この世の悪を忍耐と超自然的な精神とで耐え忍ぶための十字架の道行き
準備の祈り
イエズスよ、御身は、我らの霊魂を贖うため、また、天主の正義を満たし我らに永遠の救いを与えるために、苦しまれ、苦難を捧げられ給うた。我らに対するなんと偉大な愛たるか我らは心に深く感じ奉る!
イエズスよ、我らは、三位一体のいのちを永遠に享受せんがために召され、この世での人生の目的は、永遠に続く憐れみを受けることなり。
天主の愛は、天主なるイエズスの聖心に、我らの完全な自己放棄を求め給もう。故に、主は御受難にあたりて、我らに模範を残すことを欲し給えり。そは我らを支えんがためなり。しかるに、我らが十字架に出あうとき、我らはもはや独りではありえず。御身は我らと共にましまし給う。
我がこの十字架の道を行うは、この心を得んがため、かつ、試練を受けるすべてのキリスト者らがこの超自然的な精神を得んがためなり。
第1留
イエズス、死刑の宣告を受けたもう
ピラトはこう叫んだ。その答えは明らかな中傷であったが、イエズスは苦しみながら死ぬよう宣告された。無実の人が不当にも、極めて非道なことを宣告されるのは恐ろしいことだ!このようなことが起こると、人は、少なくとも内面的には反発し、それに付きまとわれる。私たちは、常に自分を正当化し、他人の悪い点を見ようとする。しかし、イエズスは、罪の不正を償うためにすべてを捧げ給うた。主は平安を保ちたもう。イエズスは、自分が受ける不正ではなく、善なる天主が罪人から受ける不正をこそ考え給う。
この世の生活で、評判や職場において、残酷な不正を経験する人がいる。そのような時、平和を保つ唯一の方法は、断罪されたイエズスを見つめ、主とともに、主を通して、この試練を生き抜くことである。イエズスよ、私たちにこの大きな恵みを与え給え。
第2留
イエズス、十字架を担い給う
アダムが罪を犯して以来、死は人間の生に入り、その一部となった。私たちは、若者は死なず、年を取った時に初めて、死が一瞬にして私たちを優しく襲うと考えている。
しかし主は、人生の最盛期に、周囲に多くの善を施すことができる年齢のときに、耐え難い苦痛の中でゆっくりとした死を宣告され給うた。イエズスはこれを安らかに受け入れ、それを捧げ給う。それは、無数の霊魂が永遠に生きることができるためだった。
今日、まだ幼い子供や配偶者の死によって痛ましい試練を受ける人々、愛する人のゆっくりとした辛い死を目の当たりにする人々がいる。彼らの心は血が流れるように苦しみ、反乱の閃光が浮かぶかもしれない。
イエズスよ、十字架の受入れによって得られた御身の功徳によって、これらの霊魂が御身と一致し、この試練を超自然的に生き抜くことができるよう助け給え。
第3留
イエズス、初めて倒れ給う
イエズスは疲れ果て、体は傷つき、十字架の重みは耐えがたいものとなった。イエズスは倒れ、十字架は主を押しつぶす。茨の冠は頭に食い込み、耐え難い首の痛みを引き起こした。しかし、主は誰にも不平を言わず、呪いもしない。イエズスは、あらゆる形の高慢を癒すために、この鋭い痛みを耐え忍んでいる。傲慢により、人は、自分が他の者より優れていると思わせ、天主から独立していると信じ込ませている。現代人は、ますます傲慢に膨れ上がっている。激しい頭痛を繰り返す人に出会うのは、最近では珍しいことではない。これは、大変な試練である。願わくは、彼らが、自分の苦しみを御身の苦しみと一つにする恵みを与え給え。
イエズスよ、人類のおごり・傲慢を償うために、御身が茨の冠を戴く功徳の分け前を彼らに与えておられることを悟る恵みを、これらの人々に与え給え。
第4留
イエズス、聖母に会い給う
