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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2024年 新年小黙想会 天使たちの大軍は玉座に座っている方を礼拝し讃美する。私たち人間も天主を讃美するためにこの地上にいる。

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2024年1月8日黙想会 ミサ聖祭説教 小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

黙想会を続けましょう。今日は二日目です。昨日は私たちは私たちの人生の究極の目的――いったい何のために私たちはこの地上に生活しているのか――私たちは天主を知りこれを讃美しこれに仕え、そして永遠の幸せを得るためにそうしているということを黙想しました。そして、その目的を容易に達することができるためにイエズス様が私たちを照らすために、私たちがそのあとを通るべき道としてお生まれになったことを黙想しました。

ところで、チゼック神父様というイエズス会のアメリカ人司祭は、ソ連時代のシベリアの収容所で15年の強制労働をしていた時のことを回想しています。

毎日、毎日、単調で厳しい労働の日々を過ごしていました。休暇もなければ、なんの変化もなく、リクリエーションもなければバカンスもありません。労働、労働、労働の毎日です。もしも変化があるとしたら、天気がかわるかあるいは仕事の内容が変わるかだけです。人間には何かをやり遂げたという誇りやあるいは尊厳が必要です。しかし収容所に入れられた人々にとって唯一の達成感というのは、厳しいシステムの中で今日もようやく生き延びることができた、と言うことだけでした。労働には終わりがないように思われました。毎日、毎日、毎日。厳しい労働が待っていました。なぜかというと、敢えて重い重労働をこのような収容所にいた人々に課していたからです。なぜかというと彼らは共産党に批判した、国家に逆らった、社会主義に逆らった、という罪を償わなければならないとされていたからです。

食料は最低限で、夜にはバラックに帰って来ると疲れて、疲労困憊、いつも腹を空かせて、いつも疲れており、逃げることもできずに、隠れることもできずに、反乱することもできずに、話もすることもできずに、集団を作ることもできずに、グループを作ることもできずに、ただ疲れて寝るだけでした。一日十四時間から十五時間の労働ののちに、キャンプにちょっとしたスープを飲みに帰り、ひっくり返って寝るだけです。毎日、毎日、毎日がそうだったと、神父様は書いています。収容所にいる人々は希望がなく、ただ共産党の上からの命令にキャンプのその管理者の命令に服従するしかありません。唯一の希望は、一日をどうやって生き延びるか、ということでした。

収容所では常にプロパガンダの洗脳がありました。労働の価値を叩き込まれます。社会主義国家の建設のために労働に価値があるということを何度も何度も聴かされます。新しい社会主義の世界秩序を建設しなければならない、だからもっと労働しなければならない、もっと働かなければならない。人々はそのような中でそのプロパガンダに耳を閉ざし、生き延びることしか考えていませんでした。

しかし、チゼック神父さまが言うには、人々は誰も食べ物では足りない、日々の生活の意味をその価値を知らなければ、生きることを絶望してしまう。私たちには霊的な糧が必要だ。そこで、チゼック神父は 収容所で秘かに黙想会を指導しました。ミサも隠れて捧げました。

収容所で黙想会を指導するのは、これは、あとでどのように処罰されるか、どのような拷問を受けるか、どのように食べ物を減らされるか、ということを覚悟しなければなりませんでした。しかし人々は霊的な糧に飢えていました。ですから、神父様は一人ひとりに指導する形をとって、きわめて朝早くに皆が仕事に出る前に黙想のポイントを静かな場所を探して話します。人々はどうやったら食べ物をもっと得ることができるか、どうやったら仕事をさぼることができるか、どうやったら薬をもらうことができるか、などということに忙しい時に、一人ひとりずつを選んで、特に司祭などを呼んで、黙想のポイントを話します。三十分ぐらいはなしたそうです。そしてそれから労働に出かけます。夕方にもう一度、静かなところに退いて、黙想のポイントを話します。二、三日の簡単な黙想会でした。しかし、こうすることによって、キリストの招きに応じて、毎日をキリストともに、毎日をキリストともに苦しみを捧げることができるようになったのです。

収容所でミサも捧げました。ミサは誰も見ていないようなところで隠れてしなければなりませんでした。ミサに与る人もいました。当時、ピオ十二世教皇はミサの前聖体拝領前三時間から断食をするように緩和しましたが、当時は夜中の十二時から何も食べてはいけないという規律がありました。ですから、朝は非常に忙しくミサを捧げることができなかったのですが、お昼のお休みのとき、朝ごはんも食べずにお昼のミサを捧げるために、重労働に耐え、そして、ミサに与る人々がたくさんいました。中にはお昼に隠れてミサを捧げることができなかったので、夕方まで何も食べずに労働したのちに夕食をスキップして、ミサに与り、御聖体拝領するという人達もたくさんいました。そのような司祭たちもいました。そうして、天主のみ旨を果たすために、霊魂の救いのために、天主に対して犯された罪の償いのために、キリストの御国の拡張のためにという明確なビジョンをいつも確固として持って生活していました。

厳しい収容所でも、このような黙想会、ミサ聖祭によって、厳しい収容所の生活を多くの人が生き延びることができました。ですから私たちもこのチゼック神父様にならって、収容所にいた人々にならって、黙想会を続けましょう。

私たちはこの二〇二四年、確かに社会主義のプロパガンダのもとにある休みも休息もない収容所にいるのではありません。強制労働をさせられているのでもありません。しかし、もしかしたら本質的には似ているのかもしれません。

