四旬節の四季の金曜日
トマス小野田神父 2024年2月23日
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は四旬節の四季の金曜日です。新しい修道院長のワリエ神父様の司式でミサ聖祭を捧げています。
今日の福音書には、旧約時代にエルサレムにあったベザタ(Bethsáida, Bethesda)という治癒の池のことができてきます。多くの病人やめくらや足なえや中風の人が、この池の水が動くのを待っていました。主の天使がたびたび池に下りて水を動かすので、水が動いて最初に飛びこむと、どんな病気でもなおったからです。
この池の水は、洗礼の水の前兆でした。天からの天使によって力を受けた水が、人々を癒したからです。天主が旧約時代になさった奇跡は、時々、一回にたった一人のユダヤ人のために、目に見える体の健康のために行われました。しかし、天からの天主の御言葉が地上に来られて、ヨルダン川で受洗されることによって、洗礼の水を制定されました。世界中のどこでも、いつでも、何人でも、どのような境遇の人々にでも、霊魂の癒しを与えることができる洗礼の水の池が私たちに与えられています。
福音に出てくる38年来病気になやんでいる男は、罪に凝り固まった私たちを表しています。聖アウグスチヌスによれば40という数は完成を表しています。何故なら、福音の創始者イエズスは40日の断食を行い、律法の代表であるモーゼも40日の断食を行い、預言者の中の預言者であるエリアも40日の断食を行ったからです。人類が病に悩むのは、最も大切なものがないからです。つまり、全てを越えて天主を愛する愛と天主のために隣人をわが身のごとく愛する隣人愛の二つの掟を守っていないからです。聖アウグスチヌスによると、それが38という数で表されています。
しかし彼は、今では癒され颯爽(さっそう)と歩いてきます。何故なら、彼はイエズスに出会ったからです。イエズスから「治してほしいか?」とたずねられ、彼はこう答えたからです。「主よ、私を水に入れてくれる人がいません」と。
この池の周りに、うずくまる多くの病人やめくらや足なえや中風の人々は、現代のキリスト者の姿を示しているともいえます。病人は、病原菌に対する抵抗力を失うように、罪や罪の機会に囲まれて、罪に対する抵抗力を失い、罪を避ける決心ができない生ぬるい信者たちのようです。めくらは、天主からの真理の光を失い、霊魂の目によって自分と周りの霊的な状態を認めることができない信者たち、足なえは、霊魂の救いの道をしっかりと歩くことができない信徒たち、中風は、手足が麻痺して善を行うことができない状態の信者らを暗示しているようだからです。現代のキリスト者は、癒されるべき時を待っています。四旬節は、まさに霊魂の癒しをこい願う時です。
そんな私たちのところに、今日、イエズスは来られ、愛と憐れみにあふれてこう尋ねられます。「治してほしいか?」と。今日は、この金曜日は、御復活祭から遡って数えると、ちょうど38日前の日です。38年の病の悩みを、残る38日の四旬節の祈りと犠牲に比較できるとするなら、安息日に行われた今日の福音の癒しは、復活の徹夜祭の主の御復活の歓びに例えることができるかもしれません。
いまから38日後に、べザタという治癒の池の水に、主の天使がおりて水を動かして病を癒す奇跡をなさってくださるかのように、今日から38日のあと、復活の徹夜祭に、罪を赦す洗礼の水で清められる洗礼志願者の方々がいます。既に洗礼を受けた私たちも、自分の罪を痛悔して、主にその癒しと赦しをもとめて、残る四旬節の日々を過ごしましょう。主は私たちにこう言われるはずです。「起きて、床をとりあげて歩け」と。私たちが霊的に癒された後、こう付け加えられます。
「どうだ、あなたはなおった。さらに悪いことが起らないように、もう二度と罪をおかすな」と。
聖母に祈りましょう。残る四旬節を祈りと痛悔に過ごし、イエズスに癒されるのを待ち望むことができますように。