試練のときにこそ、私たちはだれが忠実な友であるかが分かる。なぜなら、忠実な友は自分を友のために犠牲にすることができるから、私たちを救うために、自由に犠牲となることができるからだ。
聖母は、イエズスが一人であることを悲しみつつご覧になる。3年間も犠牲を顧みずに自分を捧げてきた天主の御子を、聖母は、ご覧になり、御子の悲しみを察し給う。感謝のかわりに主がお受けしたのは、卑怯と臆病だった。主はこの裏切りを、ものともせず、天主に対する人間の無関心と冷淡を償うために、この苦しみを捧げ給う。今日、多くの人は、天主に対して何の負い目もないかのように生きている!年老いた両親や教師、その他の多くの人々が、多大な犠牲を払いながら、自分を捧げてきたにもかかわらず、時には、消息もなく、評価もされず、孤独である。辛い、不公平な待遇を受けている。利己主義の勝利である。
イエズスよ、これらの霊魂が、試練を受け入れるように助け給え。彼らが、真の自己離脱によって、また、天主へのより大きな愛によって、平安と聖化を見い出すことができるようにお導き給え。天主の愛は、私たちを愛し、決して見捨てない、たとえ私たちがその愛に気づいていなくても。
第5留
キレネのシモンは、主を助け奉る
御摂理は、十字架の道行きでキレネのシモンとイエズスを結びつけた。それは救い主にとって大きな救いであった。聖ルカは、シモンがイエズスの後ろで十字架を担(かつ)いだと記している。それからは、道が狭かったため、二人は互いに邪魔し合わなければならなかった。イエズスは、シモンの助けを容易にするために、心の中で沈黙しておられる。結婚生活において、キリスト者の配偶者らは、聖化において共に進まなければならない。主は、彼らの互いの反感を癒すために、このような煩わしさを――おそらくキレネのシモンの十字架の梁から放たれた打撃を――耐え忍びたもう。
イエズスよ、御身は家庭における共同生活が、衝突や傷や不満のないものではないことを知っておられます。十字架の道行きに沿って与えて給う功徳と模範によって、それぞれの配偶者を支え給え。
第6留
ヴェロニカは、主の御顔を拭いたてまつる
十字架の道すがら、イエズスは、あざけりや冒涜、暴言などを耳にする。絶え間ない騒音の中で、黙想し、霊魂を高めることは非常に難しい。ある聖なる女性は、その騒ぎに乗じて、賢明なやり方で、救い主の顔を拭き、励ましの言葉をかけた。ヴェロニカである。イエズスは、人間の喧騒から逃れる術を知っておられた。主は、聖女ヴェロニカのこの単純な言葉をお聞きになる。イエズスは、人の邪悪な言葉や軽率な言葉をすべて償うために、喧騒の雰囲気、抑制のきかない言葉を耐え忍ばれる。聖ヴェロニカの優しい言葉を受け入れ、その言葉に報いてくださる。今日、多くの人々が、音楽、騒音、喧騒のせいで隣人が迷惑だと不満を漏らしている。彼らは自分の霊魂を天主に捧げることが難しく感じている。
イエズスよ、彼らが雑音の上に立ち、聖霊の優しいつぶやきを聞くことができるように助け給え。
第7留
イエズス、再び倒れたもう
イエズスは十字架の重さの苦しみが和らげられた。群衆が密集し、押しつぶされるかのように、再び倒れ給うた。再び起き上がるのは試練だった。何度も何度もそれを繰り返さなければならなかった。イエズスは、奇形や病気で疲れ果てた人々に対する周囲の人々の憐れみの欠如を補うために、この苦しみを耐え忍び給う。現代では、ダウン症や身体的・精神的な障害を持つ子供によって、深い影響を受けている家族が実際にいる。それは毎日背負う重い十字架であり、将来への不安でもある。しかも、彼らは好奇の目で詮索され、傷つける言葉を受けている。
