アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
すこし遅れてしまいましたが、「ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書」について、ご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書
http://www.dici.org/documents/le-rapport-final-du-synode-des-eveques-a-rome/
2015年12月4日
シノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている
聖ピオ十世会会員、マチアス・ガオドロン神父は1990年、ティシエ・ド・マルレ司教により司祭叙階された。12年間に渡ってツァイツコーヘン(バイエルン)のイエズスの聖心神学校の校長を務めた。現在ではザンクトガレン県(スイス)のInstitut Sainte-Marieで教授を務めている。「教会内における危機についてのカテキズム」(アンジェルス・プレス)の著者である彼は、今回の記事で家庭に関するシノドの最終報告書を分析している。これは最初にドイツ管区の月刊ニュースレター Mitteilungsblatt誌(2015年12月)と、同管区のウェブサイトに掲載された。
DICI編集部は、フランス語訳と英訳の掲載許可の快諾を得られたことを彼に感謝する。
希望と不安を同等に引き起こしたローマでのシノドは、2015年10月25日に閉会した。このシノドでは、多くの進歩主義カトリックたちと司教たちが期待したような、離婚して再婚した人々への聖体拝領の実施を勧めることもせず、同性愛者たちにもっと好意的な態度をとろうと呼びかけることもなかった。しかし、シノドは明確な言い回しでカトリックの真理を擁護することもなかった。教皇庁のKurt Koch枢機卿が次のように述べたように、次のことは残念ながら事実である。すなわち「閉じられたドアは一つもない」ということだ。結局、秘跡の新しい実践がいずれ導入されるかどうかという問題は、以前として開かれたままである。
同性愛に関する限り、シノドはそのno.76において、同性愛の絆は結婚に関する天主のご計画と両立しないと宣言した時、充分に明確な言葉を使用した。この文書はこうも述べている。国際組織が貧困国に財政援助をする引き替え条件として、同性愛者たちの「結婚」を合法化せよと圧力をかけることは断じて受け入れられない、と。
だが、さらにこの先、離婚して再婚したカトリック信者の問題について、no.84は受け入れ難い声明を含んでいる。実際のところ「聖霊はすべての人々の善のために、彼ら[離婚して再婚したカトリック信者たち]の上にその贈り物と賜物を注がれる」というのは事実だろうか? 厳密に言ってこの文章を受け入れられる人がいるとしても、この「贈り物と賜物」は聖寵の状態にあることを前提としないので、次に続く文章、「彼らは破門されたと感じるべきではない。その反対に、教会の生ける成員として成長できることが彼らにとって不可欠なのだ」という場合と意味がつながらない。離婚して再婚した人々が、みずからを教会から切り離したり、信仰を否定しない限り破門されないというのは事実である。彼らは教会の成員のまま留まる。ということは、しかし、彼らはもはや教会の「生ける」成員ではなく「死せる」成員ということになる。神学用語での生ける成員とは、聖寵の状態にあるカトリック信者のことである。あらゆる大罪が原因となって、成員は失われる。その結果、罪人はキリストとその教会に結びついたままであるが、天的生命の循環をやめた死せる成員としてなのである。離婚して再婚した人々は永久的大罪の状態のうちに生きている。彼らが天主の意志に反する婚姻の状態に終止符を打つつもりがない限り、ちょうど大罪を犯した人々がするように告解してもゆるしは与えられない。ゆるしが有効に与えられるのは、痛悔と生き方を変えるというしっかりした目的がある場合のみである、という単純な理由のゆえにである。このような状態においてこそ彼らは本当の意味で「前進」せざるを得ず、最大限に教会の生命に参与することで、彼らの罪深い状況から離れるために必要な恩寵と強さを乞い求めるのである。
