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ローレンス・ノヴァク神父にインタビュー:主のぶどう園で奉仕した30年を祝う!

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主のぶどう園で奉仕した30年を祝う!
ローレンス・ジェラード・ノヴァク神父に編集部がインタビュー


“Apostle” SSPX ASIA DISTRICT NEWSLETTER, SPRING 2024, ISSUE NO 61
Celebrating 30 Years of Serving the Lord in His Vineyard!
An editorial interview with Rev. Fr. Lawrence Gerard Novak.

問1 神父様の家庭環境について簡単に教えてください。

私の家族は、私の人生における安定と熱意の最大の源泉です。私の家族の最大の特質は、何かをするという目的を持ち、それを成し遂げることだと、私は言いたいと思います。私の父は勤勉な歯科医でしたし、母はカトリック信者であり続けようと、そして同じ信念を持つ家族を育てようと決意した人です。

私には兄弟姉妹が7人います。私たちは8人です。男が4人、女が4人です。私は最後から2番目です。一番上の兄は聖ピオ十世会の司祭です。名前はケネス・ノヴァク神父です。姉妹の一人は聖伝のドミニコ会のシスターで、シスター・マリー・マルティン・デ・ポレスです。

私たちの家族の歴史を三つの部分に分けることができると思います。最初は、多くの家族の絆です。何年も前、私たちはシカゴ郊外に家を構えたほか、数時間離れたミシガン州にも農場を持っていました。その10年弱の間に私たちが持っていた緊密な家族の精神は、かけがえのないものになるのです。次の段階は、聖ピオ十世会との生活の始まりです。80年代の大半の間、聖ピオ十世会がシカゴにやって来て、そこでミッションを始めるのを、私たちは一致して援助していました。そして最後の段階は、私たちが教育の中で与えられたものを継続するために、それぞれの道を歩むようになった時です。私たちのほとんどは、両親から教えられたことに忠実であり続けました。

問2 最初に司祭になりたいと思われたのはいつですか?

私が3歳のとき、頭の病気が奇跡的に治りました。数カ月の間、気を失って床に倒れ込むほどのめまいの発作が続きました。医師は両親に、おそらく脳腫瘍か、頭に何か問題があるのだろうから、早く病院に連れて行くようにと言いました。その途中で母は、まずシカゴのダウンタウンにいるレオ・マクナマラ神父に見てもらいに行ったらどうかと言いました。マクナマラ神父は神秘家で、ピオ神父の同時代人でした。二人は直接会ったことはなかったものの、超自然的にお互いを知っていたのです。神父のアパートの教会には、ローマの殉教者、聖マクシミナの全身の聖遺物がありました。両親の話によると、私が聖遺物の前でしばらく過ごした後、神父は私の頭に手を置きながら、両親と話していたそうです。そして最後に、神父は、私たちに病院に行きなさい、しかし、すべての検査は陰性だろう、と言いましたが、これはまさに起きたことであり、もう二度とめまいの発作は起こりませんでした! それから数年後(1972年ごろ)、私が5歳くらいのとき、私たち家族は聖伝のミサにあずかっていました。現代のミサに行く必要はありませんでした。その司祭は、そのときでも聖伝のミサだけを捧げる60代の所属先のない司祭でした。そのころ、私はなぜか司祭になりたいと言い始めました。普通なら、そんな気持ちになる理由はありませんが、私はそうだったのです。マクナマラ神父と聖マクシミナが何か関係しているのだと、私は確信しています。

私が14歳のとき、聖ピオ十世会がシカゴにやって来て、ミサを捧げるようになりました。私は60歳より若い聖伝の司祭を見たことがありませんでした。いつもスータンを着ている聖伝の司祭も見たことがありませんでした。できるだけ多くの場所で聖伝のミサを捧げるために国中を飛び回って信仰を広めようとしている聖伝の司祭も見たことはありませんでした。私はこれら三つのことすべてに心を動かされ、天主がこのような形で私を司祭職に召されたのだと確信しました。私に同じことをするよう天主が望んでおられると確信したのです。当時、私は近代主義の高校に通っていました。私はその場所でつまずいていました。聖ピオ十世会の司祭たちは、とても新鮮な空気を吸ったようなものでした! 私は彼らと一緒にいることでとても安心していました。この時点で、自分の将来が私の前に開かれていくのを見たのです。

問3 神学校に入学するという決断を、ご家族は支持してくださいましたか?

