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御聖体の前兆であり前触れ:パンの増加の奇跡の神秘的な意味とは?

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2024年3月10日四旬節第四主日 大阪でのミサ

トマス小野田圭志神父 2024年3月10日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月10日、四旬節第四主日です。

キリストは霊的に新たに生まれた人々に命を与えます。さらに主は、天主の命に生まれた人々を霊的糧で、つまり御聖体で養われることをお望みになります。その現実が、私たちによく理解することができるように、主は、まず目に見える奇跡を行われて、そして肉体のために食べ物をお与えになります。

今日の福音では、この奇跡が語られています。これは霊的な糧、つまり御聖体の前兆であり前触れでした。今日の福音の奇跡の神秘的な意味を聖トマス・アクィナスの教えに従って考察しながら一緒に黙想して、残る四旬節の遷善の決心を新たにいたしましょう。

【いつどこで?】
まず、いつどこで誰を主が養ったのでしょうか? それはユダヤ人の祭であるすぎこしが近い時、ガリラヤ湖の向こう岸の山でのことでした。主は、大人の数だけで五千人ぐらいの大群衆を養います。
主は、海のように波立つガリラヤ湖をお渡りになります。神秘的な意味では、ガリラヤの湖は、不安定なこの世を象徴しています。主はこの世に生まれて御死去することによってこの世つまりガリラヤ湖を渡り、復活することによって向こう岸つまり栄光にうつります。この「移り渡り」については、聖ヨハネは聖木曜日のことを記録しながら、こう書いています。「イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来た」(ヨハネ13:1)と。
奇跡が行われたのは山でした。主は弟子たちを高いところに導きます。それはこの地上の物事では私たちは満足されえないからです。しかし霊的なことなら私たちが満足されることができるということを教えるためでした。主はこう言われます。サマリアの婦人にこう言われました。「この水をのんでもまたかわきをおぼえるが、私の与える水をのむ者はいつまでもかわきを知らないだろう。」(ヨハネ4:13)
時は過ぎ越しの近くでした。過ぎ越しというのは「移る」とか「主が過ぎ越される」という意味です。これによって、主の御言葉によって養われて、主の御体と御血によって養われようとする人々は、罪から聖徳に移らなければならない、ということを教えています。聖パウロもこう言います。「私たちのすぎこしであるキリストはすでに屠られた。古いパン種ではなく、悪意とよこしまのパン種でもなく、清さと真実との種なしパンを用いて祭りをおこなおう。」(コリント前5:7)と。

【1:奇跡】
ではいったいどんな奇跡だったのでしょうか? 主は「目をあげて、大群衆が来るのをごらんに」なります。憐れみの眼差しを向けます。そして主は彼らを養うこと・かれらに食べ物を与えることをお望みなります。主は、これによって、教えるものは、霊的に人々を養う手段を持たなければならないということも教えています。

■フィリッポとアンドレアの二人の弟子が来ます。フィリッポはこれから主が奇跡を起こなおうとすることにまったく気が付いていなかったようです。お金で買うことを考えました。「二百デナリオのパンでは、各自少しずつとってもたりますまい」と言います。
これに反して、アンドレアは奇跡のことを考えていたようです。なぜかと言うとすでに、旧約時代、預言者エリゼオが大麦のパン二十個で百人の男たちを養った奇跡(列王下4:42)があったからです。ですからアンドレアはこう言います。「大麦のパン五つと魚二匹をもっている子どもがここに一人います」。でも、エリゼオの奇跡よりももっと偉大な奇跡をキリストが行うとは考えていなかったようです。「こんなに大勢の人ですからパンが五つではなんのたしにもなりません」と言い加えているからです。パンの数が足りないので、たとえエリゼオのような奇跡を行ったとしても養うことができる人の数は限られているだろうと想像したのです。しかしイエズス様にとっては、奇跡を行うために物質的なものは必要ではありません。

ところでこの二人の弟子について、使徒たちについて、聖トマス・アクィナスはこんな神秘的な意味だということを説明しています。キリストは律法を完成させることを暗示させているということを教えている、と。何故かというと、知恵というのは霊的な糧と言えるからです。そしてイエズス・キリストによって真の知恵があたえられたからです。聖パウロは言っています。キリストは「天主の力、天主の知恵である」(コリント前1:24)と。

