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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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復活したキリストの弟子たちへの御出現を黙想する。私たちに対するキリストの憐れみ深い愛、人間としてのキリストを見てキリストの見えない神性を信じたトマス

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2024年4月7日 東京 10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年4月7日、主の御復活の八日目、白衣の主日です。
では、今日は一緒に今日の福音を黙想いたしましょう。特に、キリストの私たちに対する深い愛、そしてそれにイエズス・キリストに対する信仰について、わたしたちにどのような信仰が求められているかということを黙想して、今日の福音から霊的な利益を引き出すことにいたしましょう。

【1:キリストの最初の御出現】
御復活の主日の夕方、キリストは、部屋の扉が閉じられていたにもかかわらず、使徒たちに現れました。使徒トマスは、その時不在でした。戸が閉じられていて夕方だったのにもかかわらず、主が来られたというのは、神秘的な理由として、聖トマス・アクィナスによると、主がこの世の夕暮れに、もう一度栄光あるお姿で来られるということを暗示しているといいます。主がなさった譬えのなかにも、「日暮れになったので、ぶどう畑の主人は、会計係に、"はたらく人を呼んで、あとの人からはじめて、最初の人まで、賃金をはらえ"といいつけた。」(マテオ20:8)ともありますし、また別の譬えには、「夜半に、"さあ、花むこだ。出むかえよ!"と声がかかった。」(マテオ25:)という譬えもあります。主を迎える準備をしていた花嫁たちは、主と「いっしょに宴席にはいり、そして扉は閉ざされ」(マテオ25:10)ました。また、使徒たちに現われて、主が言ったことは、慰めの言葉と憐みの言葉以外の何物でもありませんでした。
「あなたたちに平安!」これを二回も繰り返されます。弟子たちの弱さや逃亡・裏切りなどをなじる言葉は一切ありませんでした。それどころか、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」とおっしゃいながら、罪を赦すという特別の権能さえも委託されます。なんという憐れみでしょうか。

【2:キリストの二回目の御出現】
復活の主日から八日の後、主はまた弟子たちのところに来られます。八日の後、これは聖トマス・アクィナスによると、神秘的な意味で、この世の第八の時代に、つまりこの世の終わりに、死者のうちから人々が復活したその時代に、イエズスが来られるということを暗示しているといいます。
イエズス様が来られる必要があったのは疑っていたトマスでした。しかし主はトマスだけではなく、弟子たち皆に現れました。これは、私たちが愛徳のうちに、一致のうちに生活することを望んでいるということを表しています。また、将来、世の終わりには、一人も不在する者がないように、全ての人々を集めるということを神秘的に暗示しているといいます。主は世の終わりについてこうも言いました。「はげたかは、体のある所に集まってくる。」(マテオ24:28)また世の終わりについてこうもおっしゃいました。「らっぱの高いひびきとともにつかわされた天使たちが、天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集めるだろう。」(マテオ25:31)と。
ですから八日目に弟子たちが集まっているところにイエズス様はもう一度あらわれました。かれらに何とおっしゃったかというと、また「あなたたちに平安!」とおっしゃいます。これだけをおっしゃいます。これは、イエズス様が、将来の、永遠の平和、不死の死ぬことがない平和、また愛徳の一致の平和を約束されたということです。もちろん、信ぜなかった、疑ったトマスに対する嫌味や皮肉などは一切ありませんでした。