家族は私の召命にとても協力的でした。実際、あまりに協力的だったので、時には、私が天主からの個人的な召命に応えているのか、それともただ「家族に従っている」だけなのか、見分けるのが難しいこともありました。お分かりのように、私の家族は、ミサを捧げるためにシカゴにやって来る聖ピオ十世会に深く関わっていました。父はミッションの信徒会長でしたし、母はミサを行うホテルの部屋ですべてを準備する中心的な世話役でした。自画自賛で申し訳ありませんが、私たちは素晴らしい仕事をしました。私たち、つまり母も兄弟姉妹も私も、そうするのが大好きでした。いずれにせよ、神学校に入学して数年を過ごすころには、私の未熟さが表れ始めました。私が神学校に行ったときは、高校を出たばかりの18歳にすぎませんでした。大学には行きませんでした。学位も取りませんでした。司祭以外の職業に興味を持ったこともありませんでした。私の目に星くずがついているようなものでした。するとその後、神学校に行ったのはただ「家族のため」だったのではないかと思い始めました。本当に解決困難な問題(頭のおかしくなった者)だったのです。

神学校の校長だったウィリアムソン司教様は、私がこのことで悩んでいるのを見て、神学校を去るように言うのではなく、向こうで私に任されるかもしれないどんな事務的責任も果たすことができるよう、聖マリア校で1年か2年過ごして「成長しなさい」と言われました。私は素直にそれを受け入れました。私はカテキズム教師とハウスファーザー(寮の管理人)になりました。ラモン・アングレス神父様が、聖マリア校の新しい校長として着任し、私にとても親切にしてくださいました。多くの時間を私と過ごし、いろいろな意味で私に自信を与えてくださり、私の疑問点の多くがいかにナンセンスなものであるかを教えてくださいました。そこで2年間を過ごして少し成長したあとで、天主が実際に私を呼んでおられること、そしてこれは単に家族を喜ばせたり、流れに身を任せたりする問題ではないことを、私は確信しました。

問4 神学生として最も大切にしておられる特別な時間や出来事はありますか?

神学生として最も大切にしている特別な時間を挙げるのは難しいですが、神学生としての2年目全体が本当に好きだったと言うことはできます。最初の1年間で、私は神学校の規律に慣れました。沈黙、黙想、大斎、そして家を恋しく思うことです。とはいえ、チャペルでのすべての時間や、聖体訪問は本当に大切なものでした。主日の晩歌、特に「巡礼者の旋法」(Tonus Peregrinus)の第5詩篇が大好きでした。ですから、私の背景にはそれがあったのです。そして2年目になると、若いころに一番好きだったことが大人になっても繰り返されるようになりました。神学校に行く前に、無私の心で私に教えてくださった男性、故ジョージ・ハンナ氏のおかげで、私はラテン語をかなり学んでいました。そのため、ラテン語の上級レベルにいたため、簡単だったのです。私は歌うのが好きでしたから、「聖歌隊」(Schola Cantorum)に入れられました。それも楽しかったのです。ウィリアムソン神父様(彼はまだ司教ではありませんでした)が哲学入門の授業と聖書の授業をしてくださいました。

どちらの授業も素晴らしいものでした。サッカーは間違いなく「神学校のスポーツ」でした。私は数時間プレーできました。仲間意識は最高でした。自分と同じように考え、自分と同じような人生の目的を持っている人たちとこれほど一緒にいたことはありませんでした。神学校は本当に居心地がよかったのです。ですから、神学校での訓練で最も大切にしたい時間があるとすれば、それは神学校の第二学年全体になるでしょう。

問5 叙階式の日に、どのようにお感じになりましたか?

