2024年4月7日 白衣の主日 大阪にて
レネ神父
親愛なる兄弟の皆さん、
この主日は「白衣(びゃくえ)の主日、ドミニカ・イン・アルビス(dominica in albis)」と呼ばれていますが、それは、復活祭に新たに洗礼を受けた人々が、洗礼のときに受けた罪のなさの象徴である白衣を身に着けていたからです。洗礼は、新しい命の始まり、つまり永遠の命へと花開くための始まりなのです。
「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を! 信仰はあなたに何を与えますか? 永遠の命を!」。これは聖伝の洗礼式の最初の言葉です。さて、洗礼を受けるためにやって来た洗礼志願者は、すでに信仰を学んでいます。正確に言えば、「信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)ことを学んでいます。また、洗礼志願者は、私たちの主がこう言われるのを聞きました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。洗礼を受ける前に、洗礼志願者は助力の恩寵による信仰の行いをすることはできますが、永遠の命を得るためには、成聖の恩寵による信仰の徳が必要です。
死は罪の結果です。天主はアダムにこう言われました。「善悪を知る木から、食べてはならぬ。それを食べたら、必ず死なねばならぬからである」(創世記2章17節)。アダムは食べて死にました。悪魔は嘘をついて、「女に言った。いや、そんなことで死にはしない」(創世記3章4節)。アダムとエワは天主ではなく悪魔を信じたのであり、それは非常に重大な罪でした。
しかし、死が罪の結果であるように、キリストが復活祭に死に対して勝利されたのは、御父の命令への完全な従順によって、聖金曜日に罪に対して勝利された結果です。私たちの主が、「(私の命は)私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章18節)と言われたからです。
私たちの主イエズス・キリストの肉体の復活は、将来の私たちの肉体の復活の代表的な原因です。聖パウロが、主は「私たちの卑しい体を、ご自分の栄光の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)と教えているからです。
しかし、私たちには、肉体の命と霊魂の命という、二つの命があります。私たちの肉体が生きているのは、その肉体が私たちの霊魂と一致しているときであり、私たちの霊魂が生きているのは、その霊魂が私たちの主イエズス・キリストと愛徳によって一致しているときです。聖パウロはコロサイ人に対して、キリストは私たちの命である(コロサイ3章4節)と言っています。さらに彼は、「愛は完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)とも言っています。ですから、肉体の命と霊魂の命という、二つの命があるのです。自然な肉体の誕生と、洗礼による新しい誕生という、二つの誕生があります。霊魂が離れるときの肉体の死と、私たちを天主から引き離す大罪による霊魂の死という、二つの死があります。誰もが知っている肉体の食べ物と、天主のみ言葉とご聖体という霊魂の食べ物があります。肉体のための治療法と、霊魂のための治療法、特に悔悛の秘跡という治療法があります。
聖書には、この二つの命を示す箇所がたくさんありますが、ここでは一つだけ紹介しておきましょう。「まことにまことに私は言う。死者が天主の子のみ声を聞くときが来る、いやすでに来ている。そのみ声を聞く人は生きる。父が命を左右されるように、子にもそれを左右させ、こうして、父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである。こう聞いて驚いてはならぬ。墓にいる人々がみな、天主の子のみ声を聞くときが来る。善を行った人は命の復活のために、悪を行った人は審判の復活のために現れる」(ヨハネ5章25-29節)。
ですから、ここには二つの時があり、第一の時は今、第二の時は世の終わり(肉体の復活)です。第一の時には、天主の御子のみ声を聞く人、つまり生ける信仰によって信じる人は生きますが、それは「すべての人」ではありません。第二の時には、墓にいるすべての人が墓から出て来ます。第一の時には、結果は一つしかありませんが、すべての人がみ声を聞くわけではありません。第二の時には、すべての人がみ声を聞きますが、二つの結果、すなわち、命の復活と審判の復活があります。もう一つ、注意していただきたいのは、第一の時には、主は「死者」について語っておられますが、第二の時には「墓にいる人」について語っておられることです。
この二つの時は、二つの復活です。霊魂の復活が第一の時であり、肉体の復活が第二の時です。霊魂の命は肉体の命よりもはるかに重要ですから、霊魂の命を失った人は本当に「死者」であり、肉体の命を失った人は「墓にいる人」です。霊的に死んだ人は、生ける信仰により「天主の子のみ声を聞く」ことによって霊魂の命に戻るのであり、彼らは生きる、すなわち真の命に戻ります。肉体の死者はすべてよみがえりますが、義人だけが「命の復活のために」、栄光の命のためによみがえります。最後まで悪い生活を送り、大罪の状態で死んだ人は、最後の審判の終わりに、私たちの主が言われるように「審判の復活のために」、すなわち「永遠の苦しみ」の宣告を受けるために、墓から出て来るのです。そのような苦しみは、「命」と呼ぶにはふさわしくありません。
二つの命があることを理解すれば、重要な方は霊魂の命であることを理解するのは簡単です。これこそ、私たちが大切にし、失わないように細心の注意を払うべきものなのです。私たちの主イエズス・キリストは、何よりもまず、私たちに霊魂の命を与えるために来られました。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。私たちの主ご自身こそが命です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。主は、決してその霊的な命を失うことはおできになりませんでした。このため主は、霊魂と死ぬことのできる肉体を持たれたのです。主の肉体の復活によって、主が保証してくださったのは、天主が私たちの肉体をよみがえらせることがおできになることだけではなく、私たちの霊魂をよみがえらせることもおできになることです。復活祭のときの主の新しい命は、私たちの新しい霊的な命の原型です。そしてその新しい命、私たちはそれを決して失ってはなりません。「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがない。キリストに対して、もはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章9節)。
私たちの弱さに注意してください。私たちはそれを失うことがあり得ますが、決して失ってはなりません! 洗礼のときに受けた、あるいは悔悛の秘跡で回復した、その新しい命を守り続けることは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって可能なのです。多くの聖人たちは、小罪をすべて避けたわけではありませんが、大罪をすべて避けて、洗礼の罪のなさを守りました。このことは聖母の特権であり、このことは聖母の汚れなき御心であり、聖母の無原罪の御宿りの継続なのです。初期のキリスト教徒は、洗礼の恩寵をもっと注意深く守っていたため、今よりも熱心でした。私たちは、自分の洗礼の恩寵を十分に理解しているでしょうか?
