アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
すこし遅れてしまいましたが、「家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言」について、ご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言
原文はこちら
2015年10月28日
家庭に関するシノドの第二総会の最終報告書は、2015年10月24日に発表され、シノドの教父たちの同意を見せることからかけ離れており、互いに大きく異なる立場の間での妥協を表現している。その中に結婚とカトリック家庭について一部教義を思い起こさせる文章をもちろん読むことができるが、悲しむべき曖昧さと省略にも気づく。そして、相対主義的な司牧的「あわれみ」の名のもと、最も重大な違反が規律の中に顔をのぞかせている。この文書が与える一般的な印象は混乱を生み出しており、この混乱は教会の絶えざる教えに反する意味で利用されないはずはない。
このため、教皇と司教の役割、そして結婚と家庭に関するキリストから受け取った真理を再確認する必要がある、と私たちには思われる。シノドの第二総会開始前に、私たちは教皇フランシスコに同じ精神において嘆願書を送ろうとの思いに促され、これを実行している。
1 – 教皇と司教の役割 [1]
カトリック教会の霊的息子として、私たちはローマの司教、聖ペトロの後継者はキリストの代理者であり、同時に全教会のかしらであると信じる。彼の権力とは、固有の意味における裁治権である。この権力に関して、牧者たちは、個別の教会の信者たちも、単独であろうと、団体としてであろうと、公会議においてさえも、シノドにおいても、あるいは司教会議においても、位階制度的な秩序づけ(hierarchical subordination)とまことの従順の義務を負っている。
ローマの司教との交わりの一致を維持し、同じ信仰を告白するという方法で、キリストの教会は一人の牧者のもとの一つの群れであるように天主は計画された。天主の聖会は、天主によって位階制度をもつ社会として構成されており、この教会において信者を統治する権威は、教皇と教皇のもとにある司教を通して、天主より由来する。[2]
教皇の最高の教導職が、教義的に関すること及び規律に関することにおいて、啓示された真理の真性の表現を発布する時、それに修正を導入するようなことは、教皇よりも低い段階の権威を授かった教会組織の管轄──司教会議のような──の範囲内にあるのではない。
永久に保存されなければならない聖なる教義の意味は、教皇と司教の教導職が決定的に教え続けてきたもので、そこから逸れることは決して合法的ではない。従って教会の職務は、あわれみを実践をする場合、無知という貧困を治療し、霊魂たちを救う真理の表現を与えることから始めなければならない。
従って、啓示された真理は、天主によって制定されたヒエラルキーにおいて、信仰と教導職の教えにおいて、使徒たちとその後継者である教皇及び司教らに「聖なる遺産」として委ねられた。彼らがそれを忠実に守り、権威をもって教えることができるようにである。この「遺産」を包み込む源泉は、聖書と口伝による聖伝である。聖伝はキリストご自身より使徒たちに受け継がれ、聖霊の息吹のもと使徒たちに手渡され、私たちに伝えられた。
教導教会が聖書と聖伝に含まれたこれらの真理の意味を宣言する時、天主によって啓示されたままに信者が信じられるよう、彼らに対し権威をもってそれを明らかにする。教皇と司教の職務は、信仰のセンス(信仰の感覚、sensus fidei)や「天主の民」の共通の体験が教皇らに提案するものを承認することだ、というのは間違いである。
私たちがすでに教皇聖下への嘆願書において次のように書いた通りである。「私たちの不安は、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、いわゆる現代世界の要求に順応させようとするドグマの修正を排斥したという事実に由来しています。教皇聖下、ピオ十世とあなたのお二方は、すべての時代、すべての時代のかしらにして牧者、教皇がこの地上において忠実な代理者とならなければならないお方、キリストへの従順のうちに、教え、聖化し、統治するための権威の充満を受け取りました。厳粛な排斥のもとにあるこの事実は、時間の経過によって、司牧上の実践が承認されるようにはなり得ないのです」