感謝です! まず、それは私たちの誰もがこれまで決して受けることのできなかった恩寵だからです。でも同時に、安心したからでもあります。もし自分が司祭でなかったとすればどのような人生になるのか、という多くの考えが終わったのです。そのことは、もはや選択肢ではなくなりました。数回前のご質問で、聖マリア校での生活を終えた後、天主が私を召されていると確信していると申し上げたばかりですが、どういうわけか、悪魔はまだ私にそれができないと思わせることで、私を悩ませたかったのだと思います。ですから、叙階されるためについにその祭服を身に着けたとき、私はついにこの道に進むのだと安心し、もう後戻りはないのだと思いました。塹壕を抜け出し、前線を越える時が来たのです。「やるぞ!」と。

問6 さらに多くの熱意と信者への愛情をもって司祭職を続けるために、各国で神父様の心に触れ、神父様に影響を与えた最も忘れがたい経験をいくつか教えていただけますか。

私の赴任期間は、3年半のものが一つありましたが、他はすべて5、6年です。叙階された最初は、テキサス州エルパソに任命されました。それは幸運だったと思います。テックス・メックス(Tex-Mex)の米国人、つまり米国とメキシコの国境に住む、両文化を持つ人々と接することができたからです。米国人として、私はメキシコの人々の素朴さが大好きでした。彼らは、教会に行き、童貞聖マリアへの信心を示し、告解に行き、行列を行うときに、とてもエネルギッシュです。カトリックの信仰を公に表明することに関係することなら、何でもします。彼らはとてもいい影響を与えてくれます。司祭が午後のミサのために扉から入ってくるやいなや、告解のために長い列を作っていたのには感動しました。また、彼らはそれに真剣でした。告解がなければ聖体拝領もありません! ミサが終わると、子どもたちは皆、特別な祝福を受けるために、聖体拝領台のところまでやって来ます。

テキサスでの任務の一環として、私は米国のためのブラザーの修練院も担当していました。当時はまだそれほど大きくはありませんでした。召命はそれほど多くはありませんでしたが、私たちが得た召命は思い出深いものでした。特に覚えているのは二人の若者、現在のブラザー・グレゴリーとブラザー・アルフォンサスです。彼らの家庭の事情は全く異なっていましたが、ブラザーになることについてはとても真剣でした。私はよくこう思ったものです。「彼らはこれらの授業(神学校入学当初の私たちの授業と同じようなもの)を受けている。彼らはこんな訓練ばかり受けている。彼らは決して司祭にはなれないし、そのことを知っている。それでも、彼らは精いっぱい天主にお仕えしたいと思っている」。そのことが私の心を動かしました。このような謙虚さと、自分たちの人生は天主にとって意味のあるものだというこのような天主への信頼があり、何があってもその信頼を天主に捧げようとしていたのです。

私は、コンセプシオン・エルナンデス夫人という高齢の未亡人に定期的に病気見舞いをする機会に恵まれました。彼女は列聖されたメキシコの殉教者、ペドロ・マルドナド神父の姪でした。この神父はクリステロ戦争から10年後の1937年2月11日に、政府に殺されました。彼は、「この教会はメキシコ政府の所有物である」と記された紙に決して署名しませんでした。真剣でした。そこで彼らは神父を連れ出したのです! それは残忍な撲殺でした。行ったのは警察自体です。その日は一年の中で神父のお気に入りの日、ルルドの聖母の御出現の日の2月11日でした。彼女は、私に勇敢な叔父の話をするのが好きでした。それは私の心をとても揺り動かしました。

1999年の秋、私は慰めに満ちた出会いをしました。シカゴ地区で、心臓を患い、病院で死期を迎えていた高齢の司祭がいました。偶然にも彼は、1967年から1971年にかけて、マロン典礼で私たちのためにミサを捧げてくれた司祭であり、別の司祭が別の礼拝堂でラテン語のミサを始めるまで続きました。彼は何カ月もひどい体調でしたが、死にませんでした。その理由は、彼に聖伝の方法で最後の秘跡を授けることのできる人が誰もいなかったからであり、彼の小教区の司祭ですら近代主義の傾向のせいで授けることができなかったからです。私はたまたま2、3日家にいたため、病院に見舞いに行きました。私は彼に終油と使徒的祝福を授けました。彼はとても喜んで、私が帰る前に立ち上がってお礼を言いました。その2日後、彼は亡くなりました。彼はそれだけを待っていたのです。天主は祝されますように! それは慰めでした。私は、生まれたばかりの子どものころから3歳になるまで、彼のミサにあずかりました。彼と他の多くの人たちのおかげで、私はカトリックの信仰を持つことができました。そして、天主の御摂理の特別な恩恵によって、ついには、私は聖伝の方法で彼に最後の儀式を授ける司祭となったのです。

