のようでありたい。「雨が降り、彼が寄せ、風が吹いて、その家を打った。それでも家は倒れない。岩の上に建てられているからである。」
私たちが創造された目的は公教要理に書かれています。「人間は、主なる天主を賛え、敬い、また天主につかえるために、そしてそれによって自分の霊魂をすくうために、創造された」。
私たちの主と聖人たちがこの真理を理解なさったのと同じく、私も理解できるように、主のお助けをお願いしましょう。
【1】「人間は創造された」
この言葉はまったくはっきりしています。最初の人間がいたに違いないということは、理性もみとめます。したがって人間がいないときがあったに違いない。私たちの心に何の疑いものこらないように、天主御自ら「創世記」の中でこういわれる。「それから天主は「われら自身にかたどり、われらに似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、野のすべての野獣また地をはうすべてのものを、人に支配させよう」といわれた。そして天主はご自身にかたどって、人間を創造なさった。天主にかたどって人をお造りになったのです。天主は人間を男と女にお造りになった。」
【人間】
「人間は創造された」というとき、この「人間」とはすべての人間です。若い人も、年寄りもある。政治家も、日傭い労働者も、支配者たちも、人民も、異教徒も、キリスト信者も含まれます。すべての人間といえば、日本人も、ロシア人、アメリカ人もそうです。いま生きている人、教皇聖下も、天皇陛下も、プーチンも、バイデンもそうです。百年前に生きていた人、小さき花も、スターリンも。いまから百年後の人、現在私たちのそばにいる人たちの子や孫や曾孫にあたる人も。そしてすべてそのようにこの世界に住んで来た、あるいは住むであろう幾億万の人々の中のひとりが私です。
「人間」とは何でしょうか。天主にくらべれば、人間はまったく何でもありません。日光の中にただよう小さなホコリのようなもの、海の一粒の砂のようなものです。けれども物質的なものの中では、人間はいちばんすばらしい能力と可能性をそなえた傑作です。人間は聖霊がきわめて妙なる調べをかなでることのできるバイオリンのようなものです。現に聖霊は何百万の聖人の霊魂からそういう調べをひきだしました。しかしそのバイオリンが聖霊のタッチに応ずるものでない場合には、いやなキーキー音を出して、天主の世界の調和をみだすことになります。人間は、天使のようにも、悪魔のようにも、野獣のようにも生きることができます。
【創造された】
「創造された」とは、無から造られたということです。人間は自分のもっている素質も才能も所有物も、どれも人間自身に帰することはできません。人間そのものが全体として、完全に天主からのたまもので、ほどこしです。人間の自分の努力でえたものについても、人間がそれをえることができるには、そのまえに人間が存在をあたえられていなくてはなりませんでした。人間の本性に属する能力についても天主のたまものです。人間とその創造主との関係は、芸術作品とその作者、着物と仕立屋、本とその著者、機械とその発明者の関係と同じです。「粘土が焼物師に向かって、私にはあなたは必要がないといえるであろうか。」
【天主によって】
人間は誰によって創造されたのでしょうか。全能の天主によって、創造されました。自己充足の天主によって、人間を必要としない天主によってです。しかし天主は無限の智恵によって、天主にふさわしい目的がなくては、何もお造りになりません。天主は、理性と自由をそなえた被造物が、天主のお考えになる目的をみたすように、お望みになり、お求めになりました。天主は人間がこの目的を成就することにみ心をくばり、み心にかけていらっしゃいます。
【2】「天主を讃え、敬い、また天主につかえるために」
天主が私を創造なさった動機は何でしょうか。ただ天主が良い方だからです。無限に賢明で絶対的な自由の選択によって、天主は私を創造されました。天主には私たちが必要でなかったのに、純粋な善意によって、私が存在するようにしてくださったのです。
天主は、はっきりした目的をもって私を創造されました。そしてこの目的は、天主御自らのほかにはありえません。最高の技能をそなえた芸術家として、天主は、ご自身の外において、御自分の栄光のために私を創造されました。その栄光は、私の精神が認識によって完成し、私の意志が愛によって、私の全存在が幸福によって完成すれば、達せられるはずです。
天主が、天主ご自身のためという必然的な目的のために、私をお造りになったのは、天主に必要や不足があったからではなく、全くただ天主の至高の卓越性、天主の善良さの故です。それは私たちが天主の限りない完全性を、私自身の精神と意志と存在の中に反映するためでした。私たちがここに存在するのは、完全になるため、私の天の父が完全であられるようにさえも、完全になるためです。天主ご自身は私の精神と意志のもっとも完全な、もっとも価値ある対象であるから、天主を知り、天主を愛することによってこそ、私はくらべるもののない幸福に達することができるのです。その幸福のために、天主は私を存在に呼び入れてくださったのです。私は天主のために造られています。その天主は永遠の愛をもって私を愛し、私の真実の幸福を最大の栄光となさる方なのです。