これこそ、マルセル・ルフェーブル大司教が1974年11月21日の宣言において書き記そうと促されたことである。「たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。
聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)[3]
2 – 結婚とカトリック家庭
結婚に関しては、天主は人類の繁栄のために、一人の男と一人の女の堅固かつ永久の絆である結婚の設定によってそれを準備された。[4] キリストが結婚を秘蹟の尊厳にまで高めたがゆえに、洗礼を受けた人々の結婚は秘跡である。結婚と家庭は、それゆえに、神聖かつ自然的の両方を併せ持つ制定である。
結婚の第一目的は子どもの出産と教育であり、人間的意向がそれに反して行動し、阻むべきではない。結婚の第二の目的は、情欲を抑えるのと同様、伴侶が互いを捧げあう相互扶助である。
キリストは、結婚の絆がキリスト者と全人類の両方にとって決定的なものとなるよう制定された。この絆は不解消的性質を有しており、婚姻の絆は両性の意志によっても、いかなる人間的権威によっても決して破られることはないものである。「人は天主がお合わせになったものを離してはならない」[5] 洗礼を受けた人々の結婚の秘跡の場合、この絆と不解消性は、キリストとその花嫁なる教会の一致のしるしという事実によって、より明確に説明されている。
人間が結婚の絆と不解消性に反する宣言をし、実行するすべての事柄は、自然の要求や人間社会の善に一致していない。さらに、忠実なカトリック信者には、教会によって規定された宗教的結婚を考慮せずに民事的結婚の絆にのみ加わってはならないという重大な義務がある。
聖体拝領(聖体の秘蹟を拝領すること)のためには、成聖の恩寵の状態と、愛徳によるキリストとの一致が必要である。聖体拝領はこの愛徳を増すと同時に、キリストの唯一の浄配として彼と一致している教会への愛を示している。その結果、意図的に同棲、あるいは姦淫の一致のうちに同居する人々は天主の掟と教会法に反しており、彼らが正義と愛徳の重大な欠如という悪い模範を示し、明らかな罪人であると見なされるがゆえに聖体拝領は許されない。「妻を去らせて、ほかの人と結婚すると、その人は姦通者である」[6]
告解の秘跡において確実な罪のゆるしを得るためには、もはや罪を犯さないという決意を持つことが不可欠である。そのため、自分たちの不適切な状況を終わらせることを拒否する人々は、有効なゆるしを得ることはできない。[7]
自然法に一致して、人間は自分の性を行使する権利を持つのは、道徳によって定められている制限を尊重しながらの、合法的結婚の範囲内のみである。このため、同性愛は自然法及び天主の掟に矛盾している。婚姻からほど遠いところにある結合(同棲、重婚、同性愛の結合)に入ることは、自然法・神法の要求することに反対する不秩序であり、従って、罪である。そこに置いていかなる道徳的善も、たとえ減少した善であっても、認めることができない。
結婚の聖性と道徳の純潔性に反する現代の誤謬と法律制定がなされているが、自然法にはいかなる例外もない。なぜなら天主はご自身の法を与えられた時、人間の法律制定とは異なり、その無限の叡智においてすべての事柄とすべての状況を予見されていたからである。従って、さまざまな文化からの、めまぐるしく変化する状況に対し、自然法による指導倫理を採るよう一部の人々が提案する、いわゆる「状況倫理」は認められない。道徳秩序の問題解決は、夫婦や司牧者の良心によってのみ決定されてはならず、自然法は行動規範としての良心上に義務を負わせるものである。
罪人への善きサマリア人的配慮は、罪には妥協しない一種のあわれみとして明らかになる。ちょうど医者が病人を病から助け、効果的に健康を回復させたい望み、その病に妥協せず、それを取り除くことと同じである。「主観主義的な司牧的アプローチ」という、一般的には福音の教えを想起させるが、個々のケースでは福音を破棄するようなアプローチの名のもとに、福音の教えから自らを解放することはできない。福音の教えを弱める危険を冒すことなく、教会の権威を破砕することなく、結婚の不解消性の掟を停止できる能力を、誰も司教に与えることはできない。というのは、この誤ったものの見方においては、教義的に断言されたことが司牧的に否定されうるからであり、法において禁止されていることが事実上正当化されうるからである。