この後、オレゴン州での大きな任務がありました。それが5年ほど続き、その後は、米国外での任務を与えられました。これまでのところ、国外での任務は常に恩寵だと思ってきました。なぜなら、信者の群れに対する愛着は、自然のものよりも超自然のものに頼らなければならないからです。オレゴンの後、当時の総長だったフェレ―司教様は、私をメキシコ北部のゴメス・パラシオという町の小教区に推薦してくださいました。

そのような任務に私を考えてくださったことをとても光栄に思いました! しかし、正直なところ、言葉をもっと学ぶまで、そして文化を学ぶまでは、しばらくの間、現地で居場所を失った人のように感じました。そしてこのことが、これまでの司祭職における私のもう一つの大きな慰めなのです。約2年そこで過ごした後、私は米国で感じていたのと同じくらい居心地がよく、幸せだと感じました。それこそが、皆さんにとっての超自然の生活であり、それこそが司祭職なのです。それらは普遍的なものなのです。

そこでの忘れられない経験の中には、水曜日の午後のカテキズムの授業がありました。通常、人々は主日の一日にすべての宗教の務めを果たそうとします。しかし、ここは都市のコミュニティーではありませんでしたから、人々は教会からほぼ徒歩圏内に住んでいました。そのため、子どもたちは水曜日の放課後、自分でカテキズムの授業に出かけることができました。私がそこにいた間、子どもたちに多くの教育と養成を行いました。もう一つ、5月の毎日、修道院の外の中庭で、聖母への信心が行われました。一連が終わるたびに花を捧げるロザリオがありました。ロザリオが終わると、子どもたちは忠実だったことに対してチョコレートやキャンディーをもらいました。楽しいものでした!

この任務中に、コンセプシオン・エルナンデスの息子とその家族に会いました。コンセプシオンのことは、テキサスでの任務の前にも触れました。この家族は、メキシコのチワワに住んでおり、そこは私たちの修道院から北に6時間、テキサスから南に6時間のところでした。これは実は、マルドナド神父が1937年に殉教した場所にさらに近いところでした。このエルナンデス家は、私たちの教会で非常に活発に活動していました。私たちは非常に奇妙な状況にありました。私たちの教会に来ていたのは、マルドナド神父の親族の子孫だけでなく、神父の迫害者たち、つまり神父を残酷に殺した人々の子孫も、ちょうど通路を挟んだ向かい側にあるこの教会のミサに来ていたのです! 彼が死ぬ間際に迫害者たちのために祈ったことは、とても効果があったように思えます! 彼らはついには、神父の甥たちや姪たちと一緒に、聖伝のミサにあずかることになったのですから。

次の任地はベラクルス州のオリサバでした。ここはメキシコの南東部にあります。そこでの私の最大の楽しみの一つに、ドス・リオスというプエブロにある修道院付属のミッション教会の世話をすることがありました。そこは大人に対する子どもの比率が高いところでした。なぜなら、彼らはほとんどが農家で、親たちは子どもたちの手を必要としていたからです。私はその教会で、これまでで最も愛すべき教区民たちに出会いました。想像してみてください。土曜日の夕方のミサ(義務のミサではない)を終えて、その後、誰かの家に食事に行ったときのことを。その家は質素でした。土間。家の少女たちによって丸太の火(フエゴ・デ・レーニャ)で焼かれるトルティーヤ。そこにいたのは、とても聖化された素晴らしい教区民たちで、彼らはこのような状況の中で生活していました。それは私にとって大きな教訓でした。

