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ダヴィデ・パリャラーニ神父の講話(2)「フィドゥチア・スプリカンス」この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

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「フィドゥチア・スプリカンス」
この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会(その2)

“Fiducia supplicans”:
A synodal Church listening to the world,
but deaf to the word of God

ダヴィデ・パリャラーニ神父
聖ピオ十世会総長

https://vimeo.com/904255614

クリエ・ド・ローマ第17回神学大会
2024年1月13日、パリ

IV―「フィドゥチア・スプリカンス」:昔の話

以上のさまざまな考察により、この未婚のカップルや同性カップルを祝福する可能性の背後にある理由を整理してきました。しかし、私たちはこの最近の出来事を、もっと古い物語の新しい章として見る必要もあります。このことは、事実上、教会が現代社会の圧力に屈していることを私たちが理解する上で重要なことです。

この圧力はどこから来るのでしょうか。なぜこのような強制がそれほど強いのでしょうか。私たちが、教会が決定したことの重大さを理解したければ、教会がさらされている圧力の大きさを理解する必要があります。

第一に、私たちは原理を思い浮かべる必要があります。革命とは定義上、既成の秩序を破壊することです。私がここで述べているのは、大文字の「R」の革命(Revolution)のこと、あらゆる種類の革命を包含する言葉の最広義の意味での革命のことです。革命はすべての既成秩序を破壊し、それを達成するために、すべての区別を破壊しなければなりません。なぜなら、区別のないところには、秩序はあり得ないからです。

例えば、なぜ家族に秩序があるのでしょうか。区別があるがために秩序があるのです。父親は、母親でも、祖父でも、子どもでも、息子でも、娘でもありません。父親は父親であり、他の誰でもありません。同様に、母親は母親であり、他の誰でもありません。家族には自然に確立された秩序があり、各メンバーは、家族が目的を達成することのできる、それぞれの役割を果たすことが期待されています。

革命はあらゆる秩序を破壊するのですから、家族だけでなく社会全体のあらゆる区別を破壊しなければなりません。なぜ破壊しなければならないのでしょうか。この原理を神学的な方法で考えてみましょう。なぜ革命はすべての区別を破壊する必要があるのでしょうか。

端的に言えば、区別は何らかの形で、人間と天主との間の区別という、最も根本的な区別に由来するか、それにつながるからです。最初の革命は、自分と天主との区別を受け入れなかったルチフェルから始まりました。超自然のものと自然のものを混ぜ合わせるという近代主義の戦闘計画全体は、単にこの革命の現れにすぎません。人間の良心を神格化することは、この根本的な区別をなくすもう一つの方法です。このようにして、人間は善と悪の原理となります。人間は、真理と虚偽の原理となるのです。

この観点からすると、常識と結びついた伝統的な区別はすべて禁止されなければなりません。なぜなら、その区別はすでに述べたこの根本的な区別の痕跡だからです。その区別は、人間と天主との間の最初にして究極の区別の繰り返しなのです。これらの区別は、拒絶された秩序の不可欠な一部であり、上から下まで再考される必要があります。よくあるのは、言葉が妨げられることです。特定の表現や単語はもう使うことができません。それらは悪者扱いされ、特に、それらが伝統的な区別を反映する表現であればなおさらです。

具体的な例の中には、教師と生徒、雇用者と被雇用者、親と子、司祭と信者といった伝統的な区別があります。異なる国家間、異なる宗教信条間の区別もあります。これらの区別は排除されるか、少なくとも再評価されます。地球、私たちの共通の家、人間の尊厳、人権など、人々が共通して持っているものが強調されるのです。

――――――――――
罪によって破壊され、革命によって歴史を通して破壊されつつある秩序を再建すること、これがカトリック教会の使命であり、ご托身の理由です。
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しかし、具体的に言えば、最終的に破壊される必要のある区別とは何でしょうか。人間とすべての動物の物理的本性に最も深く根ざしている区別とは何でしょうか。天地創造の日に、何が天主の御手から直接もたらされた区別でしょうか。この区別とは何でしょうか。天主は彼らを雄と雌に創造されましたか。天主は雄の動物と雌の動物を創造されました。天主は男と女を創造されました[注2]。この区別は第一のものにして最も明白なものです。そしてこの区別によって、天主は非常に具体的な機能と非常に具体的な役割を結びつけられたのです。