聖トマス・アクィナスによると、キリストが来る前には二つの教えがありました。一つは人間の哲学者たちの教えで、二番目は律法の教えでした。
●フィリッポが「二百デナリオのパン」と言ったときには、この二つのキリストの前にあった二つの教えのうちの最初のひとつ、人間的な知恵のことを神秘的に意味したと言います。100というのは完成を暗示するので、人間の知恵を得るには二重の完成が必要だ、つまり体験による完成とあと思索による知恵だといいます。そして200デナリオは、思索と体験による二重の知恵のことを意味している、と。しかし、それにもかかわらずそれでは足りない。いくら人間の知恵が理性が知識を経験してまた観想して思索しても、私たちの欲求を完全に満たせることはできないからです。実際、過去、哲学者たちは多くの人々を誤りに導いてきました。
●ところでアンドレアが出てきます。アンドレアは聖トマス・アクィナスによると、二つの教えのうちの第二の教えを暗示していました。なぜかというと、パンを買うのではなく、すでに持っていたパンで大群衆を養おうとしたからです。「大麦のパン五つと魚二匹をもっている子ども」というのは、モーゼをあるいはユダヤ人民族を暗示している象徴していると聖トマス・アクィナスはいいます。子供であったというのは、なぜかというと、律法の状態は未完成だったからです。聖パウロは言います。「律法は、何事も完成させなかった」(ヘブレオ7:19)と。あるいはユダヤ民族を表しています。なぜかというと、「この世の要素のもとにあった」(ガラチア4:3)からです。

「パンを五つ」を持っていたのは、聖トマス・アクィナスによると、モーゼの五つの本に含まれた律法の教えを暗示しているといいます。なぜかというと、「律法はモイゼを通じて与えられた」(ヨハネ1:17)からです。あるいは別の理由として、世の要素というのは五感を通して知られて、人々はそのとりこになっていたからです。「大麦のパン」だったというのは、なぜかというと、大麦というのは固い殻に包まれていたように、命を与えるべきものが律法という物質的な固いしるしのもとに与えられていたからです。ですからユダヤ人たちは「先祖も私たち自身も負いきれなかったくび木」(使徒行録15:10)という儀式の固い規定のために、外的な行動様式を持っていて、あたかもそれが、固い殻のようだったからです。また聖パウロは「かれらの心にはおおいが垂れている」(コリント後3:15)と、固い殻のことを暗示しています。

「魚」というのは、おかずとしてパンに味を付けるので「魚二匹」というのはちょうど律法に味をつける詩篇と預言者たちを意味している、と聖トマス・アクィナスは言います。旧約聖書は三つの部分に分けられていて、モーゼの五書に書かれている律法とそれから詩篇と預言書です。主は復活後エンマウスの弟子たちにこういいます。「モイゼからはじめて、(律法)、すべての預言者にわたり、聖書のすべての本の中で、自分について書かれたことをかれらに説明された」(ルカ24:44)と、三つの部分からなる聖書について説明したと言っています。

■ところで、福音の話に元に戻すと、主は、使徒たちに「みなを座らせよ」とおおせられます。神秘的な意味では、知恵の完成のためには休息が必要であるということを意味しています。何故かというと、外的に働いてばかりいるということは、知恵を受けるのには妨害になるからです。外的な活動が少ない時、わたしたちは知恵を受けやすくなるからです。そして、使徒たちを通して人は真理の知識を受ける準備がなされます。「座らせよ」。
「そこには多くの草が生えていた。」といいます。神秘的な意味では、ある意味では、草は人のことをあらわします。ユダヤ書によると、「全ての人は草である」(イザヤ40:6)というからです。この草というのは、旧約の教えを意味しているとも考えられます。あるいは、真の知恵を受ける人を意味しているとも考えられます。なぜかというと、真の知恵は肉のことをまず放棄しなければ得ることができないからです。聖パウロはこういいます、「この世にならうな。」(ローマ12:2)と。
ところで、福音史家は、律法の習慣に従ってモーゼがした(民数1:3)ように、大人の男の数だけを数えています。なぜかというと、聖パウロが言うように「私たちも完成した人の間で知恵を話している」(コリント前2:6)からで、「固い食物は完成した人のもの」(ヘブレオ5:14)だからです。