この大混乱の中で、常に変わらず、至るところで、皆によって、伝えられてきた(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus) [8] カトリックの真理を、明確かつ堅固に教皇が再度明言すること、そして局部的に実際上否定されていることがないようにこの普遍の真理を保持すること──教皇の責任を果たしつつ、キリストによって定められた範囲内において──それは今や教皇に委ねられている。
キリストのおん勧めに従い,警戒して、祈れ(vigilate et orate)。私たちは教皇のために祈る──oremus pro pontifice nostro Francisco 我らの教皇フランシスコのために祈らん。そして私たちは警戒を怠らない──non tradat eum in manus inimicorum ejus[9] 願わくは天主が彼を敵の手に渡したまわざらんことを。私たちは教会のおん母なるマリアに、教皇が天主なるおん子の宝の忠実なしもべとなる恩寵を得てくださることを嘆願する。
2015年10月27日、メンツィンゲンにて
+ ベルナール・フェレー
聖ピオ十世会総長
[1] Council of Trent, Session 4; Vatican Council I, Constitution Dei Filius; Decree Lamentabili, 6.
[2] Mt. 16:18-19; Jn. 21:15-17; Vatican I, Constitution Pastor Aeternus.
[3] Gal. 1:8.
[4] Gen. 2:18-25.
[5] Mt. 19:6.
[6] Mt. 19:9.
[7] Leo XIII, Arcanum Divinae Sapientiae; Pius XI, Casti Connubii.
[8] 「常に変わらず、至るところで、皆によって、宣言されてきたこと」; Vincent of Lerins, Commonitorium.
愛する兄弟姉妹の皆様、
すこし遅れてしまいましたが、「家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言」について、ご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言
原文はこちら
2015年10月28日
家庭に関するシノドの第二総会の最終報告書は、2015年10月24日に発表され、シノドの教父たちの同意を見せることからかけ離れており、互いに大きく異なる立場の間での妥協を表現している。その中に結婚とカトリック家庭について一部教義を思い起こさせる文章をもちろん読むことができるが、悲しむべき曖昧さと省略にも気づく。そして、相対主義的な司牧的「あわれみ」の名のもと、最も重大な違反が規律の中に顔をのぞかせている。この文書が与える一般的な印象は混乱を生み出しており、この混乱は教会の絶えざる教えに反する意味で利用されないはずはない。
このため、教皇と司教の役割、そして結婚と家庭に関するキリストから受け取った真理を再確認する必要がある、と私たちには思われる。シノドの第二総会開始前に、私たちは教皇フランシスコに同じ精神において嘆願書を送ろうとの思いに促され、これを実行している。
1 – 教皇と司教の役割 [1]
カトリック教会の霊的息子として、私たちはローマの司教、聖ペトロの後継者はキリストの代理者であり、同時に全教会のかしらであると信じる。彼の権力とは、固有の意味における裁治権である。この権力に関して、牧者たちは、個別の教会の信者たちも、単独であろうと、団体としてであろうと、公会議においてさえも、シノドにおいても、あるいは司教会議においても、位階制度的な秩序づけ(hierarchical subordination)とまことの従順の義務を負っている。
ローマの司教との交わりの一致を維持し、同じ信仰を告白するという方法で、キリストの教会は一人の牧者のもとの一つの群れであるように天主は計画された。天主の聖会は、天主によって位階制度をもつ社会として構成されており、この教会において信者を統治する権威は、教皇と教皇のもとにある司教を通して、天主より由来する。[2]