注2 創世記1章27-28節「天主は、ご自分にかたどって、人間をつくり出された。天主は、人間を天主のかたどりとし、男と女につくり出された。天主は、人間を祝福して仰せられた。「生めよ、増えよ、地に満ちて、地を遅配せよ。海の魚と、空の鳥と、(家畜と、)地をはう生き物をつかさどれ」。マテオ19章4節「イエズスは答えて彼らに言われた。『あなたたちは読まなかったのか。初めにすべてをつくられたお方が人を男と女につくり給うた」。マルコ10章6節「だが、創造の初めから、天主は人間を男と女につくられた」。

もしこの区別をなくせば、あるいは世界がこの区別を理解できなくなれば、父性の美しさをどうやって説明できるでしょうか。父性、すなわち父親であることは、ここ地上における天主の権威の発露にして適用なのです。この美しい概念は天主の啓示の一部です。それを強調しているのは聖パウロです。天主の創造の使命の延長線上に自分の使命を見いだす父親は、とても崇高なものです! しかし今日では、このようなことはすべて理解できなくなりつつあり、破壊されなければならないものなのです。彼らは、誰が男か女か、あるいは何が男で何が女なのかさえ、もはや誰も理解できないような人類に到達しようとしています。少なくとも人々の心の中では。

ですから、現実には、この過程は長い道のりを歩んできたのであり、非常に特別な理由があったのです。その内実の一部始終を理解する必要があります。その背後には、言葉の最も深淵な神学的意味において、悪魔的な意志があるのです。この区別を最初に拒否したのはサタン自身であり、彼はすべての人に――例外なく――同じ道を歩ませようとしているのです。「あなたたちは神々のようになる」[注(3)]と。

注(3)創世記3章4-5節「へびは女に言った。『いや、おまえたちは死にはしない。おまえたちがその実を食べれば、そのとき目が開け、善悪を知る神々のようになると、天主は知っているのだ」。

そして、これらすべての区別、特にこの最後の区別をなくすことは、人類の自滅につながります。それは、もはや父親もなく、もはや母親もない人類です。なぜなら、人類は父親とは何か、母親とは何か、男とは何か、女とは何かをもはや知らないからです。これは、滅びる運命にある文明です。継続することはできません。しかし、なぜ継続できないのでしょうか。サタンが人殺しだからです。サタンは最初から、人間を破滅させるために人間を欺こうとしてきており、成功しつつあるのです! 今日、誰もがこの新しい原理を、そして区別の廃止を、ある種の寛容さと微妙な差異をもって、受け入れなければならないのです。なぜなら、真のゲームは、見えないように技術的に隠されているからです。それにもかかわらず、今日では、誰もが何らかの形で、こうした区別の廃止を受け入れざるを得ず、したがって、それが意味する新しい秩序を受け入れざるを得ないという事実があります。

しかし、なぜご托身が起こったのでしょうか。カトリック教会はなぜ創立されたのでしょうか。教会の役割とは何でしょうか。教皇の役割とは何でしょうか。このような矛盾と闘うためにこそ、カトリック教会はあるのです! 天主と人間との最初の区別から始まり、それに続くすべての区別を指摘することです。彼らの役割は、罪によって破壊され、革命によって歴史を通して破壊されつつある秩序を再建することです。これがカトリック教会の使命です。これがご托身の理由なのです。

しかし、カトリックの教会の聖職者たちは今日何をしているのでしょうか。この世に沿って、現代社会と同じ方向に進んでいるだけでなく、それを祝福しているのです! ここでようやく、「フィドゥチア・スプリカンス」の深刻さが理解できるでしょう。私たち一人一人が、今日起きていることの何が問題なのかを正確に理解する努力をすることが重要です。行動計画(アジェンダ)は確立されています。この祝福が与えられるかどうかは問題ではありません。そうではありません! 本当の問題はもっと深刻です。カトリックの教会人がこれらの原理を祝福しているのですから。では、私たちにとって、私たちは、それをどう説明することができるでしょうか。