no.86においては曖昧さも見出される。離婚して再婚した人々と司祭との対話は「内輪で語らうことで、彼らが教会の生命にもっと完全にあずかる可能性と、それを育み、成長させる段階を阻止するものを正しく判断する方法に貢献する」これはどういうことか? このようなカトリック信者たち──じっくりと内省したのち、良心に顧みて決意した──が秘跡に近づくことを許すために、ドアは少しばかり開かれているように見える。離婚して再婚したカトリック信者は、ある意味主要な神学上の問題を何も突きつけていない。彼らは罪の生活を捨てればすぐに、再び告解に行くことができるし聖体拝領できるのだ。だがそうしない限り、キリストと教会の教えを尊重する司祭は誰も彼らに聖体拝領を許可できない。このバラグラフこそがシノドで最も物議を醸した。これは、ようやくのことではあったが、178票という可決のために必要な3分の2票を得てしまった。
教皇フランシスコは他の場所でも、すでにこの「問題」を解決できる別の道を切り開いた。彼個人の権威で行動することで、また教会の掟を修正するいかなる機関の設立も回避するため、教皇フランシスコは結婚無効の事例手続きを平易にした。つまり、あやふやな結婚無効宣言が将来的に大量発生するということ、また、教会でではなく民法的に再婚した夫婦が、教会において自分たちの結婚が合法化されるということを恐れる重大な理由が存在する。従って、教会の教えの領域においては結婚は不解消的なままであるが、実際にはある種の「カトリック信者の離婚」が日の目を見る可能性がある。
今回のシノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている。福音の伝統的教えを公に破ろうとはしない大勢の司教たちがいた一方、他方では、この教義を明確に、曖昧さを残さずに明記する少数派の司教たちがいた。カトリック教会内と二回のシノドにおいて二つのアンケートがなされた後、妥協した文書と離婚して再婚したカトリック信者たちを「教会の生ける成員」と認めるという結果だけが残された。もちろん彼らに聖体拝領は許されていないが明確にそれを禁じてもいない。シノドは、ほんのちょっとで、さらに悪い方法で幕を閉じていたかもしれない。保守派の司教たちが、教義からあからさまに離れることを拒否したかもしれなかったが、結婚の不解消性に影響はなかったがためにほっとした。進歩派の司教たちは、彼らが望むすべてを得られなかったとはいえ、教義と規則の緩和化の道をさらに歩み続けることができる。
マチアス・ガオドロン神父
愛する兄弟姉妹の皆様、
すこし遅れてしまいましたが、「ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書」について、ご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書
http://www.dici.org/documents/le-rapport-final-du-synode-des-eveques-a-rome/
2015年12月4日
シノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている
聖ピオ十世会会員、マチアス・ガオドロン神父は1990年、ティシエ・ド・マルレ司教により司祭叙階された。12年間に渡ってツァイツコーヘン(バイエルン)のイエズスの聖心神学校の校長を務めた。現在ではザンクトガレン県(スイス)のInstitut Sainte-Marieで教授を務めている。「教会内における危機についてのカテキズム」(アンジェルス・プレス)の著者である彼は、今回の記事で家庭に関するシノドの最終報告書を分析している。これは最初にドイツ管区の月刊ニュースレター Mitteilungsblatt誌(2015年12月)と、同管区のウェブサイトに掲載された。
DICI編集部は、フランス語訳と英訳の掲載許可の快諾を得られたことを彼に感謝する。
希望と不安を同等に引き起こしたローマでのシノドは、2015年10月25日に閉会した。このシノドでは、多くの進歩主義カトリックたちと司教たちが期待したような、離婚して再婚した人々への聖体拝領の実施を勧めることもせず、同性愛者たちにもっと好意的な態度をとろうと呼びかけることもなかった。しかし、シノドは明確な言い回しでカトリックの真理を擁護することもなかった。教皇庁のKurt Koch枢機卿が次のように述べたように、次のことは残念ながら事実である。すなわち「閉じられたドアは一つもない」ということだ。結局、秘跡の新しい実践がいずれ導入されるかどうかという問題は、以前として開かれたままである。
