2024年3月17日 東京での8時30分のミサの説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月17日、御受難の第一主日です。
【1:御受難の神秘】
母なる教会は、主の御受難をよりよく黙想するために、またよく黙想することによって、わたしたちの罪を深く痛悔するようにと、招いています。ですから今日は教会の招きに従って、主の御受難を一緒に黙想いたしましょう。
今日の福音では、イエズス様は、ご自分が約束されたメシアであり、天主であることを断言します。「まことにまことに私はいう。アブラハムが存在する以前に、私はある」と。ラテン語によると、アブラハムがつくられる前に、わたしは在ると、なっています。そのときユダヤ人たちは、イエズス様がまことの天主であるということを主張されたということを理解しました。彼らは残念ながら主を信じようとはせずに、石をとって主に投げつけようとします。しかしイエズス様は、ひそかに神殿を立ち去られ、そして人の目から隠れます。
まことの天主にしてまことの人なるイエズス・キリストは、こうやって御受難の荘厳な神秘のなかに入っていかれます。イエズス様が隠れたように、聖堂における十字架の像は紫の布でおおわれました。聖金曜日まで十字架の本当の姿が隠されます。そして隠された栄光の主にしたがうかのように、諸聖人の姿も隠されています。
では、わたしたちはこの受難の神秘の中に深く入り、苦しみを受けるのはいったいどなたなのか、考えてみます。苦しまれるのは永遠の天主御父の御一人子です。ご自分は奇跡を行ってどのような人の苦しみでもいつでもどこでもお望みのままにそれを和らげて取り除くことができるお方、この方が、苦しまれます。
では、何のために、誰のために、主は苦しまれようとするのでしょうか?それは私のためです。皆さんとわたしのためです。皆さんとわたしが、天国の永遠の至福を得ることができるため、でした。皆さんと私を地獄の火から救うためでした。皆さんと私を永遠の苦しみから免れさせるために、御自分があえて苦しみを受けられたのです。
では、主は、皆さんと私のために、どのような苦しみを受けたのでしょうか?肉体においても、霊魂においても、想像を絶するような拷問を受けられました。御父は、正義の怒りの重みで御子を容赦なく押しつぶされました。苦しみを和らげるようないかなる慰めもありませんでした。主の受けた たった一人でお受けになった御受難を少し見てみましょう。
【2:主の御受難:十字架上のイエズスは全ての人々から捨てられた】
主は人々から捨てられました。ふつう人が死のうとする時に、この死のうとする人を愛した人々、あるいはこの人から恩恵を受けた人々、つまり友人や家族などは、この苦しみに同情したり、その死を惜しがったり、涙を流して、そしてなんとかこの死のうとする人を苦しみを慰めようとします。しかしイエズス様の敏感な聖心に対してはそのような慰めはいっさいゆるされませんでした。
イエズス様はまったく無罪でした。裁判官であるポンシオ・ピラトが、罪がないと、何度も宣言したにもかかわらず、群衆の叫び声によって、主は十字架の磔の死刑を受けます。まったくの冤罪でした。釘付けにせられて、磔にさせられます。愛する兄弟の皆様も、もしもわたしたちが、テレビや新聞やインターネットのニュースで、世界中でわたしたちのことが騒がれて、真理の声は掻(か)き消されて、無罪の罪を負わされて、家族や友人からあるいは社会から、捨てられてしまったと想像してみてください。
十字架につけられた主の周りは、見渡せば、あざける人々、反対する人々、陥れようとする人々、冒涜する人々でいっぱいでした。ユダヤの指導的な立場にいた、司祭長・長老などは、かれらは人民から尊敬を受けて、その言葉に従っていましたが、イエズス様がこうやって屈辱と不名誉な最期を遂げるのを喜んで見ていました。主の苦しみを見て、これで邪魔者が消えると、楽しんでさえいました。大群衆といえば、数日前は主がエルサレムで凱旋するのを歓迎していましたが、今や態度をすっかり変えて、主をあざ笑っています。奇跡を受けて癒された人々も、あるいは奇跡的に食べ物を受けて満たされた人、教えや指導を受けた人々、光によって照らされた人々、これらの人々はあるいは主を捨て去ってしまったか、あるいは主を迫害する側のほうに回りました。
あれだけ恩義を受けたにもかかわらず、もう役に立たないと捨てられてしまったかのようです。主に選ばれて、三年も主と親密に生活をした人々も、卑怯にもそして臆病にも、逃げ隠れました。最後の晩餐の時には、「たとい、みながあなたについてつまずいたとしても、私は決してつまずきません」とか「私は、あなたといっしょに死ぬようなことになっても、あなたをいなみません」などといった弟子たちは、死の危険を察知してあっという間に主を見捨ててしまいました。その数時間後に。もしも最後までイエズス様のおそばを離れなかったとしたら、イエズス様の最期をお慰めすることができたかもしれません。一緒に最期の御言葉を聞くこともできたかもしれません。しかし、十字架の元にとどまったのは、マリア様と、二・三人の女性、そして使徒たちの中ではたった一人ヨハネだけでした。聖ヨハネだけでした。イエズス様の友だったのは、忠実に残ったのはたったそれだけでした。また主は御父からも棄てられたかのようになりました。
【3:主の御受難:十字架上のイエズスは天使と御父から捨てられた】
ゲッセマネの園で、主が祈っている時には、「天からの使いがあらわれて、イエズスを力づけた」(ルカ22:)と聖ルカは記録しています。しかし、十字架上にいるイエズス様には天使たちは力づけようとしたり近づいたりしようともしませんでした。イエズス様はたった一人で、ぶどうの実を踏まなければなりませんでした。たった一人で悪魔という敵を打ち倒さなければなりませんでした。主の戦いに助けに来る人々は誰もいませんでした。お一人で、御自分の御血と命をお捧げになろうとします。御体は鞭打ちで傷だらけ、釘の傷口はどんどん広がるばかりです。茨の冠で頭全体は棘(とげ)が刺さり、主は頭を休めるところさえもありません。しかし、天使たちは、自分たちの王を助けようとさえもしませんでした。