V- 教皇フランシスコだけの責任か

ああ、こうならざるを得なかったのです。確かに私たちにはつまずきですが、過剰に驚いてはいません。しかし、なぜこうならざるを得なかったのでしょうか。道徳とは教義と信仰の実りであり、その逆ではないからです。私は、天主、人間、霊魂、罪、贖いについて自分が信じていることの観点から、自分の行動規範を定義するからです。私が真実であると信じることに基づいて、私は自分の行動規則を定めるのです。

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もし私たちが天主を選ぶことができるのであれば、私たちは自分がどうありたいかを選ぶことができることになります。
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したがって、現代の誤謬が、教理と信仰の退廃が、最も顕著に表れた結果である信教の自由を例に取りましょう。信教の自由は、公会議以来60年以上にわたって説かれてきました。では、何が予想できるのでしょうか。もし私たちが天主を選ぶことができ、自分自身の天主についての考えを選ぶことができ、あるいは天主についての考えをまったく持たないことさえ選ぶことができるのであれば、私たちは自分の行動規則や道徳を選ぶことができ、また私たちは自分がどうありたいかを選ぶこともできることになります。

天主が私たちにお与えになったものに満足しないならば、あるいは、天主が私たちを創られたやり方に満足できない(例えば自然法について奇妙な考えを持っていて)のならば、自分を変えたい、違うものになりたいと選ぶことができます。なぜいけないでしょうか?私たちが自分の天主を選ぶことができる、自分の宗教を選ぶことができる――これは今日教会が教えていることでもあります――のならば、なおさら(a fortiori)、それ以外のこと、たとえば誰と暮らすか、誰と家庭あるいはある種の「家族」のようなものを築くかを、私たちは選ぶこともできることになります。

もう一つの例はエキュメニズムになるでしょう。では、エキュメニズムとは何でしょうか。それは宗教間の戯れです! したがって、必然的に、もし私たちがこのエキュメニズムの精神に染まれば、遅かれ早かれ、乱れた道徳が後に続くことになります。道徳は教義の実りだからです。教義は、はるか昔に破壊されました。したがって、結論を出すことが必要でした。教皇フランシスコは、かなり論理的な方法でそれを行っているにすぎません。しかし、問題はフランシスコから始まったのではありません。このため、原因や元の原理に立ち返ることが聖ピオ十世会の役割です。

VI- 時のしるし

このパターンに、私たちが経験している教会の危機に特有の要素はあるのでしょうか。私たちは、何か新しいものがあることは認めなければなりません。

一つだけ挙げるとすれば、精神の盲目です。私たちは教会人が盲目になっている時代に生きています。ある疑問を解決しなければならないとき、彼らはもはや、自分たちが聖伝と連続しているのか、それとも不連続なのかを自問することさえしません。そのすべてがすでに時代遅れなのです。完全な盲目です。それこそが最悪の懲罰です。精神の盲目は間違いなく天主からの罰です。それは天主が身を引かれたしるしです。天主はご自分の光を退けられたのです。これが天主のお答えです。天主は沈黙を守られる。

なぜ天主は沈黙なさるのでしょうか。60年もの間、天主に耳を傾けようとしなかったからです。したがって、天主は退かれたのです。そして今、天主はすべての善意の人々に、天主がもはやおられないときに何が起こるかを示されます。天主が退かれた結果を示されます。これは、この世に捕らわれ、この世が提供する快適さを絶えず求め、何よりもこの世そのものに順応しようとする人間に課される罰です。遅かれ早かれ、人間は盲目になります。この世はその巧妙さで人間を盲目にします。この世は精神を盲目にし、意志を破壊します。【天主に耳を傾けないかぎり】それは避けられないことです。この世の悪しきをすべて非難するか、あるいは自分自身がこの世に取り込まれるがままになり――そして遅かれ早かれ、盲目になってしまう――かのどちらかです。

その結果、超自然の感覚と正しい判断力が完全に失われてしまいます。それは、聖三位一体や贖いのような超自然の現実についての判断力の喪失だけでなく、自然の現実についての正しい判断力の喪失でもあります。彼らはもはや、人間の本性に刻まれている最も初歩的で、最も明白な区別【例えば男女の区別】を理解することができないでいます。彼らはもはや、これらの区別が意味するものを擁護することができません。本当の精神の盲目です。