聖ペトロはこう言っています。「(キリスト)によって、私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。教会は、成聖の恩寵によるこの霊的な命とは、天主ご自身の命に真にあずかることである、と教えています! イエズスは、御父と聖霊とともに、私たちのうちに住んでおられます。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。…私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちは、その人のところに行って、そこに住む」(ヨハネ14章21、23節)。聖パウロは、聖霊についてこう言っています。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。聖霊は愛の霊であり、天主を愛する人の中に住み給うのです。
天主の命とは何でしょうか? 永遠の真理を知り、永遠の善への愛を知るという、観想生活のことです。これこそが実際、最も実り豊かな生活です。天主の御子は知性によって御父から発出し、聖霊は愛によって御父と御子から発出します。これこそが、天主ご自身の永遠の命であり、最高の幸福です。また、聖人たちは、至福直観によってそれにあずかります。そして、この地上での霊的な生活は、信仰と愛徳による永遠の命の始まりなのです! このため、すべての善きカトリック信者の霊的な生活は、祈りという観想的な次元を持つべきなのです。祈りは、声を出す祈りから始まるでしょうが、どんどん観想的な次元を持つようになり、私たちがキリストによって満たされるようになるために、天主のみ声に耳を傾けて永遠の真理を黙想・観想するという沈黙へと至るのです。
これこそ信仰の生活です。聖パウロは三回、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)と言い、預言者ハバクク(2章4節)の言葉を引用しています。信仰は、私たちを啓示された真理に従わせるだけでなく、すべての超自然の徳に動機を与えます。実際、成聖の恩寵によって、私たちには、この注入された超自然の徳の全体が与えられます。それは、馬力のあるポルシェのハンドルを握っているようなものです。このエンジンには馬力がありますが、その恩恵を受けるためには、正しいギアを入れる必要があります。信仰の動機を与えることによって、私たちはこれらの徳のギアを入れるのです。例えば、貧しい人が食べ物を乞い願っているのを見たら、キリストがこう言われるのを聞きましょう。「私が飢えていたときにあなたたちは食べさせてくれた…、まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35、40節)。そのとき、私たちにはその人を助ける勇気があります。あるいは、何か悪いことをしようという誘惑に駆られたとしても、罪のせいで多くの苦しみを受けて十字架につけられたイエズスを目の前にすれば、私たちは誘惑を退けます。主の御苦しみをさらに増やすことが、どうして私たちにできるでしょうか? 信仰の動機は、天主の法を実践し、忠実であり続け、「善を行う」(ティト3章14節)ために、私たちを力づけるのものなのです。
これこそ、キリストが私たちのために買い取ってくださった命、洗礼のときに私たちに与えてくださった命です。これこそ、堅振によって固められた命です。これこそ、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものによって養われる命です。それこそ、悔悛の秘跡によって回復し、癒やされる命です。それこそ、終油の秘跡によって、最終的には至福直観のために準備される命です。それこそ、司祭が皆さんに与える命であり、皆さんが司祭を神父と呼ぶ理由です。司祭はその命の源ではなく、天主だけが命の源です。しかし、司祭は、その命を皆さんに伝達しました。それは、皆さんの肉体上の父親が、皆さんの肉体の命を無から作り出したのではなく、ただ自分自身が受けた肉体の命を伝達したように、です。結婚は第一に、肉体の命を伝達するために行われるものですが、子どもたちが天国に住むことができるように、子どもたちに洗礼を受けさせ、善きカトリック教育を受けさせることは、両親の重大な義務です!
私たちの霊魂の命は、その中に住んでおられるイエズスですから、私たちにイエズスを与えてくださったお方、童貞聖マリアは、まさに私たちの母です。洗礼によって、私たちは天主の子、マリアの子となりました。そしてマリアは、すべての母の中の最高の母として、私たちの世話をしてくださいます。イエズスがマリアを愛されたように、私たちも、マリアに対して子どものような優しい愛を持つべきなのですから、私たちは「キリスト・イエズスの心を心とす」べきであり、その結果、イエズスの御母マリアに対する同じ愛を持つべきなのです。
復活された私たちの主が、永遠の命に至るまで、私たちの霊魂のうちに、より一層住んでくださいますように。そして、その途上で、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように!
アーメン。