御受難の主日―キリストの御苦しみ(大阪2024)
ワリエ神父 2024年3月17日
この主日、教会は、イエズスのご受難の黙想に自らを完全に明け渡します。キリストは私たちのためにご苦難を耐え忍んでくださったのですから、そのご受難の黙想によって、私たちがその同じご苦難にあずかり、償(つぐな)いを全(まっと)うするようにさせるためです。それゆえ、この主日は御受難の主日と呼ばれています。教会のすべての儀式は、このことを指し示しています。
今日、磔刑像(たっけいぞう)には覆(おお)いがかけられていますが、それは、この時からエルザレム入城まで、イエズスがもうユダヤ人の間を公(おおやけ)に巡(めぐ)られなかったこと(ヨハネ11章54節)を思い起こすためです。今日から、ミサでは「グロリア・パトリ」(願わくは父と子と…)が省かれます。なぜなら、イエズス・キリストのペルソナにおいて、至聖なる三位一体が不名誉をこうむったからです。
最後に、今日、教会は、イエズス・キリストという、罪も汚れもない大司祭を私たちの前に置き、私たちが彼を観想することによって、より熱心な償(つぐな)いをするようにさせるのです。そのために教会は、ミサの入祭誦(にゅうさいしょう)で、苦難のイエズスの御名(みな)において、次の詩篇作者の言葉を唱(とな)えます。
「天主よ、私を弁護し、私の訴えを、不敬の人の訴えと分け、不正で邪(よこし)まな人々より、私を解き放ち給え。なぜなら、主こそが私の力であるから」。
ピラトは、私たちの主を無罪だと何度も宣言した後、死刑の宣告を行いました。
教会は、今日の書簡を私たちに提案していますが、それは、私たちがキリストのご受難と死を黙想し、贖(あがな)いという偉大なあわれみを天主に感謝し、天主を愛し、賛美して、断食、祈り、悔悛(かいしゅん)の業(わざ)によって、キリストの御苦しみを分かち合うよう励ますためです。
次に、詠誦(えいしょう)で、私たちは詩篇作者がこう歌うのを聞きます。
「彼らは、私の若い時から、絶えず私に対して戦い続けた。…しかし、彼らは私に勝つことができなかった。罪人は私の肩を打ち、長らくその悪を続けた。しかし、正義なる主は、罪人の首を落とし給うた」。
福音では、主のご受難の数日前の雰囲気が、いかに緊迫したものであったかが描かれています。
「あなたたちは彼が自分の天主であると称するが、あなたたちは彼を知らない。しかし、私は彼を知っている。もし彼を知らないと言えば、私はあなたたちと同じく偽(いつわ)り者になる。しかし、私は彼を知り、そのみ言葉を守る」(ヨハネ8章46-59節)。
締めくくり
来週の主日と聖週間の間は、長い儀式のために説教をすることができません。
私たちの主のご受難のすべての恩寵から恩恵(おんけい)を得るために、ミサ典書中のご受難とこれらの美しい儀式を読みましょう。