私たちは確固として何のためにこの地上にいるかこの日本にこの二〇二四年に生活しているのか、知らなければなりません。天主を知り、天主のみ旨を知り、天主を讃美し、これに仕え、霊魂を救うため、罪を償うため、キリストの御国の拡張のため、明確なビジョンを持って私たちはこの一年を過ごさなければなりません。

今日ミサの最初で、天使たちの大軍が玉座に座っている方を礼拝していた、讃美していたとありました。ちょうどクリスマスの時も同じでした。その地方に野宿して、羊の番をする羊飼いたちがいたんですが、主の栄光があたりをてらして、主の天使たちがあらわれました。天使が救い主が生まれたということを告げると、天の大軍がいと高き所には天主に栄光を地には善意の人々に平和あれと主を讃美しました。

天使たちも、天に栄光あれ、天主に栄光あれと、常に讃美しています。私たちも、人間も、それに真似て、私たちの生活を以って讃美するためにこの地上におります。

天主の御言葉は人となって、ますます天主がどれほど素晴らしい方かお知らせになりました。それを見れば見るほど、私たちは天主を讃美せざるを得ません。

天主の智恵を見てください。私たちの傲慢の罪を償うために、なんと永遠の無限の天主の御言葉はご謙遜によって小さくなり、人間となり、人間の赤子となり、奴隷のようになり、そして私たちの傲慢の罪を打ちくだこうと償おうとされました。なんという深い知恵でしょうか。

天主の力を見てください。まったくくっつけることができないと思われる正反対のように思われる無限の天主の存在、永遠の力、を、無に等しい私たち限られたちっぽけな存在、この時間の存在に、一致させた。何という全能の力でしょうか。天主のみがそれをすることができます。永遠が説きの中にお生まれになった。何という全能でしょうか。

天主の正義が、御子がお生まれることによって、輝きだしました。なぜかというと、無限の正義を満足させるために、罪によって損なわれたこの無限の正義を満足させるために、御父と同じ本質である御子が人間となって、そして正義を満足させようとされたからです。天主の知恵、天主の全能の御力、天主の無限の正義、何と讃美にふさわしいものでしょうか。

天使たちと声を合わせてわたしたちは讃美しなければなりません。しかし、天使たちが讃美しても受けることができなかったものがあります。それは私たち人間のみが受けたものです。天主のあわれみです。

天主のあわれみ!私たちの罪を償うために、全ての天上の宝をわたしたちにすべてあたえるために地上の全く惨めで憐れなものを、天の高みに引き寄せる、イエズスの聖心のなかに入れるために、愛の竈の中で私たちの惨めさをすべて燃やすために、愛である天主が私たちのために人となり私たちにご自分をすべてお与えになりました。

天主の無限の御憐み、これを幼きイエズス様は私たちに示しています。天の大軍は 天のいと高き所に天主に栄光あれ、歌を歌い、讃美し、そしてこの歌はいつまでも絶えることがありません。私たちもそれに声を合わせるように招かれています。「天のいと高き所には主に栄光!主の名によりて来たるものにホザンナ!天のいと高きところにホザンナ!」

天主は眼に見えるものも目に見えないものも、ご自分の栄光のために創造されました。銀河も大宇宙も、鉱物も、動物も植物も、人間も天使たちも、全ては天主の栄光のためでした。天使や人間たちが、主と同じ、三位一体の栄光の命、至福を得ることが、天主の讃美の栄光のためでした。なぜかというと、天主の憐れみと天主の栄光が輝き出るからです。主の聖寵の賛美が輝き出るからです。

御子を受けたにもかかわらず、人間は罪を犯しました。天主に逆らいました。自ら進んで天主の敵となってしまいました。旧約時代、エザウは、豆のスープ一杯で長子権を全部売り飛ばしてしまいました。アダムは、木の実を味わうという罪のために、天主の友人関係を捨て、永遠の至福の特権を売り飛ばしてしまいました。子供としての遺産相続権を失ってしまいました。なぜかというと、善と悪の知識の木の実を食べることによって、自分の力で天主のようになろうとしたからです。

この罪、人間の犯した罪は、無限の天主の御稜威を犯すものだったので、無限の邪悪さがありました。有限の被造物に、無限の償いを捧げつくすことができませんでした。しかし、天主の御言葉が人となって、人間の犯した罪を人間として償い、そして正義を満足させるにふさわしい無限の償いを天主としてお捧げになってくださいました。

御言葉は私たちのためにすべてを与えられました。人間となって私たちにすべてを与えられました。イエズス・キリストのものは、すべて私たちのものです。ですから、御子は私たちと一致して、天主を讃美し、償いを捧げるなら その御子イエズス様がなさった功徳はすべて私たちのものです。私たちもイエズス様が人となったからこそ、イエズス様とともにイエズス様によって、御父をふさわしく礼拝することができるようになります。正義を満足させる償いを私たちも果たすことができるようになります。ふさわしい讃美を感謝と祈りを捧げることができるようになりました。聖パウロはこう言っています。「み旨のままにすべてを導かれる方のあらかじめ定められた計画にしたがって、また、主において、私たちは、予定され、世嗣とされた。それは、前もってキリストに希望をおいていた私たちが、天主の光栄のほまれとなるためであった。」(エフェゾ1:)

私たちはこの二〇二四年を、主を知り主を讃美しそして主につかえるためにお捧げいたしましょう。イエズス・キリストと一致してこれをお捧げいたしましょう。天使たちとともに、天のいと高き所に主に栄光と、歌う祝ぎ歌を歌いましょう。黙想会を続けましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。


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