過ちと混沌と嘘の60年。この世に身を委ねてきた60年。今見ているのが、私たちのたどり着いた結果であり、彼らが祝福しているものなのです。

VII- 良心の優位から王たるキリストの優位へ

では、解決策はあるのでしょうか。

間違いなく、あります! 第一の解決策は、天主の聖寵を信じることです。

この世を喜ばせたいという願望や、この世に逆らうことへの恐れは、純粋に自然的で、純粋に政治的な物の見方から生じています。このため、私はこの言葉を本当に強く言います。それは、純粋に人間的な物の見方であり、そこでは聖寵の問題はもはや重要ではない世界観です。聖寵は単に観点から除外されています。もはや聖寵を信じていないのです。

私たちの住む世界は、必然的にその方向で進み続けるでしょう。なぜなら、それを変えることのできる超自然の要素が存在しないからです。聖寵はありません。この世を新たにすることのできる贖いはありません。贖いは今後、別のことを意味するようになるでしょう。

しかし、私たちは聖寵を信じなければなりません。

そして、聖寵と密接な関係にあり、天主の聖寵を信じることの帰結でもある、もう一つの解決策は、ルフェーブル大司教があらゆる機会に、あらゆる説教で主張した解決策です。それは、大司教が私たちに残してくださった宝の真髄です。私たちがそれをよく理解し、完全にそれに献身するならば、それは非常に単純な解決策になります。

それは王たるキリストです! 私たちは王たるキリストのもとに立ち返らなければなりません。

私たちは、これが基本的にこの世と教会に影響を及ぼしている政治的な問題であることを見てきました。

したがって、王たるキリストに立ち返らなければなりません。

何よりもまず、キリストは知性の王です。キリストは精神の王です。超自然的にも自然的にも照らすことのできる唯一のお方です。私たちは、超自然の光を失うと、遅かれ早かれ、最も明白な自然の物事に対する光をいかに失うかを見てきました。

キリストはまた、心の王、真の愛の王、真の愛徳の王でもあります。正にそれが欠けているのです。誰もが愛について語ります。しかし、愛徳という概念が失われたとき、贖いという概念が失われたとき、天主という概念が失われたとき、カトリック教会内でさえ、「愛」という言葉がいかにつまずきを与える意味を持つようになるか、愛ではないものが愛と呼ばれるようになるか、容易に理解できるでしょう。愛が祝福されますが、それはどのような愛なのでしょうか。

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王たるキリストは抽象的な考えではありません。単純な夢ではない。夢物語でもない。キリストは、すべてのものを復興させるために教会に与えられた唯一の手段です。
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知性の王、心の王、真の愛徳の王…そしてキリストは諸国の王です。私たちは、教会が祝福するこれらすべての誤った原理の矛盾に目を向け、その結果を考えなければなりません。この世は、これまでこれほど破滅的な状況に陥ったことはありません――この世は戦争状態にあります――そして、カトリック教会の誰も、その解決策が王たるキリストにあるとは言っていません! しかし、それはなぜでしょうか。それは超自然の光を失い、それとともに自然の光さえも失っているからです。

平和の探求は、言葉の最も崇高な意味での政治的問題であり、人間と歴史についての考え方を含んでいます。それはプログラムも含みます。私たちの状況、教会の現状において、王たるキリストの至高性をもっと深く理解することができます。私たちはまた、この教理、この教義、この原理などの放棄が何をもたらすかをもっと深く理解することができます。私たちは、それがどこに至るのかを見ることができます。それは、教会とこの世におけるすべての秩序の破壊に至らせるからです。

王たるキリストは、抽象的な考えではありません。単なる夢でもありません。夢物語でもありません。王たるキリストは、すべてのものを復興させるために教会に与えられた唯一の手段であり、この手段は教会だけに与えられているのです。これは確かに、今日の教会では理解しがたいパラドックスです。教会が、この世にいることを望むだけでなく、この世のものであることを望むのですから。王たるキリストは、教会だけが理解でき、人類に提供できる手段です。王たるキリストは、教会の宝です。それは、教会の社会教理の真髄です。キリストの王権が委ねられているのは、教会に対してだけです。教会だけがそれを宣べ伝え、実を結ばせることができます。教会を通してのみ、王の王、すなわち、道であり、真理であり、命である(4)王が人間の上に君臨することができるのです。

注(4)ヨハネ14章6節参照


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