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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖霊は、癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として教会の中に現存しておられる

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聖霊降臨後第十の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

親愛なる信者の皆さま、

先週の主日の福音を覚えておられますか。私たちの主が、エルザレムの町と神殿が崩壊することを予言しておられました。それは、ユダヤの民の中心となる人々が、主を受け入れるのを拒否したためでした。

それは実に悲しいことでしたが、天主は偉大なお方ですから、エルザレムの神殿よりもはるかに良いもの、すなわち聖なる教会を与えてくださいました。教会は聖霊の住まわれる場所ですから、新しく、より良い神殿なのです。

また、教会の一員として、皆さまも神殿なのです。聖パウロは、そのことをたいへんはっきりと、こう言っています。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちの霊魂は聖霊の神殿です。しかし、聖霊は、私たちの中で、どのように働いておられるのでしょうか。その点について、今日の書簡を注意深く見てみましょう。

1)コリントの共同体

聖パウロは、コリントの教会で当時起こっていたことを描写しています。知恵の言葉、知識の言葉(コリント前書12章8節)、癒やし(同9節)、奇跡(同10節)、預言、異語による祈り(同10節)など、確実に明らかな聖霊の現れがたくさんあった珍しい場面でした。私たちにとって、これはかなり珍しい状況であり、これらは、教会であまり見られないものです。しかし、私たちが心に留めておかなければならないのは、これらのことは、カトリック教会の始まりに起きた現実であり、カトリック教会の歴史の始まりにおいては、聖霊がこのように働いておられたということです。コリント人への書簡で、聖パウロは、第一世代のカトリック信者に向けて書いており、彼らはまったくの異教出身だった人々です。聖パウロはこう述べています。「あなたたちが異教徒であったとき、夢中になっておしの偶像のもとに行っていたが、身に覚えがあろう」(同2節)。

これらの第一世代のカトリック信者に対して、天主は、教会の中に聖霊が現存しておられることを示す数多くの力強いしるしを与えられました。それは、教会の始まりのために与えられた恩寵だったのです。なぜなら、異教徒やユダヤ人の中で少数派のカトリック信者にとって、始まりは困難なものだったからです。これらは天主から与えられた本当の恩寵でしたが、始まりのためだけのものでした。その始まりの後も、もちろん聖霊の現存は教会の中で続きましたが、その方法は異なっていました。この書簡にあることは、私たちが今、聖霊に期待しなければならないことを描写しているのではありません。

2)カリスマ運動

いわゆる「カリスマ運動」に引っかからないようにしてください。私たちは初代教会で起こったことのまねをしなければならないと、この人たちは考えているのです。カリスマ運動はプロテスタントの運動ですが、今や教会に侵入しています。私が行ったアジアの多くの国々、中国、台湾、フィリピンなどで、この運動の重大性を目にしてきました。多くのカトリック信者が、この運動によって信仰を失っています。この運動のメンバーは一般的に、20世紀まで、カリスマ運動が始まるまで、聖霊は教会から忘れられていたと言うのです! 彼らは、カトリック教会のまさに始まりに存在したすべての実践を復興させたいと思っており、彼らの集会では、多くの奇妙なことを行っています。それは、意味のない言葉による祈り、失神する人たち、いわゆる奇跡などです。

どうして、聖霊が教会から忘れ去られてしまったなどということがあり得るのでしょうか。聖霊の現れは教会の歴史とともに変化してきましたが、聖霊はずっと教会の中におられました。私たちは、コリントのカトリック共同体で起こったことを再現する必要はなく、むしろ今日、聖霊が教会の中でどのように働いておられるかを理解する必要があります。

3)聖霊の賜物

では、聖霊は、教会の中でどのように働いておられるのでしょうか。聖霊は、おもに癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として、つまり上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏の賜物として教会の中に現存しておられるのです。この賜物は七つあり、洗礼の秘跡によって与えられ、堅振の秘跡によって強められます。それとは別の特別な儀式は必要ありません。なぜなら、聖霊の賜物は私たちの洗礼の構成要素であり、洗礼とともに与えられるからであり、私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちには七つの賜物があり、その賜物は、私たちの霊的生活の通常の構成要素だからです。

しかし、多くのカトリック信者は、その賜物を無視しています。それは悲しいことです。なぜなら、その賜物は私たちの救いの構成要素であり、救われるためには聖霊の賜物が必要だからです。その賜物は、特別に「霊的な」人たちにのみ特別に与えられるものではありません。そうではなく、その賜物は、私たちが天主に近づき、聖化されるための、私たち、普通の人々のためのものなのです。

なぜなら、私たちは、徳と賜物という二種類の道具の助けによって天主に近づくからです。超自然の徳とは、洗礼によって与えられる天主に向かって行動する能力のことであり、成聖の恩寵の状態にある霊魂のうちに保たれています。この徳は、天主に向かって行動する能力を、私たちに与えます。この徳は、信仰、希望、愛、超自然的な賢明さなどです。

私たちは、徳がなければ救われることはあり得ませんが、徳だけでは十分ではありません。天主は私たちを超えておられ、私たちのすべての行動能力を超えておられます。私たちが天主に近づくためには、天主に導かれなければなりません。「天主の霊によって導かれている人は、すべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

もちろん、霊的生活は、ミサに行くこと、ロザリオを唱えること、祈りを唱えることなど、多くの行動や徳からなっています。それらの行動は、徳のうちの不可欠な部分です。しかし、それは同時に受動的なものでもあります。天主は私のうちに働いておられ、私を導いておられます。天主はそれを、七つの賜物を通してなさっており、その賜物は、私たちが天主に導かれるのを助けてくれます。しかし、そのためには、私たちには沈黙の祈りが必要です(主日のミサの後、5分間行っているようにです)。

親愛なる信者の皆さま、聖パウロが「私たちは天主の神殿である」と言うように、聖霊は教会の中で、また私たちの霊魂の中で働いておられますが、それは、カリスマ運動の人たちの奇妙な祈りによってではなく、その賜物を通してです。そして、これらの賜物を「活動的」に保つためには、沈黙が、沈黙の祈りが必要です。皆さまは、その沈黙と黙想の祈りの時間を、しばしば天主に捧げておられるでしょうか。


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