それから3年半後、私は別の国、グアテマラに移りました。メキシコの南東に位置し、北米が終わって中米が始まる国です。この任地で最も印象に残っていることは、移動の多さです。パナマを除くほとんどの中米諸国に行かなければなりませんでした。ニカラグアは、共産党政権のあるカトリックの国です。共産主義者の盗賊が別の教会を襲撃し、さらに彫像や祭壇などを汚し、破壊したというニュースを定期的に目にします。でも私たちはそこに行きました。このような不幸な人々の中にあっても、私たちがそこで見た大きな信仰には驚きました。どんな迫害でもそうですが、残された人たちの信仰をさらに強める傾向があります。それは間違いなくそのケースであり、私には深く感動しました。

そしてついにシンガポールに赴任することになりました。とてもエキゾチックで、とても世界的に有名で、とても整って清潔でした。ラテンアメリカのさまざまな場所にいた私には、まるで地球ではない宇宙空間のように思えました。シンガポールの教会で印象に残っていることが二つあります。まず一つ目は、平日の毎日のミサに来ることをとても大切にしていることです。他の任地では、1週間のうち朝のミサに来るのは5人以下でした。また、夕方のミサには10人から20人が集まります。ここシンガポールでは、車を持っている人はほとんどいないにもかかわらず、朝のミサには30人、夕方のミサには別の30人が集まります。そんな様子は見たことがありません! 何かがこの人たちを動かしているのです。彼らは、平日に天主にカトリックの礼拝を捧げる必要があることを確信しているのです。おそらくそれは、異教に囲まれている彼らが自分の宗教を当たり前のものだと思っていないからであり、また、そもそも彼らの多くが異教を離れてカトリック信者にならなければならなかったからでしょう。もう一つ、この小教区について印象的なことは、さまざまなボランティアがこの教会で、いかに真剣に責任を果たしているかということです。ここに来る前は、人々が司祭を助けてくれることに少し慣れてはいましたが、これほど献身的に、特に無償でということはありませんでした。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。

おそらく、これらが壮大な経験のすべてではないでしょうが、彼らは、私の司祭としての務めを、もっと熱意と信者に対する愛情をもって続けていくために、私に感動と刺激を与えてくれたことは確かです。天主は祝されますように!

問7 司祭や修道者の召命を考えている人に何かおっしゃっていただけますか。

第一に、皆さんが天主を選ぶのではありません。天主が皆さんを選んでおられるのです。私たちは、「私は神学校に行くと決めました」「ずっと修道院に行きたかったから行きました」と話していますね。しかし、それは私たちの話し方に過ぎません。実は、呼んでおられるのは天主です。それが、(ラテン語のvocare=呼ぶ)に由来する「召命」(vocation)という言葉です。そうである以上、皆さんに「いいえ」と言う権利はありません。また、その次にあるのは、天主は、第一選択を受けるにふさわしいということです。「司祭や修道女になりたい」ということに確信がないとしましょう。大学に行って学位を取りたいと思うかもしれません。しかし、天主は私たちの第一選択を受けるにふさわしい方です。まず神学校や修道院を試してみて、うまくいかなかったら、次に、世俗的なキャリアを試してください。もしも、世俗的なキャリアから始めるなら、神学校に行くチャンスがなくなってしまうかもしれません。召命があったかもしれないのに、世俗的なものの追求に召命が邪魔されてしまったという可能性もあります。計算してみてください。1950年代には、何千人もの召命があり、司祭や修道者の居場所は常にありました。司祭の仕事には事欠きませんでした。しかし今、それに比べて司祭や修道女になる人の数は、かつての数パーセントにすぎません。あれだけの召命はどうなったのでしょうか? 天主が突然、人々を呼ばれなくなったのでしょうか? いいえ、男も女もそれに応えることにケチになってしまったのです。天主からの召命よりも、この世的な追求を優先してしまったのです。単純な数学がその疑問に答えてくれます。

この30年間の司祭職について、天主がたたえられますように! 確かに私はその日々に感謝しています。皆さんとこのことについてお話しできることをうれしく思います。私たちの祝された聖母なしにはこれは不可能でした。聖母は私たちの霊魂に、特に司祭の霊魂に御子を形作ってくださるお方です。こうして主の御国は広がっていくのです。聖母がこの召命のために私を用いてくださったのなら、聖母は多くの人々を用いてくださることでしょう。

皆さんに天主の祝福がありますように!


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