2024年6月7日東京 イエズスの聖心の大祝日のミサ
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日はイエズスの至聖なる聖心の祝日です。天主なる主が、その御稜威を愛をもって座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き礼拝いたしましょう。
イエズス様の聖心は、十七世紀(1673-1675)にフランスのパレ・ル・モニアルという修道院で、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに御自分の聖心をお見せになってこう言われました。イエズス様の言葉を引用します。
「この聖心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にして燃えつくした。それなのにこの返礼として、私は、多数の人がこの愛の秘跡――すなわち御聖体に対して見せる彼らの不敬と冒瀆、冷淡と軽蔑によって、忘恩以外の何ものも受けていない。しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が、私をそのように取り扱うことだ。」
イエズス様は言葉を続けてこう仰います。
「だから、私は、御聖体の祝日の八日目の後の金曜日が――つまり今日です――私の聖心を崇敬するための特別の祝日とされることをおまえに求める。その日には、聖体拝領をして、荘厳な行為によって御聖体に対して償いをして、御聖体が祭壇に顕示される間に受ける冒涜をつぐなうためである。私は、このように聖心を崇敬し、また聖心を崇敬させる人々に、私の聖心の恵みが広く与えられることを約束する。」
そこで、教会の望みによって、今日聖心の祝日が制定されました。そして今日、皆さんと一緒にミサの後に御聖体降福式を行いたいと思います。そうすることによって、イエズス様の聖心のお望みの通り、聖心に対してなされる冒涜・冒辱(ぼうじょく)また御聖体に対してなされる忘恩、これを皆さんと一緒に償いたいと思います。
イエズス様は、わたしたちに対する愛を証しするために、証明するために、何も惜しみませんでした。すべてを犠牲にしました。その極みが御聖体の秘跡です。すべてを与えてくださったにもかかわらず、わたしたちはなぜ主に対する感謝をすることができないのでしょうか。
私たちは最少限・最低限を満たすだけでなく、すすんでそれ以上のことをすべきではないでしょうか。すべてを捧げて、すべてを捨てることほど、幸福であることをわたしたちはどうして知ろうとしないのでしょうか。
何故かというと、本当のしあわせというのは、愛する方のために全てを与えて、何ものをも惜しまないところにあるからです。イエズス様はまさにご生涯を通じて、わたしたちを愛するがために、天主御父を愛するがために、ご自分を無とされました。十字架の上においてご自分を極限まで無にされました。そしてご聖体の中においては、まさにパンとなって、ご自分をすべて、御父と、私たちの救霊のために、お捧げになっています。この極みのない限りのない愛に対する感謝として、私たちは当然、感謝と奉献とそして礼拝を尽くして、主の愛に報いようとすることをして、あまりにも当然です。
わたしたちがもしもご聖体の愛と祝福を理解するならばするほど、わたしたちはどうしてもご聖体を讃美したい、御聖体を礼拝したいと、思わざるを得ません。ですからわたしたちはどうしても聖体降福式に与りたい、御聖体をなるべく荘厳に礼拝したいと、思わざるを得ません。それはわたしたちにとってこのうえのない慰めとなります。なぜかというと、こうすることによって、私たちは主に感謝の負債を感謝の義務を果たすことができるようになるからです。
考えても見てください。わたしたちのために何をも惜しまなかった主と、主のために努力や苦しむことを恐れているわたしたち、どれほど大きな違いがあることでしょうか。
イエズス様は、わたしたちにこう訴えます。「多くの人々」が主に忘恩で返礼していると。
イエズス様はいいます、不敬と冒涜、冷淡と軽蔑を受けていると。
「冷淡」というのは、御聖体に関する無関心、愛のなさです。どうでもいいよという態度です。
「軽蔑」というのは、さらにこれよりもひどいことです。御聖体を軽んじることです。御聖体をそんなにありがたがらなくていいんじゃないの、という態度です。
「不敬」というのは、御聖体の前で、礼拝や感謝や賛美することをしないことです。
「冒涜」というのは、さらに御聖体を侵すことです。たとえば手による聖体拝領、あるいは罪の状態での涜聖の聖体拝領などです。
イエズス様は言います。「これらのことは、受難の時に感じたすべての苦しみよりももっと大きな苦しみだ」と。このことを聞いて、私たちはそのまま冷たい心でいることができるでしょうか?
私たちは、不敬のかわりに「敬意」を、冒涜のかわりにこころのこもった「礼拝」を、冷淡の代わりに「熱烈な愛」を、軽蔑の代わりに「賛美」「感謝」をお捧げしたいと思います。
特に新しいミサで主が受けている冒涜を、冷淡を償いましょう。
イエズス様はこうも仰いました。
「しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が、私をそのように取り扱うことだ。」
今日、御聖体降福式で、特に新しいミサで受ける冒涜を償うことにいたしましょう。
【秋田の聖母の要求】
秋田のマリア様の言葉を最後に聞いてください。特に日本にいるわたしたちにマリア様は直々に天から来られてこう訴えられました、「今、御子と共に、御父の御怒りを宥める霊魂を求めております。御父の怒りの手を何とか抑えようとしています。犠牲の霊魂が必要です。祈りと犠牲を捧げて下さい。」
マリア様は涙をこめて訴えます、「先程も申しましたように、御父はこの地上を、ノアの洪水よりも更に恐ろしい罰で罰しようとしています、この世の罪の為に。もしこれ以上人類が罪を犯し続けるならば、罪の赦しが無くなってしまうでしょう。」
「教会の祭壇は荒らされるでしょう。枢機卿と枢機卿は対立し合うでしょう。司教と司教は対立するでしょう。私に聖別された霊魂は失われるでしょう。私を敬う司祭たちは軽蔑されるでしょう。」
いったい何のために何について枢機卿たちは対立するのでしょうか。御聖体をどのように敬うか、聖伝のミサを捧げ続けるか、捧げ続けないか、これではないでしょうか。
21世紀の私たちは、目を覚まさなければなりません。わたしたちはいま危機の時代におります。御聖体を礼拝し、大切にし続けなければなりません。
イエズスの聖心をお慰めしなければなりません。聖心の嘆きを聞いてください。
聖母の涙の訴えを聞いてください。
【遷善の決心】
今日、初金でもあります。イエズスの聖心の初金です。ですからわたしたちは今日遷善の決心を立てましょう。
初金の信心を行って、そして九か月間、月の最初の金曜日にミサに与り、御聖体拝領をし、そして御聖体降福式をして、イエズスの聖心をお慰めする。そして罪を償う。そしてわたしたちのできる最も最高の讃美と感謝をイエズスの聖心にお捧げしよう、という良い決心を立てましょう。マリア様はわたしたちをみてどれほどお喜びになることでしょうか。
今日わたしたちはイエズスの聖心を讃美しつつこの決心をお捧げいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。