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聖母の目を通してイエズスの御受難を黙想し聖母の苦しみに与る―その理由。

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2024年3月22日(金)「童貞聖マリアの七つの御悲しみ」大阪ミサ 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

あと一週間で聖金曜日です。その前に教会は常に、聖母の七つの悲しみの記念を行っています。

特に、聖ピオ十世会のシスター会そして奉献修道女は、悲しみのマリア様に捧げられているので、この記念を一級の大祝日として祝っています。教会の精神に従って、マリア様の目を通してイエズス様の御受難を黙想いたしましょう。そして、マリア様の御悲しみに与ることにいたしましょう。

なぜ、マリア様の目を通してイエズス様の御受難を見て、またマリア様のこの苦しみに与ろうとするのでしょうか。その理由を黙想することを提案します。

【1:聖母はイエズス・キリストがどなたであるかよく御存じであった】

ひとつは、イエズス・キリストがどなたであるかということを、わたしたちは深く知らなければならないからです。知れば知るほどそのご苦難の意味が分かるからです。もしもイエズス・キリストがどなたかを知らなければ、その意味が、ポイントが、わからないのです。

イエズス・キリストは、まことの天主であって、まことの人です。もしもただの人であれば、イエズス様が苦しんだ、それがいったいなんなんだ・・・。冤罪をかけられた人が二千年前に亡くなった・・・。たったそれだけで終わってしまいます。しかし、「人となった天主が苦しまれた」のであるので、そこにわたしたちにとっての意味が出てきます。

もしもイエズス様がただの天主で純粋な天主であるのであれば、主は――天主は苦しむことも死ぬこともできませんから――ただの演劇になってしまう。

しかし、イエズス・キリストはまことの天主そしてまことの人であるので、本当に苦しまれました。わたしたちよりももっと敏感に苦しまれた。なぜマリア様の目を通して御受難を見るかというと、マリア様は天主がどなたであるか、そしてイエズス・キリストがどなたであるかどのようなかたであるかということを、最高に一番よく御存じであったからです。ですから、マリア様の目を通してみることによって、わたしたちは御受難の神秘がより深く理解することができるのです。

【2:聖母の目で御受難を考える】

第二は、では、イエズス様がまことの天主であり、まことの人であったということを、マリア様がどのように見ていたのでしょうか。

天主は、永遠の昔から、永遠にかけて、無限に幸せであって、充足していて、何一つ必要とするものもない、最高のしあわせを得る、愛の天主です。この愛を、天主は、まったく自由に愛と憐れみによって、ご自分の永遠のしあわせを他のものにも分け与えたいと思いました。そして全く自由に、無から、何もないところから、被造物を造ります。天使や私たち人間を造って、そして、ご自分の無限のしあわせを永遠のしあわせを与えようとされました。ただ愛によって。もちろんそのためには、その愛を受けるためには、その天主の愛の永遠の三位一体の至福の中に入るには、わたしたち人間が被造物が真理を知り善を愛する、天主を認識して天主を愛するという能力がなければなりません。自由に愛するという能力がなければなりません。しかも、それを乱用することができるような、それほどの自由を与えなければなりませんでした。そして愛とあわれみによって、ご自分の似姿に寄せて、ご自分の肖像に似せて、わたしたちを天主の像として造られました。眼に見える被造物の世界の最高の傑作を造りました。人間です。これはわたしたちが天主のように幸せになるためでした。

しかし、人間はこの自由を乱用して愛を裏切ります。主を愛し続けませんでした。自分を愛しました。しかし、この全能の天主、無からわたしたちを愛によって造ってくださったこの天主がわたしたちのために苦しまれた、ということをマリア様はよく御存じでした。この天主は、わたしたちを天主のようにするために、天主の像に従って造ったのみならず、ご自分がわたしたちの罪を贖うために、わたしたちに代って苦しむことができるために人間となることさえもお望みになりました。そんな必然性もそんな必要も全くありませんでしたが、まったく自由に愛によってあわれみによって人間となりました。ただ単にかわいい赤ちゃんになった――この全宇宙さえもその中に入り切れない偉大なる天主が小さな赤ちゃんになったのみならず、罪によって死に苦しみそして罰を受けなければならない私たちのようになって、まったく同じに――罪以外すべて同じになって、わたしたちを天主の永遠のしあわせに導こうとさえしました。マリア様はそのことをよく御存じでした。イエズス・キリストが、まことの天主でありまことの人であり、苦しむこと、敏感に苦しむことができるということを御存じでした。

マリアさまは、この目の前で、御子が十字架の不当な宣告を受けて、そして苦しめられ、十字架につけられて、死し給うのを、目撃します。そして、そのイエズス様の御苦しみ、御痛み、御悲しみ、その天主御父から捨てられ人々から捨てられたその苦しみ、その拷問のような嘆きを、自分のものであるかのように感じ取っておられました。それと同時に、人となった天主がどれほど人間を愛しておられるかを、深く理解しました。わたしたちが察するのはほんのちょっとであって、わたしたちはただの理論でそう考えているだけかもしれませんが、しかし、マリア様はそれを現実のものとして、現前に目の前にして、それを感じ取っていました。それと同じ苦しみを、苦しんでいました。イエズス様の呻(うめ)き苦しみその声を、直接に聞いた方であるからです。イエズス様が幼いころから、どのように成長していたかを、すべてご存じの御方であるからです。

【3:聖母とともに、聖母の苦しみにおいて、主の御受難を黙想する】

では、マリア様の目を通して、イエズス様の御受難を黙想するのみならず、マリア様と共に、それをわたしたちが黙想するのはいったいなぜでしょうか。なぜかと言うと、イエズス様の愛は、ご自分が苦しむのみならず、人類のアダムとエワの愛の裏切りを、同じようなやり方で贖おうとされたからです。イエズス様はわたしたちのなかからマリア様をお選びになって、第二のエワとしてお選びになって、この二人で、わたしたちを贖おうとされたからです。それほど人類を、わたしたちを大切にされて、一緒に贖いをすることをさえも望むほどわたしたちを愛されました。マリア様は、わたしたちを代表して、イエズス・キリストとともに、第二のエワとして贖いの苦しみを――恐るべき苦しみを二人で耐え忍んだのです。

すべてはわたしたちを愛するためであり、わたしたちへの愛の現れであり、あわれみの最高の表現でした。これを見ると、このわたしたちは、イエズス様の愛の深さとあわれみの広さとその智慧の高さ、そして、それと同時に人類がどれほど愛を受けつつも主を悲しませているか、その罪の醜さに圧倒されるばかりです。

マリア様に今日はお祈りいたしましょう。マリア様の目を通して、イエズス様のあわれみと愛の贖いの業の神秘の中に深く入って、それを少しでも理解することができますように。理論だけではなくて、わたしたちもそれに参与することができますように。マリア様と同じように、マリア様と一緒になって、わたしたちも十字架のもとに佇むことができますように。わたしたちも、わたしたちの人生をわたしたちの生涯・生活を、それに添えることができるように、マリア様の特別の御取り次ぎをこい願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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