教皇の最高の教導職が、教義的に関すること及び規律に関することにおいて、啓示された真理の真性の表現を発布する時、それに修正を導入するようなことは、教皇よりも低い段階の権威を授かった教会組織の管轄──司教会議のような──の範囲内にあるのではない。
永久に保存されなければならない聖なる教義の意味は、教皇と司教の教導職が決定的に教え続けてきたもので、そこから逸れることは決して合法的ではない。従って教会の職務は、あわれみを実践をする場合、無知という貧困を治療し、霊魂たちを救う真理の表現を与えることから始めなければならない。
従って、啓示された真理は、天主によって制定されたヒエラルキーにおいて、信仰と教導職の教えにおいて、使徒たちとその後継者である教皇及び司教らに「聖なる遺産」として委ねられた。彼らがそれを忠実に守り、権威をもって教えることができるようにである。この「遺産」を包み込む源泉は、聖書と口伝による聖伝である。聖伝はキリストご自身より使徒たちに受け継がれ、聖霊の息吹のもと使徒たちに手渡され、私たちに伝えられた。
教導教会が聖書と聖伝に含まれたこれらの真理の意味を宣言する時、天主によって啓示されたままに信者が信じられるよう、彼らに対し権威をもってそれを明らかにする。教皇と司教の職務は、信仰のセンス(信仰の感覚、sensus fidei)や「天主の民」の共通の体験が教皇らに提案するものを承認することだ、というのは間違いである。
私たちがすでに教皇聖下への嘆願書において次のように書いた通りである。「私たちの不安は、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、いわゆる現代世界の要求に順応させようとするドグマの修正を排斥したという事実に由来しています。教皇聖下、ピオ十世とあなたのお二方は、すべての時代、すべての時代のかしらにして牧者、教皇がこの地上において忠実な代理者とならなければならないお方、キリストへの従順のうちに、教え、聖化し、統治するための権威の充満を受け取りました。厳粛な排斥のもとにあるこの事実は、時間の経過によって、司牧上の実践が承認されるようにはなり得ないのです」
これこそ、マルセル・ルフェーブル大司教が1974年11月21日の宣言において書き記そうと促されたことである。「たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。
聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)[3]
2 – 結婚とカトリック家庭
結婚に関しては、天主は人類の繁栄のために、一人の男と一人の女の堅固かつ永久の絆である結婚の設定によってそれを準備された。[4] キリストが結婚を秘蹟の尊厳にまで高めたがゆえに、洗礼を受けた人々の結婚は秘跡である。結婚と家庭は、それゆえに、神聖かつ自然的の両方を併せ持つ制定である。
結婚の第一目的は子どもの出産と教育であり、人間的意向がそれに反して行動し、阻むべきではない。結婚の第二の目的は、情欲を抑えるのと同様、伴侶が互いを捧げあう相互扶助である。
キリストは、結婚の絆がキリスト者と全人類の両方にとって決定的なものとなるよう制定された。この絆は不解消的性質を有しており、婚姻の絆は両性の意志によっても、いかなる人間的権威によっても決して破られることはないものである。「人は天主がお合わせになったものを離してはならない」[5] 洗礼を受けた人々の結婚の秘跡の場合、この絆と不解消性は、キリストとその花嫁なる教会の一致のしるしという事実によって、より明確に説明されている。
人間が結婚の絆と不解消性に反する宣言をし、実行するすべての事柄は、自然の要求や人間社会の善に一致していない。さらに、忠実なカトリック信者には、教会によって規定された宗教的結婚を考慮せずに民事的結婚の絆にのみ加わってはならないという重大な義務がある。
聖体拝領(聖体の秘蹟を拝領すること)のためには、成聖の恩寵の状態と、愛徳によるキリストとの一致が必要である。聖体拝領はこの愛徳を増すと同時に、キリストの唯一の浄配として彼と一致している教会への愛を示している。その結果、意図的に同棲、あるいは姦淫の一致のうちに同居する人々は天主の掟と教会法に反しており、彼らが正義と愛徳の重大な欠如という悪い模範を示し、明らかな罪人であると見なされるがゆえに聖体拝領は許されない。「妻を去らせて、ほかの人と結婚すると、その人は姦通者である」[6]