【3:トマスの不在と不信】
イエズス様が最初にご出現になったときに、トマスは不在でした。「トマス」というのは、この語源によると、双子【ヘブライ語でトアム】、あるいは深淵【アラマイ語でトマ、ヘブライ語でタオム】つまり深みという意味があります。ディディモというのは、ギリシア語で双子という意味です。トマスというのはつまり、深淵であって、深みですが、この深みや深淵には闇があります。暗闇があります。確かにトマスには、深淵には、深い不信の信じないという暗闇がありました。このトマスに現われたキリストには、さらに深い憐れみの深さがありました。「Abyssus abyssum invocat. (Ps 41:7)」と詩篇にあります。「深淵は深淵を呼び求める」と。キリストの憐れみの深さは、トマスの不信仰の深みに呼びかけて、その深みから、キリストの信仰の深みへと呼び出されようとしたかのようです。
聖グレゴリオによると、トマスの不在は偶然ではありませんでした。主の御摂理によるものであって、憐れみの計画によるものでした。つまり、主の肉体の傷に触れることによって、疑っていた使徒が、私たちの不信仰の傷を癒すことを望んでいたから、だといいます。つまり聖グレゴリオによると、トマスが信じなかったこと、疑ったことは、信じていた弟子たちの信仰よりも、私たちの信仰にとってはもっと利益があったと言っています。ここに主の憐れみの深さが、またあらわれています。主はわたしたちの信仰を強めること、深めること、これをお望みになり、使徒の疑いを許されたのでした。わたしたちの利益のために、主は選ばれた義人であっても、苦しみを経験することをお許しになります。ですから、私たちの利益のために、使徒あるいは預言者あるいは殉教者たちが苦しむことが許されるのです。
聖パウロはこうも言っています。「私たちが患難を受けるとしても、それはあなたたちの慰めと救いのためである。」(コリント後1:6)。ですから時には、私たちの教訓のために、聖なるダヴィド王に起こったように、義人でさえ過失を犯すことをお許しになることさえもあります。それは私たちに、警戒していつも謙遜であるようにと教えるためです。また同時に、わたしたちが不幸にして倒れてしまったとしても、また立ち上がるように努力せよと教えるためです。聖パウロもこう言っています。「立っているとみずからおもう人は、倒れないように注意せよ。」(コリント前10:12)

さて 疑っていたトマスは、二つの条件を要求します。そうしないと信じない、と。まずそれは、主の手の釘の跡を見ること。次に、自分の手を主の脇に入れること。視覚と触覚。この二つでした。イエズス様が二回目に現われたときに、憐れみ深くこの二つの条件を一つ一つ満たされようとされます。「あなたの指をここに出して、私の手を見なさい」、また「あなたの手を出して、私の脇におきなさい」と。確かに復活された栄光体は完成されたからだですから、不具や欠陥などはありえません。ですから、傷がついているという欠陥がありえないはずですけれども、どうして、なぜ、復活したキリストには傷口がついていたのでしょうか?聖アウグスチヌスによると、確かにイエズス様は傷跡を取り除くこともできたけれども、理由があってわざと残しておいた、と。その理由は何かというと、トマスに見せるためだった、といいます。またもうひとつ理由があります。それは、最後の審判の時にこの傷口を見せて、キリストを信じなかった人々、あるいは罪人たちを叱責するためです。「わたしは、おまえたちが十字架に付けた者だ。おまえたちが痛めつけた傷を見よ。おまえたちが罪を犯すことによって、刺し貫かれた脇腹を見よ。おまえたちのために大きく開かれたけど、しかし、おまえたちはここから入ることを拒んだ。わたしを信じることを拒んだ。」と、主がおっしゃるためです。同じように殉教者たちの傷跡も、復活した後の栄光体でも、けっして醜いものではなく、彼らを美しく飾る尊厳として勲章のように燦然と輝き出ることでしょう。