「天主を賛える」
あらゆる創造のみ業は、人間を除けば、それぞれの不動の法則に盲目的にし たがうことによって、天主の栄光を反映します。動物はその本能にしたがうことによって、遊星は定まった軌道にしたがうことによって、天主の知恵と力と善意をあらわすのです。「天は天主の栄光を告知する。」「主よ、私たちの主よ、全世界を通じて、御身の名はいかにはむべきものであろうか」「わが骨のすべては叫ぶ、主よ、誰が御身に似ているか。」
人間だけが、自分の意志の意識的なはたらきによって、天主を賛えることの選択をまかされています。人間は天主のみ業に同意することによって、天主を賛美することができます。結局、賛美とは同意を意味します。ヨブはこう言いました。「主はおあたえになり、主は取りたもうた。主のみ名は賛美せられさせ給え」と。
人間は、自分が天主をどんなに善いかたであると思っているかを、天主に告げることによって、天主を賛美することができます。私たちに多くのお恵みをくださるのだから、何と良いかたでしょうか。
「私は私の子らに対して、私がした以上に、何をすることができたか?」
「われらがいつも、どこでも、聖なる主、全能の父、永達の天主なる御身に感謝することは、真にふさわしく、正しく、私たちの救いに役立つことなり。」
「天主を敬う」
敬うというのは、普通の意味では、何か他人のすぐれた点に対する尊敬です。それは私たちの評価できるものをみとめること、認知することです。素朴な人は自分よりすぐれたものに対して、本能的な尊敬をもちます。名選手の前に出た少年を見たことがありますか。
傲慢な人がうやうやしい限度をとりにくいのは、自分よりすぐれたものをみとめようとしないからです。天主に対する尊敬は、私たちが天主を私たちの創造主として、無限に善良なかたとして、私たちの愛に値するものとしてみとめる深い尊敬です。
人間はその創造主に向かって、どうやって尊敬をあらわすのでしょうか。明らかに、人間は何よりもまず、自分が完全に天主に依存すること、人間自身には何もないことを、心の中に深くみとめなければなりません。聖パウロは言います。「あなたのもつものの中に、あなたが受けたのでないものがあるでしょうか。受けたものであるなら、何故あなたは受けたのでないかのように誇るのであるか。」
それ以上に、人々のまえで、また人々とともに、誰にも共通な天主への依存関係をみとめなければなりません。公の礼拝をするのは、はっきりした掟です。「人々のまえで私をみとめる人を、私は天にいます私の父のまえでみとめるであろう。」「私の記念として、これをおこなえ。」
「天主につかえる」
「人間は天主の意志にしたがうべきものであって、自分の意志にしたがうべきものではありません。それは人間が天主によって創造されたということから必然に生ずる結論です。キリストはこのことを繰り返えし繰り返えし教えて、弟子たちにさとらせようとされました。
「私の掟を聞いて守るものは、私を愛する。」
「私に向かって、主よ、主よというものが、すべて天国に入るわけではなく、私の掟を守るものこそ天国に入る。」
「もしあなたが私を愛するなら、私の定を守りなさい。」
人間は自分勝手な道を行くように、創造されたのではありません。自分の気まぐれにしたがうように、気ままに振舞うよりに、自分で自分の主となるように創造されたのでもありません。
人間の価値は、天主の眼には、全く相対的なものです。人間には絶対的な価値はありません。
人間の価値は、人間が創造された目的を果たすその果たし方によるものです。ある道具がその製造された目的をみたさなければ、その道具は役に立たないものと見なされて、捨てられるのです。
「これによって自分の霊魂を救うために」
天主に対する人間の奉仕は、その人間自身の益となります。天主の無限の知恵と善意だけが、天主への奉仕を、人間の受けられるかぎり最大の幸福に、結びつけることができます。人間が天主の意志を完全におこなえばおこなうほど、人間自身の幸福がそれだけ完全なものになります。
人と人とのあいだあいだでは、雇い人や従者がおこなう奉仕は、雇い主や主人の利益のためのものです。もしも雇い人も同時に幸福なら、それは結構なことです。しかしそれが雇い主の第一の関心事ではありません。
天主は知性をそなえた自由な存在として人間を創造なさったので、人間の幸福がある程度まで人間自身の協力の結果になるようにという意図を持たれました。
そうでなかったとしたら、人間はべての幸福を、人間自身の方に何の功徳もないのに受けとることになって、当惑するになり、したがって少しばかり不幸になるでしょう。もし私たちが友だちから大変りっぱななり物をうけたのに、こちらからはまったく何のお礼もできないとしたら、私たちはどんなに当惑することでしょうか。
私たちは、自分が戦いに値するように、天主へ奉仕をすべきです。そうすれば天主には、私たちに褒賞をくださる口実ができて、天主は私たちに永遠の喜びをくださることができるのです。