告解の秘跡において確実な罪のゆるしを得るためには、もはや罪を犯さないという決意を持つことが不可欠である。そのため、自分たちの不適切な状況を終わらせることを拒否する人々は、有効なゆるしを得ることはできない。[7]
自然法に一致して、人間は自分の性を行使する権利を持つのは、道徳によって定められている制限を尊重しながらの、合法的結婚の範囲内のみである。このため、同性愛は自然法及び天主の掟に矛盾している。婚姻からほど遠いところにある結合(同棲、重婚、同性愛の結合)に入ることは、自然法・神法の要求することに反対する不秩序であり、従って、罪である。そこに置いていかなる道徳的善も、たとえ減少した善であっても、認めることができない。
結婚の聖性と道徳の純潔性に反する現代の誤謬と法律制定がなされているが、自然法にはいかなる例外もない。なぜなら天主はご自身の法を与えられた時、人間の法律制定とは異なり、その無限の叡智においてすべての事柄とすべての状況を予見されていたからである。従って、さまざまな文化からの、めまぐるしく変化する状況に対し、自然法による指導倫理を採るよう一部の人々が提案する、いわゆる「状況倫理」は認められない。道徳秩序の問題解決は、夫婦や司牧者の良心によってのみ決定されてはならず、自然法は行動規範としての良心上に義務を負わせるものである。
罪人への善きサマリア人的配慮は、罪には妥協しない一種のあわれみとして明らかになる。ちょうど医者が病人を病から助け、効果的に健康を回復させたい望み、その病に妥協せず、それを取り除くことと同じである。「主観主義的な司牧的アプローチ」という、一般的には福音の教えを想起させるが、個々のケースでは福音を破棄するようなアプローチの名のもとに、福音の教えから自らを解放することはできない。福音の教えを弱める危険を冒すことなく、教会の権威を破砕することなく、結婚の不解消性の掟を停止できる能力を、誰も司教に与えることはできない。というのは、この誤ったものの見方においては、教義的に断言されたことが司牧的に否定されうるからであり、法において禁止されていることが事実上正当化されうるからである。
この大混乱の中で、常に変わらず、至るところで、皆によって、伝えられてきた(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus) [8] カトリックの真理を、明確かつ堅固に教皇が再度明言すること、そして局部的に実際上否定されていることがないようにこの普遍の真理を保持すること──教皇の責任を果たしつつ、キリストによって定められた範囲内において──それは今や教皇に委ねられている。
キリストのおん勧めに従い,警戒して、祈れ(vigilate et orate)。私たちは教皇のために祈る──oremus pro pontifice nostro Francisco 我らの教皇フランシスコのために祈らん。そして私たちは警戒を怠らない──non tradat eum in manus inimicorum ejus[9] 願わくは天主が彼を敵の手に渡したまわざらんことを。私たちは教会のおん母なるマリアに、教皇が天主なるおん子の宝の忠実なしもべとなる恩寵を得てくださることを嘆願する。
2015年10月27日、メンツィンゲンにて
+ ベルナール・フェレー
聖ピオ十世会総長
[1] Council of Trent, Session 4; Vatican Council I, Constitution Dei Filius; Decree Lamentabili, 6.
[2] Mt. 16:18-19; Jn. 21:15-17; Vatican I, Constitution Pastor Aeternus.
[3] Gal. 1:8.
[4] Gen. 2:18-25.
[5] Mt. 19:6.
[6] Mt. 19:9.
[7] Leo XIII, Arcanum Divinae Sapientiae; Pius XI, Casti Connubii.
[8] 「常に変わらず、至るところで、皆によって、宣言されてきたこと」; Vincent of Lerins, Commonitorium.