【感謝】
その次に主は謙遜に「パンをとって感謝をとなえ」ます。キリストはもちろん無からパンを奇跡的に作り出して大群衆を養うことができました。しかし、二つの理由でパンを使いました。なぜかというと一つの理由は(1)物質的なものが悪魔から来たものではないことを示すためでした。また第二には(2)旧約の教えが天主から由来するということを示すためでした。つまり、新約の教えは、旧約においてすでに前兆として示されていたこと、含まれていたことを示すために、すでにあったパンを増やしたのです。これはイエズス様こそが律法を完成させて、成就させる方であるということを示すためでもありました。イエズス様はこう言います。「わたしは律法を廃しようとしたのではなくて、完成させるためにきた」(マテオ5:17)と。

主はパンを取って「感謝をとなえ」ます。ご自分がお持ちのものは全て御父から来たということを示すためでした。私たちも同じようにするように模範を示されました。私たちも食事の前に食前の祈りをすることを教えています。聖パウロの言うように「天主が創られたものはすべて善いものであり、感謝して受けるときには棄てるものはない」(ティモテオ前4:4)からです。奇跡を行う前にまず感謝をささげて、イエズス様はすべて御父の御旨に従って行っていることを示されようとします。
そして主は「座っている人々に分け与え」ます。イエズス・キリストだけが内的にわたしたちを養い、そして主は使徒たちを使って外的に養われます。お望みのままにおあたえになって、人々にじゅうぶんに食べさせます。イエズス様だけが飢え渇く霊魂に良いものを満たすことができる力をお持ちです。イエズス様には無限の力があるからです。

それから食べ残りが集められます。こうすることによって、イエズス様がなさった奇跡が単なる想像の産物ではないということが示されます。また残り物を他の人々に与えるためでもありました。残りの量は、正確に主が計画されたとおりでした。何故ならば、イエズス様はどれほど残るだろうかということを知りながらそれに必要な数を奇跡的に増やすことができたからです。使徒たちのそれぞれのかごがいっぱいになりました。神秘的な意味では、「十二のかご」は、十二使徒たちとそして使徒たちをまねる人たちのことを意味しています。かごにものを集めるというのは身分の低い人の仕事でした。農夫の仕事でした。ですから使徒の仕事は、現世においては軽蔑されるかもしれません。しかし、霊的な秘跡の豊かさでいっぱいになっています。使徒たちは、三位一体の信仰を世界の四方に宣教するべきものなので、三位一体を四方に広げるという意味で、十二のかごがいっぱいになったと、聖トマス・アクィナスは言っています。

【御聖体】
では今日のこの奇跡はわたしたちに何を教えているでしょうか。愛の天主は私たちに今日の奇跡よりも遥かに素晴らしい奇跡を私たちに日々行ってくださっています。私たちの祭壇の上で日ごとに起こっている大奇跡です。主は、荒波に荒れ狂うようなこの世にお生まれになって、御死去し、御復活することによって、この世から御父のもとにおうつりになりました。そしてわたしたちを高い山のような霊的な命に導いておられます。十字架の高みへと引き寄せておられます。罪から聖徳に移り渡るようにと招いておられます。イエズス様を見て、歴史上何億、そして何十億という大群衆がイエズス様に付き従いました。そして、この世の終わりまで無数の人々が主に従うことでしょう。主は彼らを全て養うことを欲しておられますし、それがおできになります。

では、それならば、私たちはこの今日の福音の奇跡を遥かに超越する御聖体の秘蹟を理解して、御聖体に養われているのならば、イエズス様に対してどのようにすべきでしょうか?
わたしたちは、礼拝と賛美と従順と敬愛、思慕、孝愛、償い、感謝、また感謝、そして感謝、また感謝、の念を起すべきではないでしょうか。

最後に残る四旬節の決心を新たにいたしましょう。あと、もうすぐ三週間ですでに復活祭がやって来ます。ますます主の御受難を黙想いたしましょう。御受難の十字架の木になる実りが御聖体ですから、主の御受難を黙想いたしましょう。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。今日の福音の目に見える奇跡を通して、これを遥かに超える目に見えない超自然の愛の奇跡、御聖体の神秘をより深く理解する恵みをこい求めましょう。


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