聖霊降臨後第十の主日 ― 軽率な判断 アルスの聖なる司祭(2024年、札幌)
ワリエ神父 2024年7月28日
「天主よ、私は、他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく、またこの徴税人のような人間でもないことを、あなたに感謝します」(ルカ18章11節)
親愛なる兄弟の皆さま、
これは、高慢な人間の言葉です。自分が重要な人間だという思いに満ちており、隣人を軽蔑し、隣人の行動を批判し、非難するのです。
1.見た目
このファリザイ人は、徴税人の心構えを知ることすらせず、徴税人のことを悪く思い、軽率に判断して、非難するのです。アルスの聖なる司祭によれば、このような意見は、ただ臆測のみに基づくものです。私たちが判断し、批判するのは、どのような根拠に基づくのでしょうか。見た目だけであり、さらに、多くの場合、「そう言われている」からだけに過ぎません。
もし、美しいユディットが喪服を脱ぎ、自然や芸術が提供するあらゆるもので身を包み、その並外れた美しさを増すのを皆さんがご覧になったなら、彼女が敵の居室に入り、見た目には敵に好かれようと努力するのを見て、「なんて悪い女なんだ!」と叫んだことでしょう。その反対に、旧約聖書にあるように、彼女は敬虔なやもめであり、貞淑で天主をお喜ばせする女性であり、このようにして、自分の民のためにみずからの命を危険にさらしたのでした。
2.高慢とねたみ
このファリザイ人は、その高慢と悪意から、徴税人を自分と比較します。
実際、軽率な判断は、高慢とねたみに満ちた悪しき心からしか出てきません。高慢でねたみ深い人は、自分だけを高く評価し、隣人のすることはすべて悪しき動機のせいだとします。彼らが隣人の中に見る善は、彼らを怒らせ、いらいらさせるのです。
聖書は、この実例を、カインにおいて示しています。カインは、弟の行動をすべて悪いものと解釈したのです。弟が天主に気に入られているのを見て、カインは弟を殺そうと決心しました。
3.痛悔
最後に、このファリザイ人は徴税人のことを判断し、非難しますが、一方、この徴税人は神殿の隅に引き下がって、胸を打ち、天主の御赦しを懇願します。
軽率に判断すれば、私たちは、このファリザイ人の悪意のまねをすることになります。このファリザイ人は、マグダラの聖マリアが泣き、罪を告白し、救い主の足もとにひれ伏すのを見たにもかかわらず、彼女が自分の罪から離れているかどうかを尋ねることなく、悪名高い罪人としか見なかったのです。
聖アウグスティヌスはこう言います。「あなたは、ほんのわずかな口実に基づいて、あえて兄弟のことを判断し、その兄弟がすでに自分の過ちを悔い改めなかったかどうか、再び天主の友の数の中に属しているかどうかを知らない。彼があなたの場所を奪わないように気をつけよ。あなたは、自分の高慢によって、その場所を失うという大いに危険な状態にある」。
結論
隣人を軽率に判断するのは悪しき心だけです。時がたって、またよくよく調べてみて、隣人について言われてきたことが間違っていると分かったとき、私たちが他人を判断したり、他人に厳しいことを言ったりしたことを、しばしば、いえ実際いつも、私たちは反省しなければならないのではないでしょうか。軽率な判断という罪は、批判する者を食い尽くして地獄に導く虫なのです。
親愛なる兄弟の皆さま、
自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸いです! 天主を恐れることだけに心や精神を尽くし、天主の御赦しをこいねがうことだけに舌を使い、自分の罪に涙することだけに目を使う人は幸いです。