同性愛に関する限り、シノドはそのno.76において、同性愛の絆は結婚に関する天主のご計画と両立しないと宣言した時、充分に明確な言葉を使用した。この文書はこうも述べている。国際組織が貧困国に財政援助をする引き替え条件として、同性愛者たちの「結婚」を合法化せよと圧力をかけることは断じて受け入れられない、と。
だが、さらにこの先、離婚して再婚したカトリック信者の問題について、no.84は受け入れ難い声明を含んでいる。実際のところ「聖霊はすべての人々の善のために、彼ら[離婚して再婚したカトリック信者たち]の上にその贈り物と賜物を注がれる」というのは事実だろうか? 厳密に言ってこの文章を受け入れられる人がいるとしても、この「贈り物と賜物」は聖寵の状態にあることを前提としないので、次に続く文章、「彼らは破門されたと感じるべきではない。その反対に、教会の生ける成員として成長できることが彼らにとって不可欠なのだ」という場合と意味がつながらない。離婚して再婚した人々が、みずからを教会から切り離したり、信仰を否定しない限り破門されないというのは事実である。彼らは教会の成員のまま留まる。ということは、しかし、彼らはもはや教会の「生ける」成員ではなく「死せる」成員ということになる。神学用語での生ける成員とは、聖寵の状態にあるカトリック信者のことである。あらゆる大罪が原因となって、成員は失われる。その結果、罪人はキリストとその教会に結びついたままであるが、天的生命の循環をやめた死せる成員としてなのである。離婚して再婚した人々は永久的大罪の状態のうちに生きている。彼らが天主の意志に反する婚姻の状態に終止符を打つつもりがない限り、ちょうど大罪を犯した人々がするように告解してもゆるしは与えられない。ゆるしが有効に与えられるのは、痛悔と生き方を変えるというしっかりした目的がある場合のみである、という単純な理由のゆえにである。このような状態においてこそ彼らは本当の意味で「前進」せざるを得ず、最大限に教会の生命に参与することで、彼らの罪深い状況から離れるために必要な恩寵と強さを乞い求めるのである。
no.86においては曖昧さも見出される。離婚して再婚した人々と司祭との対話は「内輪で語らうことで、彼らが教会の生命にもっと完全にあずかる可能性と、それを育み、成長させる段階を阻止するものを正しく判断する方法に貢献する」これはどういうことか? このようなカトリック信者たち──じっくりと内省したのち、良心に顧みて決意した──が秘跡に近づくことを許すために、ドアは少しばかり開かれているように見える。離婚して再婚したカトリック信者は、ある意味主要な神学上の問題を何も突きつけていない。彼らは罪の生活を捨てればすぐに、再び告解に行くことができるし聖体拝領できるのだ。だがそうしない限り、キリストと教会の教えを尊重する司祭は誰も彼らに聖体拝領を許可できない。このバラグラフこそがシノドで最も物議を醸した。これは、ようやくのことではあったが、178票という可決のために必要な3分の2票を得てしまった。
教皇フランシスコは他の場所でも、すでにこの「問題」を解決できる別の道を切り開いた。彼個人の権威で行動することで、また教会の掟を修正するいかなる機関の設立も回避するため、教皇フランシスコは結婚無効の事例手続きを平易にした。つまり、あやふやな結婚無効宣言が将来的に大量発生するということ、また、教会でではなく民法的に再婚した夫婦が、教会において自分たちの結婚が合法化されるということを恐れる重大な理由が存在する。従って、教会の教えの領域においては結婚は不解消的なままであるが、実際にはある種の「カトリック信者の離婚」が日の目を見る可能性がある。
今回のシノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている。福音の伝統的教えを公に破ろうとはしない大勢の司教たちがいた一方、他方では、この教義を明確に、曖昧さを残さずに明記する少数派の司教たちがいた。カトリック教会内と二回のシノドにおいて二つのアンケートがなされた後、妥協した文書と離婚して再婚したカトリック信者たちを「教会の生ける成員」と認めるという結果だけが残された。もちろん彼らに聖体拝領は許されていないが明確にそれを禁じてもいない。シノドは、ほんのちょっとで、さらに悪い方法で幕を閉じていたかもしれない。保守派の司教たちが、教義からあからさまに離れることを拒否したかもしれなかったが、結婚の不解消性に影響はなかったがためにほっとした。進歩派の司教たちは、彼らが望むすべてを得られなかったとはいえ、教義と規則の緩和化の道をさらに歩み続けることができる。
マチアス・ガオドロン神父