主が洗礼を受けたとき、また御変容のときには、御父は「これは私が愛する子である」と宣言されました。しかしその御父でさえも、イエズス様の苦しみを和らげようとは一切されません。御父は、かえって厳格で容赦のない正義の重みで
御子を押しつぶします。御父は、イエズス様を支えようとさえもされませんでした。少しの休みも、緩和も、容赦もありませんでした。ほんのちょっとだけでも軽くしてあげたいということもなく、苦い杯を最後まで主は飲み干さなければなりませんでした。あまりにも巨大な苦しみ、限度を超えるような苦悩、御父からも見捨てられたようなこの悲痛、これは全て、愛する兄弟の皆さんとわたくしを愛するがために、あまりにも強く愛するがために、心から喜んでお受けになった苦しみでした。たったひとりで十字架の祭壇に上られたイエズス様、このイエズス様に今日は近寄る御恵みを請い求めましょう。
【たった一人の十字架上のイエズス】
私たちの五感を働かせて、マリア様とともに、一人捨てられたイエズス様を黙想いたしましょう。
●みてください、イエズスの足は、十字架に固く釘付けにされています。あたかも、私たちをお待ちのようです。場所を決して離れない。待っている。
イエズス様の両手は、広がって十字架に釘付けにされています。あたかも、私たちを抱きかかえようとお待ちのようです。さあ早くわたしのもとに来い。
イエズス様の御顔は垂れ下がっています。あたかも、私たちの祈りをよーく聞こうとお待ちになっているかのようです。さあわたしのもとに来るがよい。祈りをするがよい。
●よく聴いてください。イエズス様の耳は、主に反対する恐ろしい冒涜でそれを聞かされて飽き飽きしています。あたかも、私たちから愛の言葉を聞きたいとお待ちになっているかのようです。どうぞイエズス様の近くにさえ近づいて愛の言葉を、祈りを囁(ささや)きましょう。
イエズス様の口からは、赦しの言葉が漏れています。よく聴いてください。「父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているか知らないからです」と。あたかもずっーと私たちのことを思っておられるかのようです。
わたしたちのことだけを思っておられるかのようです。マリア様のすすり泣き、この声を聞いてください。マリア様の御悲しみを見聞きして、なぜ私の心はそんなに石のように乾いて冷たいままなのでしょうか?
●香りをかいでください。人が聖なる人が亡くなるときに、聖徳の香りがするといいます。イエズス様の御体からは聖徳のとても良い香りが立ち上っています。天に上がっています。あたかも、この世の毒で汚染された悪臭から私たちを守ろうとするかのようです。
●味わってください。マリア様の汚れなき御心、つらい苦さでいっぱいです。悲しみの御母、憐れみの御母、愛の御母の涙の味、残酷に捨てられた苦さ辛さ、悲痛の苦渋、これを私たちが少しでも味わうことができるなら、私たちはどれほど罪を忌み憎むことができるでしょうか!もしもマリア様のこの苦さをわたしが少しでも味わったならば、どれほど自分の罪に泣くことができるでしょうか!
●触ってください。たった一人ではりつけにされた主の十字架の木に触れてみてください。主の御血が流れてその御血は十字架の足元まで垂れ流れて真っ赤く血で染まっています。この十字架に接吻いたしましょう。その荒々しいごつごつした木に触れてみてください。そして、私たちにも流れる御血で、私たちの罪の汚れを清めてくださるように祈りましょう。
【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をいたしましょう。主は恐ろしい御苦難に入ろうとされます。主を打ち捨てて逃げた人々をわたしたちは真似て良いのでしょうか?
イエズス・キリストやその教会が嘲られるとき、私たちは主の敵と一緒になってイエズス様をあざけ笑ったり攻撃して良いのでしょうか?知らないと無関心を装ってよいのでしょうか。
私たちが罪を犯す時、主は苦しまれます。もしも私たちが主をお愛しして苦しみを捧げるならば、主の苦しみはすこしでも和らぎます。私たちは平気で罪を犯し続けていて良いのでしょうか?
罪の機会から遠ざかる恵みを請い求めるべきではないでしょうか。罪の機会となると知りながら、ケータイやパソコンやゲーム機でそのまま平気で時間を浪費して良いのでしょうか?テレビやYouTubeに浸っていて良いのでしょうか?
十字架上のイエズス様に心から祈りをお捧げいたしましょう。わたしたちの愛を申し上げましょう。イエズス様はこうおっしゃったことがあります。「私は十字架からあげられたとき、すべての人を、私のもとに引きよせる」(ヨハネ12:32)。すべての人をわたしのもとに引き寄せる。お約束の通り、私たちの心を主のもとに引き寄せてくださるように祈りましょう。主を愛する恵み、罪を忌み嫌う恵みを祈りましょう。十字架上のイエズスと一緒にいることができるようにわたしたちも日常の苦しみを受け入れる力と勇気を請い求めましょう。イエズス様への愛のために、イエズス様と一致して、私たちの身分上の義務を果たすお恵みを請い求めましょう。
最後に悲しみのマリア様に祈りましょう。マリア様の悲しみの御功徳によって、マリア様の母なる愛によって、わたしたちが罪を忌み憎む恵みを得ることができますように。イエズス様をますます愛することができる恵みを受けることができるように、マリア様の御取り次ぎを請い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。