イエズスよ、これらの家族、これらの子供たちが、御身の十字架の道行きの間、主の倒れたことを思い、御身と一体とならんことを。真の不幸とは自発的な意志によること、つまり本当の悪とは罪であることを思い起こすことができるよう助け給え。
第8留
イエズス、エルサレムの婦人たちを慰め給う
イエズスは間もなく、救い主の苦しみを嘆き悲しむ女性たちとすれ違う。イエズスは彼女たちを叱責しているかのようにも聞こえる! 「自分のため、自分の子供たちのために泣け!」この言葉は、あたかも身分上の務めを果たすには、誰でも努力と犠牲が必要だと仰せられているかのようである。私にとって、私の務めとは、人々の罪の贖いのために働くこと、霊魂を罪のない状態に導くこと、つまり霊的に子供を生むことである。しかし、霊魂が霊的に生まれるためには最大の苦痛を伴う。自分の子供たちの聖化と教育のためには、多くの犠牲が要求される。イエズスは、御父の御旨を行うために、絶え間ない苦しみを捧げられる。それは、人々の身分上の義務を遂行する上で、怠惰や臆病などのあらゆる形の罪を償うためである。
イエズスよ、仕事や家庭の務め・義務がしばしば新たな犠牲を求めるのは事実です。御身の模範と恵みによって、職務を全うするために求められる犠牲を怠ったり、落胆したりしがちな人々を支え給え。
第9留
イエズス、三度、倒れたもう
疲れ果てて、イエズスは三度倒れ給うた。イエズスはいく度も倒れ給うたが、すべての努力を傾注して、ようやく立ち上がることができた。イエズスは、誘惑を避けるための努力をほとんどしなかったり、怠惰から始まる罪の機会を避けようとする平凡な意志を持つある種の霊魂の度重なる過ちを補うために、このような努力と苦しみを耐え忍ばれる。救い主の苦しみは長く辛いものだが、それは平凡な霊魂を縛り付けている罪の鎖を断ち切る強力な恵みを得るためである。深刻な過ちを犯したために苦しむ霊魂もいる。そのような霊魂は、イエズスがご自分の道を進むために行っておられる超人的な努力に目を向け、落胆したり、キリスト教的な生活は今日では不可能だと考えたりするのではなく、寛大さ、慎重さ、祈りを倍加させるだろう。
イエズスよ、これらの弱い霊魂を支え給え。
第10留
イエズスは服を脱がされる
イエズスは死を前にして、この上なく貧しくなられた。これは、教えと美徳のすべてを豊かに捧げた彼にとって、大きな試練であった。イエズスは、人々のすべての感謝を表すような、最も豊かな装飾品に包まれて死ぬべきであった。イエズスは、この世の富や名誉に対する人々の執着を償うために、この自己否定を耐え忍ばれる。多くの個人や家族が、自分のせいでもないのに貧困に直面している!それは心配事であり、悩みであり、時には家族から非難されることもある。そのような人は、自分の貧しさを救い主の貧しさと一致させ、救い主の霊的な豊かさで満たし、日々の糧を得ることができるよう、確信をもって救い主に願わなければならない。
イエズスよ、我らを憐れみ給え。
第11留
イエズスは十字架に釘付けにされる
イエズスは大きな釘で十字架に固定されておられる。体を拭いたり、ハエを払ったりするために手を動かすことも、けいれんをほぐすために足を動かすこともできなくなった。彼は十字架上で麻痺している。この完全なはりつけは、主に何時間もの苦しみを与えた!イエズスがこの長い殉教を捧げたのは、半身不随になり、生活必需品のすべてを他人に依存する人々の反乱の心を償うためである。この依存から逃れるために、自ら命を絶とうとする者もいる。
イエズスよ、すべてを他者の善意に依存し続けることは、人々にとって非常につらい試練です。御身の十字架の功徳によって、彼らに忍耐と謙遜の豊かな恵みをお与え給え。彼らが自分の十字架を定め、彼らの道徳的、肉体的支えを御身のものと一致させることができるように助け給え。