【4:トマスの信仰】
この二つの条件を満たされたトマスは、「私の主、私の天主」と信仰宣言します。これは呼びかけではありません。断定です。文法的な言い方をすると、トマスは、呼格ではなくて、「主よ」と言ったのではなくて、主格で言いました。つまり「わが主なり、わが天主なり」と断定したということです。
トマスが「私の主」と言った時に、キリストがまことの人間であるということを宣言しました。何故かというと、イエズス様は御受難の前にこう言われたからです。「あなたたちは私を、先生または主という。それは正しい。そのとおりである。」(ヨハネ13:13)
またトマスが「私の天主」と言った時、キリストの神性を、天主であるということを、宣言しました。キリストが天主であるということを宣言したのは、トマスの前はペトロだけでした。「あなたはキリスト、生ける天主のみ子です」(マテオ16:16)とペトロは言いました。のちに、使徒聖ヨハネは、キリストについて手紙をこう書いています。「それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)と。
トマスは、確かに肉体を持ったキリストとその傷を見て、復活したお方がまことの天主であると信じました。つまり、信仰というのは、真理を信じることです。真理にかかわることです。しかも、目に見えない真理を信じることです。では、なぜイエズス様は、「あなたは私を見たから信じた」とおっしゃったのでしょうか。なぜならば、それは、人間としてのキリストを見て、キリストの見えない神性を信じた、という意味です。
また、主は続けてあたかも私たちにおっしゃっているかのように、こうもおっしゃいます。「私を見ずに信じる人は幸いである」と。つまり、イエズス様が人間として地上に生きておられるということを見ずに、たしかにイエズス・キリストが、私たちを友として愛してくださっておられる天主である、イエズス様が本当にわたしたちを憐れみ深く愛する天主である、まことの人となったまことの天主であると信じる人は幸いであると、おっしゃるのです。信仰というのは、ただ、算数や幾何学の無機質な真理を信じるということではありません。生ける天主が、人格をお持ちの天主が、私たちを子どもとして、友として、憐れみ深く愛しておられるということを、そういう真理を信じることです。イエズス・キリストを信じることです。またさらに言うならば、この天主なるイエズス・キリストが、わたしたちに対して友としての愛を持ってくださっているというこの真理を信じないところには、またそのようなことなどありえないという希望のないところには、天主に対する本当の愛徳もありえない、ということです。

イエズス様はわたしたちのことを、「私を見ずに、イエズス・キリストを見ずに信じる人は幸いである」とおっしゃっていますが、この理由は、私たちがどれほど大きな天国での至福を受けるか否かのその程度は、どれほどの功徳を積むかによっています。功徳が大きければ大きいほど、わたしたちの受けるべき幸せも大きくなるからです。ですから、見ずに信じるというのは、見て信じる人よりも、大きな信仰の功徳を積むことができる、のです。わたしたちにはより大きな幸せが準備されているということです。
聖ヨハネは今日の書簡で、こうも言っています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれがこの世に勝てるだろうか。」

【5:遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。わたしたちの人生の目的、わたしたちが信じる目的、それは何なのでしょうか。聖ヨハネは、今日の福音の最後にこう書いています。「イエズスが天主の子キリストであるということを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるために、この福音を書いた」と。まさに、ここにわたしたちの人生の目的、信仰の目的があります。
旧約・新約の全聖書は、イエズスがまことに天主の子であり、キリストである、救い主であるということを、信じるために、この信仰のために、そしてそれを信じて、生命を得させるという目的のために存在しています。イエズス様はこうもおっしゃいました。「あなたたちは、聖書をさぐりそのなかで永遠の生命を得ようと思っている。その聖書が、私を証明している。」(ヨハネ5:39)福音は、生命を得させるという実りを生み出します。この世では義人として信仰によって生きることによって、正しい生命を生みださせます。また来世では栄光によって至福直感の永遠の生命を生みださせます。そしてこの両者の生命には、キリストの名前によってのみ、存在します。
聖ペトロはこう断言したからです。「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にはあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから、今日このミサに与りながら、特にミサの聖変化の時、司祭が聖体を奉挙する時に、トマスのように一緒に言いましょう。「これこそわが主なり、これこそわが天主なり」と。するとイエズス様はわたしたちにこうおっしゃってくださるでしょう。「見ずに信じる者は幸せである」と。

最後にマリア様に祈りましょう。マリア様の御取次によって、イエズス・キリストに対する、復活したキリストに対する信仰、憐れみ深いキリストに対する信仰がますます深まり固まり、そしてこの信仰が、ますます愛で満たされますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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