アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
来る2月10日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。2016年は、ファチマ100周年を準備するためにきわめて大切な年です。また、聖マキシミリアノ・コルベが創立した無原罪の聖母の騎士の創立100周年でもあります。それに併せて、四旬節をますます深めていきましょう。よき決心を立てましょう。
2017年は「戦いの年」となります。マルチン・ルターによるローマに反対する反乱の500周年で、それはローマにおいてもエキュメニズムの名によってカトリックとともに祝われようとしています。この悪魔的な方針の間違いにより、多くの霊魂がますます混乱する虞があります。
中には、教会の危機に躓いて「教皇聖座空位主義」に陥ってしまうような人も出ることでしょう。
カトリック「保守派」と言われる人々は、次のような論理をします。
大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、教皇様によって認められた。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、それ自体では良いものでなければならない。第二バチカン公会議は正しく解釈されておらず、間違って適用されているだけだ。
「教皇聖座空位主義者」と言われる人々は、次のような論理をします。
大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、以前のカトリック教会の教えと矛盾している。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、本当の教皇が認め、教えることではない。
しかし、正しい大前提はこうです。
真の教皇は、不可謬性の賜の特権を行使しようするとき、間違った教えをすることができない。キリストは、聖ペトロとその後継者たちが、この地上で繋ぎ、解く時にのみ誤りに陥らないように保護を与えた。歴史が教えるように、教皇が不可謬の特権を行使しようとしないなら、教皇と言えども全教会に誤りを教えることができる、ただし、誤った教えを啓示された真理として全教会に決定的に信じることを強制することはないし、啓示された真理に真っ向から反するような実践を全教会に強制することはない。
ところで、この大前提を説明すると、第二バチカン公会議以後の教皇たちは、不可謬見を行使してドグマを決定しようとも、誤謬を排斥しようとしたこともありませんでした。教皇たちは、第二バチカン公会議と同じように、司牧的に、非強制的に、非ドグマ的に教え続けてきました。
聖金曜日に、私たちの主イエズス・キリストが十字架につけられて、しかも「我が天主よ、我が天主よ、なぜ我を見捨て給うや?」と言いつつ死んだことを見た人々は、キリストは死ぬはずがない、と言って躓きました。聖母マリアだけが、イエズス・キリストが真の天主であり真の人であることを最後まで変わらずに信じ続けました。
ファチマのジャシンタはこう言っていました。「かわいそうな教皇様、皆が、教皇様のために祈らなければなりません。」ファチマの牧童たちは、教皇様のためにいつも祈りと犠牲を捧げていました。
インマクラータなる聖母マリア様の元にいつも留まりましょう。多くの霊魂が聖母の私たちにたいする愛を、また、聖母が私たちの母であり元后であることを認めることができるように祈りましょう。ファチマでは、聖母はご自分の汚れなき聖心を私たちの避難所として、また、天主へと私たちを導く道として与えてくださいました。
キリストの神秘体である教会の受難の時、また、ファチマ100周年を準備の時、私たちはいつも聖母マリアの元に馳せよりましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
来る2月10日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。2016年は、ファチマ100周年を準備するためにきわめて大切な年です。また、聖マキシミリアノ・コルベが創立した無原罪の聖母の騎士の創立100周年でもあります。それに併せて、四旬節をますます深めていきましょう。よき決心を立てましょう。
2017年は「戦いの年」となります。マルチン・ルターによるローマに反対する反乱の500周年で、それはローマにおいてもエキュメニズムの名によってカトリックとともに祝われようとしています。この悪魔的な方針の間違いにより、多くの霊魂がますます混乱する虞があります。
中には、教会の危機に躓いて「教皇聖座空位主義」に陥ってしまうような人も出ることでしょう。
カトリック「保守派」と言われる人々は、次のような論理をします。
大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、教皇様によって認められた。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、それ自体では良いものでなければならない。第二バチカン公会議は正しく解釈されておらず、間違って適用されているだけだ。
「教皇聖座空位主義者」と言われる人々は、次のような論理をします。
大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、以前のカトリック教会の教えと矛盾している。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、本当の教皇が認め、教えることではない。
しかし、正しい大前提はこうです。
真の教皇は、不可謬性の賜の特権を行使しようするとき、間違った教えをすることができない。キリストは、聖ペトロとその後継者たちが、この地上で繋ぎ、解く時にのみ誤りに陥らないように保護を与えた。歴史が教えるように、教皇が不可謬の特権を行使しようとしないなら、教皇と言えども全教会に誤りを教えることができる、ただし、誤った教えを啓示された真理として全教会に決定的に信じることを強制することはないし、啓示された真理に真っ向から反するような実践を全教会に強制することはない。
ところで、この大前提を説明すると、第二バチカン公会議以後の教皇たちは、不可謬見を行使してドグマを決定しようとも、誤謬を排斥しようとしたこともありませんでした。教皇たちは、第二バチカン公会議と同じように、司牧的に、非強制的に、非ドグマ的に教え続けてきました。
聖金曜日に、私たちの主イエズス・キリストが十字架につけられて、しかも「我が天主よ、我が天主よ、なぜ我を見捨て給うや?」と言いつつ死んだことを見た人々は、キリストは死ぬはずがない、と言って躓きました。聖母マリアだけが、イエズス・キリストが真の天主であり真の人であることを最後まで変わらずに信じ続けました。
ファチマのジャシンタはこう言っていました。「かわいそうな教皇様、皆が、教皇様のために祈らなければなりません。」ファチマの牧童たちは、教皇様のためにいつも祈りと犠牲を捧げていました。
インマクラータなる聖母マリア様の元にいつも留まりましょう。多くの霊魂が聖母の私たちにたいする愛を、また、聖母が私たちの母であり元后であることを認めることができるように祈りましょう。ファチマでは、聖母はご自分の汚れなき聖心を私たちの避難所として、また、天主へと私たちを導く道として与えてくださいました。
キリストの神秘体である教会の受難の時、また、ファチマ100周年を準備の時、私たちはいつも聖母マリアの元に馳せよりましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)