第12留
イエズスは十字架上で死に給う
十字架の上で、イエズスはすべての人のことを考えておられた!イエズスは、信仰と悔い改め、希望と憐れみ、謙遜と純潔、強さと憐れみの恵みを彼らのために得るために、この目的のために、あらゆる瞬間に、ご自分の功徳と苦しみのすべてを捧げられる。霊的に、彼はすべての心の扉をノックし、こう言い給う「開きなさい、私はおまえを罪の奴隷から解放し、天国にふさわしい者にすることができる。」一人一人がどのように聖寵に協力するかは、私たちの品位、熱意、祈りと犠牲、良い模範と言葉にかかっている。ある者は信仰を失い、またある者は道徳的な生活を失っている。
イエズスよ、御身は彼らのために苦しみ、彼らのために祈られ給う。彼らの回心と救いの恵みを得るために、私は自分の悲しみ、犠牲、祈りを、御身と一つにすることを望む。主はこう言われ給う。「わたしの名によって父に願い求めるものは何でも、父はおまえたちにお与えになる」(ヨハネ16:23)と。
第13留
イエズスは母親の腕の中に戻される
イエズスは死に給い、贖いの業は成し遂げられた。しかし悪魔は世の終わりまで、霊魂を命の源から遠ざけようとし続けるだろう。サタンは、イエズスがすべての恵みの分配者として指名された聖母の気をそらそうとし、使徒たちが見捨てたことを聖母に見せて、聖母に落胆の思いを抱かせ、また、祈りさえすれば十分であったはずの御子をこのような苦しみに引き渡された御父に対する反逆の思いさえ抱かせた。聖母マリアは天主なるいけにえを慕い、全てを御子と共に捧げ、奉献を御子の奉献に重ね合わせ給うた...すると悪魔は逃げ去った。今日でさえ、悪魔は、霊魂たちを攻撃して、正しい道から逸脱させ、反乱を起こさせたり、修道生活を放棄させたりしている。まるで救い主が眠っていて、私たちの祈りや痛悔を無視しているかのようだ。だから、自分の殻に閉じこもるのか、それとも他の人たちと同じように人生を楽しむのか。
聖母よ、私たちがこれらの悪魔の攻撃に勝利し、十字架の神秘に忠実であり続けることができるよう、いつも助け給え。
第14留
イエズスは墓に葬られ給う
イエズスは墓に横たわり、もはや苦しむことはない。マリアは、復活の勝利まで受難を追体験する。マリアは、天主の御子の殉教を、時には何年も続くキリスト教徒たちのすべての苦しみと結びつけようとされる。聖母は、体の痛みに苦しむ人たち、ガンやその他の重い病気に苦しむ人たち、十字架の前に長い道のりを歩む人たちのことを考えておられる。信仰のために、家族の中で、あるいは社会の中や国で、迫害を受けるすべての人々のことを思っておられる。聖母は、すべての子供たちに差し伸べられている十字架の神秘を思っておられ、試されているすべての霊魂のために、力、忍耐、愛の恵みをすでに主に求めておられる。
イエズスよ、私たちあわれな罪人が贖いの業に参加できることは計り知れない恵みなり。イエズスよ、決して私たちを見捨て給うなかれ。
最後の祈り
イエズスよ、御身は私たちの人生から苦しみを取り除くために、あるいは苦しみを説明するために来られたのではありません。残念なことに、私たちはしばしば御身の模範を忘れ、この神秘をあまりにも人間的な方法で生きているのです。
イエズスよ、わたしはこの十字架の道の功徳を通して、苦しんでいるすべての人のために力強い恵みを与え給え。彼らがしばしば救い主の受難に目を向け、その受難に一致し、贖いのわざ、聖なる教会の勝利、愛する人の救いのために苦しみをささげることができますように。
憐れみの聖母よ、御身は受難の全期間を生き抜かれました。身も心も苦しんでいる人々を決して見捨てられず、御身の御心を、世界を救う御身の聖なる御子へと向け給え。